あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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愛を下さい(一篇の詩を読んで)

 一番好きな詩人は、子供のころからずっと新川和江さんなのだけれど、もう1人、気になる方が居て、先日、その方の詩集をぱらぱらとめくっていたら、心にずしりと感じる詩があった。
 その方、というのは茨木のり子さんなのだけど、茨木のり子さんの詩は、心地のよい響きの中に、時折手厳しいことばがスパッと心に入ってくる。
 「自分の感受性くらい」という詩では、

  自分の感受性くらい
  自分で守れ
  ばかものよ

と、ばっさりやられた。
もちろんこの1連だけを読んでも、この詩の味わいは伝わらないのだけれど。
 今回心に「ずしり」ときた詩は、「倚りかからず」と言う詩集の中にある。
 この詩集の表題になっている「倚りかからず」という詩は、自立した女性のりんとした強さを感じさせる詩で、これはこれで背筋がビシッと伸びる思いのする詩ではある。
この詩に惹かれてこの詩集を買ったのだけれど、今回、今まで読み過ごしていた一篇に目が留まった。
 タイトルは「マザー・テレサの瞳」
クリスチャンでない茨木さんが、どのように、マザー・テレサを見ておられたのか、とふと気になって読み返してみた。
そのなかで心にとまった一節

   外科手術の必要な者に
   ただ繃帯を巻いて歩いただけと批判する人は
   知らないのだ
   瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
   慰藉(いしゃ)の意味を
   死にゆく人のかたわらにただ寄り添って
   手を握りつづけることの意味を

   ――――言葉が多すぎます
   といって一九九七年
   その人は去った

 この詩を読んで、改めて、マザー・テレサのした偉業に思いを馳せた。
 わたしは、愛を表したいと、神様の御心を行いたいと願っていながら、何と偽りの多いものか。
悪戯に言葉を並べていながら、わたしの内には、何も、愛のひとかけらもないことを示されている。
 わたしは高慢で自己中心、いじわるで心が狭く、薄情で冷淡、短気で人を責めやすく、自分の心は僻み、人を嫉み、口では立派なことばかり言う者だ。これほどまでに愛がないか、と思い知らされることばかりだ。
 本当に苦労した人は、「わたしは苦労しました」などとは言わない(それを敢えて言わなければならない状況でない限り)。本当に愛のある人は「わたしは多くの犠牲を払いました」とは言わない。「忍耐しました」とも「わたしは寛容です」とも言わない。ただ、黙ってそうするのだろう。そして、マザー・テレサは正にそのような人だっただろう。
クリスチャンではない多くの人の心を動かした、マザー・テレサの無言の行い、無言の愛の瞳は、どんなにか、深い色をしていたことだろう。
わたしとは程遠いことだけは、間違いない。

 わたしも、マザー・テレサのようにはなれなくても、せめて、わたしに神様が与えてくださった道を、まっすぐに歩むものとされたい。
 神様、わたしに愛を与えてください。


引用:
「自分の感受性くらい」:茨木のり子、花神社刊、「自分の感受性くらい」より
「マザーテレサの瞳」:茨木のり子、筑摩書房刊、「倚りかからず」より
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by s_soranotori | 2005-01-08 00:00 | 雑感