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あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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生い立ちと信仰

 わたしが信仰を持つようになったきっかけを、生い立ちとの関係で少し書いてみようと思う。
 辻谷氏のサイトの「Good news!」でも、少し信仰を持ったきっかけを書いたが、今回はもう少し詳しくというか、別の側面で書いてみたい。
 大体、信仰を持つに至る理由は、一つではなく、色々なことが複雑に絡み合っていて立体的なものなので、これを文章という線状的性質を持つ媒体で表現することは非常に難しい。よって、書く(語る)ごとに違う側面が少しずつ現れたりするので、「前に書いていた(言っていた)ことと違う」のではなく、そういう一面もある、ということだと捕らえていただきたい。
 また、「Good news!」に書いたことと重複する部分もあるが、単独で読んで分かる文章にするためには、仕方がない部分もあるのでご了承いただきたい。

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 皆さんは「落語家」と聞いてどういう人をイメージするだろうか。実は「露の五郎」と聞いてもどんな顔かよくわからない、という方も結構おられるのではないだろうか。TVとか、マスコミに登場することが割に少ないので、そういう方がおられてもわたしはごく当たり前だと思っている。むしろ、父の名前を言っただけで「よく知っています!」と言われる方というのは「なんとまあ、奇特な方だろう」と思ったりする。
落語というのは実は非常に歴史のある伝統芸能だ。しかし、「落語」「落語家」というとどうしても「お笑い」というイメージが強いのではないだろうか。
 余談になるが、関東と関西ではこの「落語」の扱われ方が大きく違う。
 関東では、伝統芸能としての地位が確立しており、落語家といえば厳しい修行をしてきた文化人、というイメージがある。しかし関西において「落語」はあくまでも「お笑い芸」の一つであり、娯楽の対象だ。
 従来、どうも関西において「お笑い芸人」というのは一段低く見られる傾向があるように思う。今でこそ、吉本興業は上場企業で、有名人もたくさんおり、「おまえ、吉本行けるで」というのはある意味で「おまえ、おもろいやっちゃなあ」という誉め言葉になる。しかし、私が子供の頃に「おまえ、吉本行ったらええんちゃうか」というのは人を馬鹿にした言葉で、それぐらいしかなれるもんはないやろ、という意味だった。これは、明石家さんまさんなんかも言われていたことがあるように思う。
 そういう訳で、わたしは、どちらかというと人から一段低く見られるような仕事をしている父を持っていた事になる。
 昨今は、関西の落語家さんの中からも人間国宝や、叙勲を受ける方が出てこられ、関西における落語家の地位もかなり向上したかとは思うが。

 そうは言っても、わたしの育った家庭の中では、父は常にエライ人だった。父親の権威、父権というものが確立していた。父は芸人ではあったが大変真面目な人でまた厳しい面もあった。一時期は、夜の大人向けの番組によく出てたりして、結構遊び人というイメージで売っていたことがあった。しかし実際は、娘が言うのも何だけれども、非常に真面目な勉強家だ。
 しかしまあ、大阪の人というのは、やすし・きよしのやすしさんなどに代表されるように、多少くだけた人間、羽目をはずした人間のほうがオモロイ、という面があるので、うちの父なんかもそういうイメージを前面に出していた時期があったのではないかと思う。もちろん、そういう遊び心がまったくないという訳ではないが。
いずれにしても、家庭の中での父は厳しく、しつけもうるさい人だった。
 わたしは、目標を持って生きる、ということ、人道的に、道徳的に生きることを、小さい時からよく教えられたように思う。いや、改めて教えられたというよりは、家庭の中で自然と身につけさせられたというべきかも知れない。
 小学校から中学に上がる時に、将来何になるか考えて、それで中学を公立に進むか、私学に進むか、決めるように、と言われた。といっても私学に入れるだけのお金があったわけではないので、実際は公立中学に進むように誘導されていたのだけれど、とにかく目標を持つ、ということを教えられた。子供だから、まだ知識の範囲が狭いので、それが広がるにつれて変わってもよいが、とにかく、その時その時、目標を持って進むということが大事、と言われていた。
 実際、父に叱られたことはほとんどないように思う。しかし、うちの中で父は絶対的存在だった。3歳の時から内弟子さんが住み込んでいたので、自分が叱られなくても、お弟子さんが怒鳴られる姿を見て、怒らせたら怖い、ということはよくわかっていた。
しかし、わたしはそういう父のことに関して、自分では意識していなかったけれど、非常にプライドを持っていたようだ。またそれだけに「おまえのおとうちゃん、なんでテレビでえへんのや」などと言われると、非常に傷ついた。

