プロジェリアの少女
2004年 12月 22日
先日、遺伝子だか、DNAだかがどうとかいうTVを夫が見ていた。
わたしは家事をしていたり、詩音ちゃんとお風呂に入ったりで、一番最後のパート(?)を、それも途中から見た。
カナダに住んでいる一人の少女、人の7,8倍のスピードで、細胞が老化していってしまう難病の少女のことが紹介されていた。つまり、13歳にして、すでに肉体年齢が100歳程度に達しているという。プロジェリアと言う、難しい名前のその病を負った子供たちは世界で30人ほどだと言う。その子供達の平均寿命は13歳…。
神様はどうしてこのような病気も作られたのだろう…。
見ていて涙が溢れて溢れて仕方がなかった。
例えば、肢体にハンディキャップを持っている人を、「かわいそう」だと思ってはいけないと思う。わたしも、難病と言われる持病を持っていても「かわいそう」と思われたくはない。
そう考えれば、この少女も、「かわいそう」ではないのかもしれない。神様に与えられた誰よりも濃い時間を歩んでいるのだろう。それでも、13歳の少女の口から「I prepare to die.(字幕では「わたしは死の覚悟ができています」)」という言葉が出るのは、普通のことではないと思う。
それでも、その母親は、その少女に兄弟を与えてやりたいと、第2子の出産を決意し、出産する。たとえ、次の子供もプロジェリアであったとしても、また他のどんなハンディキャップがあっても、産む以外の選択はないと言う覚悟で…。すごいお母さんだなあ、と思った。見ればまだ若そうな女性だったけれど…。
見ていて、途中で気がついたのは、この親子がクリスチャンであるということ。母親は、教会で出会った人と再婚した、と紹介され、就寝前に、その女の子とお母さんはお祈りをしていた。
だからこそ、お母さんは、たとえ、どのようなハンディを持つ子供でも生む、と言い、少女は「死の備えができている」と、言うことができたのだろうか…。
いや、そんな簡単なものではないのだろう…。そこには想像もできない、心の葛藤も、苦しみもあった上での決断であり、言葉なのだろうと思う。
その親子を見ていながら、わたし自身は、日々の歩みを、日々の命を、どれだけ大切にしているだろうか、と改めて、考えさせられた。
いつも言っていることだけど、わたしは明日、天に召されても良いと思っている。
人は、多かれ少なかれ、死と隣り合わせの日々を送っている。
その少女は、肉体年齢も100歳かもしれないけれど、きっと、内面的にも、普通の13歳よりもずっとずっと濃い命の日々を送っていることだろう。
わたしも、そして詩音ちゃんも夫も、人は皆、明日をも知れない命なのだから、もっともっと、今日の命に感謝して、今日の命を大切に生きなければいけないのではないか、と深く心に思わされた。
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。
これは、もはや自分自身を頼まず、
死者をよみがえらせてくださる神に
より頼む者となるためでした。
コリント人への手紙第2、1章9節
今、少しネットで検索してみたら、この少女のことは、2003年の3月、2004年3月にも、TVで紹介されたらしい。今回で3度目なのだと初めて知った…。本も出版されているとのこと。
自分は、世の中で起こっていることに疎いものだと、改めて感じた…。
わたしは家事をしていたり、詩音ちゃんとお風呂に入ったりで、一番最後のパート(?)を、それも途中から見た。
カナダに住んでいる一人の少女、人の7,8倍のスピードで、細胞が老化していってしまう難病の少女のことが紹介されていた。つまり、13歳にして、すでに肉体年齢が100歳程度に達しているという。プロジェリアと言う、難しい名前のその病を負った子供たちは世界で30人ほどだと言う。その子供達の平均寿命は13歳…。
神様はどうしてこのような病気も作られたのだろう…。
見ていて涙が溢れて溢れて仕方がなかった。
例えば、肢体にハンディキャップを持っている人を、「かわいそう」だと思ってはいけないと思う。わたしも、難病と言われる持病を持っていても「かわいそう」と思われたくはない。
そう考えれば、この少女も、「かわいそう」ではないのかもしれない。神様に与えられた誰よりも濃い時間を歩んでいるのだろう。それでも、13歳の少女の口から「I prepare to die.(字幕では「わたしは死の覚悟ができています」)」という言葉が出るのは、普通のことではないと思う。
それでも、その母親は、その少女に兄弟を与えてやりたいと、第2子の出産を決意し、出産する。たとえ、次の子供もプロジェリアであったとしても、また他のどんなハンディキャップがあっても、産む以外の選択はないと言う覚悟で…。すごいお母さんだなあ、と思った。見ればまだ若そうな女性だったけれど…。
見ていて、途中で気がついたのは、この親子がクリスチャンであるということ。母親は、教会で出会った人と再婚した、と紹介され、就寝前に、その女の子とお母さんはお祈りをしていた。
だからこそ、お母さんは、たとえ、どのようなハンディを持つ子供でも生む、と言い、少女は「死の備えができている」と、言うことができたのだろうか…。
いや、そんな簡単なものではないのだろう…。そこには想像もできない、心の葛藤も、苦しみもあった上での決断であり、言葉なのだろうと思う。
その親子を見ていながら、わたし自身は、日々の歩みを、日々の命を、どれだけ大切にしているだろうか、と改めて、考えさせられた。
いつも言っていることだけど、わたしは明日、天に召されても良いと思っている。
人は、多かれ少なかれ、死と隣り合わせの日々を送っている。
その少女は、肉体年齢も100歳かもしれないけれど、きっと、内面的にも、普通の13歳よりもずっとずっと濃い命の日々を送っていることだろう。
わたしも、そして詩音ちゃんも夫も、人は皆、明日をも知れない命なのだから、もっともっと、今日の命に感謝して、今日の命を大切に生きなければいけないのではないか、と深く心に思わされた。
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。
これは、もはや自分自身を頼まず、
死者をよみがえらせてくださる神に
より頼む者となるためでした。
コリント人への手紙第2、1章9節
今、少しネットで検索してみたら、この少女のことは、2003年の3月、2004年3月にも、TVで紹介されたらしい。今回で3度目なのだと初めて知った…。本も出版されているとのこと。
自分は、世の中で起こっていることに疎いものだと、改めて感じた…。
by s_soranotori
| 2004-12-22 00:00
| 雑感