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あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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夏が来れば・・・

夏が来れば思い出す・・・。
はるかな尾瀬、じゃないですよ、尾瀬にはまだ行ったことはありませんから。
やっぱり、戦争とか、平和とか、核とか、命とか・・・。
夏になると考えずにはいられません。

色々考えてはいるのですが、言葉にするような、何か人に語れるような、そんなまとまったものがありません。
これでも若いころは、平和行動で、代々木公園に寝転がりに行ったり、「今戦争になったら地下活動に加わって、戦争反対のビラを張って回る」「いのちがけで闘う」とか思っていたんですけれど。
そう、なんとも、闘うのが好きな少女でした。

 ファイト!   闘う君の唄を
 闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト!   冷たい水の中を
 ふるえながらのぼってゆけ

 ファイト!      
             中島みゆき「ファイト!」より

生きるということは、自分の中の萎えていく心と闘うことなのだ、と今でも思ったりします。

 走り続けていなけりゃ 倒れちまう
 自転車みたいな この命転がして
 息はきれぎれ それでも走れ
 走りやめたら ガラクタと呼ぶだけだ、この世では
              中島みゆき「断崖-親愛なる者へ」

こう見えて(どう見えて?)結構ストイックなところがあったりします。
中島みゆきのこういう曲は、クリスチャンになる前に、とても好きだった曲です。

でもね、今は、闘うだけじゃなくて、神様に委ねることも覚えて、神様に信頼すること、感謝することも覚えて、闘うのも自分の力でがむしゃらに闘うのではない、と分かってきて、生き方も随分変わってきたと思います。

それでも、時には

 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ
       茨木のり子「自分の感受性くらい」

と、思う自分もいたりして。

キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
第2テモテ2:3

この御言葉を読んで献身の思いに導かれた割に、生ぬるーく、だらりんと日々生きている自分を反省するこの頃です。
神様はわたしの弱さも御存じ・・・ということに甘えてしまっている自分。
そのままのわたしで愛されているということと、そのままのわたしでいて良いということは違うとわかっているのに、どうも、自分には甘いんですよね・・・。

とりあえず、明日は、ちょっとしっかりピアノの練習をしようと思います。
# by s_soranotori | 2012-08-15 23:52 | 信仰・雑感
 インターネットは便利です。

 わたしにとっては主に、友人知人とコミュニケーションを取る道具です。
あとは情報収集と、たまにお買い物。
 もちろん仕事の打ち合わせや、連絡のツールとしても用いています。

 いずれにしても、あまり知らない人と、どんどんつながっていくというタイプではありません。

 基本的には、インターネットでつながっている人も、わたしにとってはリアルなお友達がほとんどです。

 インターネットで頻繁に交流していた相手が、あまりネットに顔を出さなくなったり、今までブログ中心だったのにTwitter中心になるなど、別のネットワークに行ったりしてしまうと、交流が少なくなってしまうけど、リアルな友達なら、それで友達ではなくなる訳ではありません。
 もちろん、少しは淋しさを感じます。
 かといって、それだけがつながりという訳ではないのだから、と、思うようにしています。

 逆に、知らない人からどんどんお友達申請が来ると、ちょっと戸惑ってしまいます。
 「どこかで出会った人で、わたしが忘れているのか?」
 「どうしてこの人はわたしと友達になりたいと思ったの?」
あれこれ考えて、悩んでしまいます。

 最近は、Facebookでの交流が多いのですが、mixiにしろ、Facebookにしろ、お友達申請をして下さる方は、その辺のことを一言添えてメッセージいただけるととてもすっきりします。

 先ほども書きましたが、知らない人とどんどんつながりを広げていくタイプではないので、ただ名前や公開されているプロフィールだけを見てお友達になるということは少ないです。

 こちらが一方的に知っていて、お友達になりたいと思っていても、一度もお会いしたことがないのに、わたしの方からお友達申請をするというのはよほどのことがない限りできない「引っ込み思案」なタイプなのです。

 それでもたまに、知らない人との素敵な出会いがあったり、忘れていたようなつながりが復活したりするのが、インターネットの不思議で面白いところかもしれませんね。
# by s_soranotori | 2011-07-07 21:16 | 雑感

「処世のおきて」

 わたしは夫と共に、月に一度、特別なことがない限りケアハウス(老人ホーム)に出かけて、数名の入居者の方々と聖書のお話などをする時を持っています。
 先日はそこで一人の女性が、「毎日、とてもイライラするのですが、環境のせい、健康のせい、他にやっぱり修養が足りないのでしょうか」と言われました。その時ふと頭に浮かんだのが、ゲーテの「処世のおきて」という言葉です。私はこの言葉(詩?)の出典については詳しく知りません。「アルプスの少女ハイジとともに」(高橋健二著・彌生書房刊)という、「ハイジ」の著者、ヨハンナ・シュピーリの伝記の中に引用されていた言葉として記憶に残っています。

   気持ちよい生活を作ろうと思ったら、
   済んだことにくよくよせぬこと、
   めったなことに腹を立てぬこと、
   いつも現在を楽しむこと、
   とりわけ、人を憎まぬこと、
   未来を神にまかせること。