 話はわたし自身のことになるが、わたしは中学1年生の時にいじめにあった。当時のいじめは、まだ今ほど陰湿ではなかったように思う。けれども、わたしは、自分のクラスだけでなく他のクラスの男子からも無視され、だんだんエスカレートすると「臭い、汚い」とあからさまに避けられ、輪ゴムのパチンコで紙礫の標的にされ、ある時は、体育の授業が終わって教室に戻るとクラスでこれまた一番馬鹿にされている男の子の机の上に、わたしの机をさかさまにして接着剤でくっつけてあったりしたこともあった。しかし、同じ学年にいた双子の姉はいじめられていなかったのだから、わたしのほうにも何か問題があったのだろうと、今になって思うこともある。
 ただ、わたしは、そういう経験の中からいつしか、そういうふうに自分をを傷つけたり、いじめたりした奴らを見返してやりたいと思うようになっていった。
 それとは別に、わたしは中学2、3年生の頃から舞台女優を目指すようになった。わたしは、芸能人の家庭に育ったことで、「普通」という感覚が人と少し違っていたのではないかと思う。会社員の家庭に育った方には会社員になることは普通だろうが、わたしには会社は何をするところかわからなかった。OLになるより、芸の道に進む方が「普通」だったのだ。芸能人の家に生まれ、子供の時から、歌舞伎、文楽、宝塚と芸事に親しんできたわたしにとって芸能界を目指すことは、ごく自然なことだったと思う。
 中学の時には、丁度ベルばらブームだった宝塚にどっぷりはまって宝塚通いをした。それと前後して歌舞伎にもはまって、今の片岡仁左衛門(当時・孝夫)さん、それと残念ながら今はもう亡くなられてしまった女形の澤村藤十郎さんの大ファンになり、関西に歌舞伎が来ると大阪、京都にもよく出かけた。
 父が落語家で得したこと、というのはそれほどないのだが、歌舞伎の方には色々と御縁があって、現仁左衛門さん、藤十郎さんを始め、仁左衛門さんのご兄弟、我當さんや秀太郎さん、坂東三津五郎(当時・八十助)さん、市川左団治さん、等といった方々とは何度もお会いさせていただく機会があった。
寄席にも、もちろんよく出入りしていた。子供の頃は父が吉本興業に所属していたこともあって、梅田花月、難波花月、京都花月とよく連れていってもらった。家にも、噺家さんがよく出入りされていて、特にもう20年近く前に亡くなられた林家小染さんと、桂ざこば(当時・朝丸)さんのお二人は、わたしが小さい頃、よく家にみえて、可愛がっていただいた。少し前に亡くなられた枝雀(当時・小米〔こよね〕)さんなんかも若い頃よく来られて、私の叔父の英語の家庭教師などもして下さっていたそうだ。また、数年前に、久しぶりに笑福亭仁鶴さんにお目にかかる機会があって、御挨拶すると懐かしそうに「大きなったなあ」と言われ、30歳をとうに過ぎて、今更大きなったもないなあ、とおかしくなった。
 また、わたしが小学生の頃だったか、間寛平さんが木村進さんと共に「寛平・進」で売り出し中で、よく楽屋口で大勢のファンの女性達が楽屋待ちをしていた。その中を「おはようございます」と、大人ぶって、業界人のような顔をして劇場に入っていくのはちょっとした優越感だった。
 小さい時から何度も、TVに出演した事もあったし、子供の時から、そういうふうに楽屋の雰囲気を味わっていたことも、私を芸能の道に進ませた大きな要因ではないかと思う。
 一時は宝塚に入りたい、とも思ったが、背も低いし、昔バレエを習っていた時に少し腰をいためていたこともあって迷っていた時に、新劇に出会った。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーの子供時代を描いた物語「奇蹟の人」という芝居に感動し、新劇女優になりたいと志すようになった。そして「こういう素晴らしいことを人々に伝えたい!」と思ったのだった。
 高校三年の時わたしは、大学進学する人が塾に通う代わりに大阪の劇団の養成所に通い、卒業後は上京し、演劇の専門学校(舞台芸術学院)に入った。とても楽しかった。毎日好きな芝居のことばかりを考えて、バイトをしたお金で芝居を見たり、ダンスや歌のレッスンに通ったりもした。
 それだけでなく、親元を離れたわたしは友人達とも自由に遊ぶことができた。未成年であったにもかかわらず、お酒を飲んだりタバコを吸ったり、大人の真似事をして、夜遅くまで、いや朝方まで友人たちと語り合った。
 しかし次第に、私は苦しさを覚えるようになってきた。時々自分の中がカラカラの空き瓶のようになっていることに気付いたのだ。
何かを伝えたいと思っているのに、それが何だか良くわからない。
 当時のわたしはヒューマニストであり、人間の愛の力といったようなものを信じていた。反戦運動や、人種差別問題など、様々なことに関心を持ち、社会を良くするのは、1人1人の人が、意識して変えていかなくてはならないのだと信じていた。自分自身、反戦行動に参加したこともあった。
 しかし、そのわりには自分は醜い、ちっぽけな人間だ。
