あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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辻谷氏のサイトから

 今日、ふと思いついて辻ちゃんのサイトのQ&Aを全部読んでみました。
 考え方としては、非常に共感できるものが多かったです。
 というか、ほとんどそうかな。
 世代も同じだし、なんか、感覚的に、すごく近い気がしました。
 仕事とかそういうのを全部ひっくるめて、人生にとって大切なことは「どう生きるかだ」みたいなところとか。

 その中で、一つ、興味深かったことがあったので、関連記事を(といっても内容的にはあんまり関係ないんだけど)、書いてみました。

 それは、Q55の「今声優業界が求めている人材はどのような・・だと、お考えですか?」という質問への回答。
《質問の角度を変えて、僕がどんな役者さんと共演したいか・・で言えば、
「空間を感じさせてくれる役者」ですね。(後略。詳細は辻谷氏のサイトを見てください)》
 その回答を読んでいて、落語という世界と非常に通じるものがあると感じたんですよね。

 本来落語家、ってそういう空間を感じさせる人じゃないといけないんですよね。
 落語の場合、リアルな間取りというよりも、通常舞台装置的なルールがあるんですけども(例えば入り口は下手〈舞台に向かって左手〉とか)、いずれにしても、装置は何もなし、扇子と手拭だけで、後は右向いて左向いて表現しなくてはならない訳です。
 例えば落語の冒頭によく出てくるこんな台詞、
喜六「こんにちは」
清八「よぉ、きーこやないか、まあこっちあがり」
喜六はどこでこの台詞を言ってるのか、まあ大方は玄関というか、長屋の戸口でしょうけど、間口はどれくらいなのか、そこから相手までの距離はどれくらいなのか、喜六はどんなものを着て、どんな生活をしている人なのか、などなど。
 ものの飲み食いも扇子、手拭、しぐさだけで表しますけど、自分がどんな大きさの茶碗を持っているのか、お酒を飲んでいるのはお猪口か湯飲みか、なんてことも表現できないといけない訳です。
 また、時代考証なんかも結構ややこしいんですよね。というのは、落語の成立が江戸時代で、ネタが、江戸時代にできたもの、明治、大正、昭和にできたものと色々あるからなんです。お金の単位や、生活スタイルなど、それによって大きく変わってきます。
 でも、実際落語そのものは、そんなこと考えなくても、できるものなんですよね。
 で、最近はそういう細かいことを考えないで演じてしまう人が多いのかな、なんて思うことがしばしばあります(勿論、別に全部という訳じゃありません)。それでも結構面白かったりするのです。
 でも、まあ、身内のこというと手前味噌みたいになりますけど、ウチの父は、そういうところ、すごく細かい人で、「落語は究極の一人芝居」といつも言っています。
 そういう意味では、きちんと演出とかしてるんですね。舞台装置がいつもきちんと自分の頭の中にあって、どんな衣装で、とか。もちろん、演じるネタによって当日の衣装を選ぶのは落語家にとって常識的なことですが、登場人物一人一人の身形や、詳細まで頭の中できちんと描いている訳です。で、あるときは喜六が主役、別の時は清八サイドが中心、とか、変えて演じることができる。ウチの父も元々役者志望で、落語家になろう、と思ってなった訳じゃなくて、先代桂春団治師匠にスカウトされて落語家になった人なので、そういう意味では余計、芝居的要素が強いのかもしれませんが。
 そういう話をいつも聞いていたので、辻谷氏の文章を読んだ時に、大きく頷いた私なのでした。
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by s_soranotori | 2003-11-14 00:00 | 雑感