 わたし自身も、このような生活を送ることができればさぞ、毎日気持ちよく過ごせるだろう、と思うのですが、はてさて、なかなか難しいものですね。
# by s_soranotori | 2009-02-21 00:20 | 雑感

8年前のこと…

 今日は義父の命日でした。

 わたしが結婚したのは2000年11月11日土曜日。
グイドのお父さんとは、11月10日に初めて出会って(結婚前に北海道の親戚に挨拶に行った時は行方不明というか、居場所がわからなかったのです)親戚の皆さんも含めて皆で夕食を食べ、11月11日結婚式のあと別れて、11月12日は礼拝に出席して13日から新婚旅行。
11月21日新婚旅行から帰ってきて、11月22日にグイドのお父さんが亡くなったと連絡があり、23日の早朝札幌に飛んだのでした。
 だからわたしにとって、義父との思い出はたった2日間だけでした。
それも思い出と呼べるほどのものではなく…。

 グイドは、1歳半の時にお母さんが亡くなったのですが、お父さんは子育てや家庭的なことは全く駄目な人だったようで、結局グイドはお兄さんとバラバラに親戚に預けられて育ったのだそうです。
何軒かの親戚のお世話になったようですが、一番長くいたのが広尾の伯父さんのところで、16歳からは自活。
まあ、グイドの生い立ちは紆余曲折があってわたしもよく分かっていない(というか憶えられない)部分はあるのですが、いずれにしてもお父さんと共に過ごした思い出はあまりないようです。
 そんな話を聞いていたわたしは、これからたくさんの親子らしいことを、お義父さんにもグイドにも味わわせてあげたい、と思っていたのに…。もしかしたらいつかはこちらに呼んで一緒に暮らすことになるかも、と思っていたのに…。
 あまりにもあっけなく逝ってしまったお義父さん…。
最初は交通事故だと連絡を受けたのですが、警察に行ってみたら、解剖の結果、運転中に心臓の発作か何かがあったようで、意識不明になった結果、電柱に当たったということで、事故死ではなく病死だったそうです。
恐らくそんなに苦しまずに亡くなられたのでしょう…。
 お義父さんは、結婚式の当日グイドに「ありがとうな…」とぽつりと言葉をかけられたそうです。「結婚式に呼んでくれてありがとう」だったのか、「立派に育ってくれてありがとう」だったのか…。真意はわからないのですが、色んな思いのこもっていた「ありがとう」だったのではないかと思います。

 新婚旅行から帰ってきて、当時私たちが御奉仕していた教会では「11月一杯ゆっくりして良い」と言っていただいていたのですが、結局11月一杯、葬儀と、義父の身辺整理に追われたのでした。
まだ11月でしたが、雪が降って結構つもり、泊まっていた安ホテルの近くにあった、ちょっと大型のスーパーで肌着や短いブーツを買ったっけ。

 そんなことを思い出しながら、ほとんど思い出のないお義父さんのことを思い出したくて、結婚式のビデオを出してきて見ました。
式の時のお義父さんの挨拶は不器用な人らしくしどろもどろで、笑いを誘いながらも心温まるもので、お義父さんに結婚式に出てもらえたことが何よりの思い出になったことを感謝しました。

 今日、デンマークカクタスがほころび始めました。

8年前のこと…_e0036727_23141811.jpg

# by s_soranotori | 2008-11-22 23:59 | あの日を忘れない

ゆるし・赦し・許し

 昨日の深夜、NHKで宮崎駿氏の特集番組をやっていました。

 ジブリ好きのグイドが見ていたので、途中から見て、途中で寝てしまったのですが、その中でとても印象に残った言葉がありました。

 正確ではないかもしれませんが、宮崎駿氏は「基本的に人を楽しませたい」ということを語っていた中で、
「楽しんでもらえれば自分の存在が許されるだろう。」
「楽しんでもらえれば自分の存在が無駄ではないと思える。」
といったことを語っておられたのです。

 幼少期の経験などが背景にあるようですが、こんなに有名な作品をたくさん作っているアニメーション監督でもこんなに淋しい心でおられるのかと思うと切なくなりました。
もちろん、いつもいつもそんな風に思っておられる訳ではないのでしょうが。

 ゆるしのない人生は空しいというか、哀しいというか、切ないというか…。

 わたしたちクリスチャンは、自分が生まれながらに罪びとであったことを認め、イエスキリストの十字架が自分の罪の贖いのためであったことを信じ、罪の赦しを得ています。
 罪の赦しを得ていることで、存在の許しをいただいているように思います。そして、

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43: 4

 という御言葉を一人一人が自分のものとして受け取ることができるのです。

 欠けたところも、足りないところも多く、デコボコの多いわたしだけれど、神様に赦されているから、愛されているから、わたしはいても良い。
 そして、自分の力では大したことはできないけれど、神様が用いて下さるから、わたしはきっと役に立たない者ではない。

 そんな風に信じることができるのです。

 宮崎駿氏はものすごく、アニミズム的思考の強い人だと感じますが、どうか、キリストのゆるしを知ってほしいものだと、番組を見て強く思わされました。
# by s_soranotori | 2008-10-19 00:03 | 信仰・雑感