 実は、わたしはそれまで、自分が結構きちんとした人間だと思っていた。高校は決して進学校という訳ではなかったけれど、大して勉強しなくてもいつもそこそこの成績を取れ、親にも厳しく躾られ、大人の中で育ったわたしは、一般常識をも備えていると自負していた。
 しかし、東京で1人暮しをしているうちにだんだん、自分のアラが、わたし自身にも見えてきた。本当の自分がさらけ出されてきたのだ。自分はいい加減で、嫉妬深く、少しも成熟した人間ではない。お酒を飲んでは友人たちと、他の仲間達のこきおろし大会をしていた。こんなくだらない人間であるわたしにいったい何ができるというのだろうか。
 わたしは人を信じたいのに信じられず、自分自身さえも信じられなくなっていった。
 そういう時に、以前友人の付き合いで行った教会のことを思い出した。なぜか、わたしは教会に行かなければならないと感じたのだ。私は、いつも電話をかける度に私を教会に誘って下さっていた一人の婦人に電話をした。
 その婦人は、教会に行く電車の中で、イエス・キリストがわたしの醜い心を知っておられ、そういう罪深いわたしのために、十字架にかかり、3日目によみがえってくださったという事実、そしてそれを信じるだけで罪が赦され永遠の命が与えられるということを教えて下った。
 その婦人は、一通り語られた後、「信じますか」と聞かれた。頭で考えるより先に、口が「信じます」と答えていた。その時わたしは、理想はあっても汚い競争社会に生きることに限界を感じており、自分の心の醜さを十分理解していた。そして人間にはそこから抜け出す力がないことを嫌と言うほど感じていた。ちょうどその時が神様の時だったのだと思う。1983年2月9日、水曜日のことだった。
 わたしは、その日以来、自分の人生がキリストによって変えられたことを、はっきりと自覚した。
以前は、何を伝えるべきか、それは曖昧なものだった。何か良いことを人に伝えたい、と思っているのに、それが何かを知っている訳ではなかった。お芝居をやるということを通して、台本を読んで、その作品が伝えようとしていることを学びながら、自分自身も成長していこう、という堂々巡りのようなものだった。
 しかし、今はイエス・キリストにゆだねられた福音という、伝えるべき真理を知っている。
 わたしは、有名になること、人に褒められることばかりを求めていた。有名になることで、自分を見下げた人たちを見返してやりたいと思っていた。
 しかし、それらのものを捨てて、イエス・キリストをのべ伝えること、それも舞台の上から大勢に語るのではなく、日々の生活の中で出会う一人一人の人に伝えていこうと思った。
 そして、「神様に、自分のこれからの一切をお任せします」と決心した時、自分をいじめた人々に対する恨みの執念も消えた。自分が握り締めていた「演劇」というものに、むしろ自分自身が縛られていたことに、その鎖から開放されて初めて気付いた。
 両親も初めは反対していた。東京からも連れ戻された。わたしも、親を裏切ったという思いがなかった訳ではない。しかし、わたしが、この道に進んでどんなにか幸せであること、喜びがあること、それを見せることしか、親を納得させる方法はないと信じて歩んできた。
とは言え、わたしの弱さを誰よりもよく知っている親を納得させるのは、口で言うほど簡単なことではなく、「クリスチャンのくせに」と何度も言われてきた。「あんたがクリスチャンになって良かったことなんか一つもない」と言われたこともある。
 しかし、今はその親も、わたし達夫婦の働きを、今の時代にとても大切なこととして応援してくれている。
 そしてすでに書いたように、わたしがイエス・キリストを信じて20年目の今年、クリスチャンとなりバプテスマ(洗礼)を受けた。これは、わたしの力でできたことではなく、ただ神様が与えて下さった恵みだ。わたしはただ感謝するほかはない。
 確かに、弱さも醜さもまだ持っている。しかしイエスさまによって赦された喜びが心にあふれている。
 今わたしは、日々、わたしなりにベストを尽くして精一杯生きている。このわたしをイエス・キリストが用いてくださるようにと願いながら。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3章11節
 わたしが、この時代のこの両親のもとに生れたことがなぜであるのか、私には分からない。けれども、これも神様の御計画の時であったのだということを感謝している。
 いつもどんな時でも、わたしたちの周りに溢れている一つ一つの出来事もまた、神様のなさったことであり、時にかなって美しいと、わたしは確信している。

(ずいぶん長くなってしまったけれど、これでもずいぶん端折って短くしたつもりなのだ。微に入り細に入り、何もかも一度に書こうとすると、長くなって仕方がないので、抜けてるところはまた、おいおい折に触れて書いていきたい。)
by s_soranotori | 2003-12-05 00:00 | 信仰・証し