あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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イースターに思うこと


 この春、わたしには心に一つの思いが与えられた。
道が開かれれば神様の御心、と思いながら祈っていた。
最初はグイド(夫)にだけ話して、それから祈りつつ計画を進めて行った。
かなりの困難が予想されたけれど、グイドはわたしの気持ちを理解して協力すると言ってくれた。
途中からはすっかりその気になって、もう道は開かれたとばかりに姉と母にも話した。
けれども、あとは一歩を踏み出すばかり、という時になって、心の中にストップがかかった。
今、わたしが一番大切にすべきことはそれではない、と…。
そして、もしわたしがその計画を推し進めると、わたしは今よりもっともっと高慢の罪に陥ると(今でさえ高慢の罪に悩まされているのに)示された。
結局、計画は断念した。
少なくとも「時は今ではない」と。

 実は、その前にもう一つ砕かれた思いがあった。
自分のことではなかったが、「実現したら素敵だな」と言う思いがあった。
初めから無理だとわかっていたのに、それに反して「実現して欲しい」という願望があった。
でも結局、それはやはり無謀な思いだった。
わたしの思いは打ち砕かれた。

 この2つの事を通して、何度も泣いた。
それだけではなく、とても苦しい時期があった。
一つ目のことはエル(娘)に関することで、この思いが打ち砕かれた為に、一時期エルの事を愛し難くなってしまったのだ。
いつも、イライラして叱ることはあっても、すぐに忘れ、朝な夕なに「可愛い、可愛い」と思って過ごしていたのに、それができなくなってしまったのだ。
自分でも苦しかった。エルへの愛情がその程度のものだということが自分でも悲しかった。
 その後、2つ目の、自分に関する思いが与えられ、また希望が与えられたことで、娘に対する思いも回復した。
けれども結局、この2つ目の思いも砕かれた。
 しかし今では、この2つの事柄が無関係ではなかったこと、2つともが神様の摂理の内に起こったことを感謝している。
今は神様の御心の時ではなかったのだと。
なぜだか、絶対に道が閉ざされたと言う思いはない。
「時」ではなかった、と言うこと、そして今は道を閉ざされたことが時にかなって麗しいことなのだと感じている。
そしてまたいつか時が来れば、そしてそれが本当に私に相応しいことなら道は開かれていくだろうと。

 少し前にも書いたけれど、「謙遜」と言うのがずっと、最近のわたしの課題。
ずっと自覚していることだけれど、わたしはとても高慢な人間だ。
今回、神様は、わたしが高慢になる前に「高慢の芽」を摘み取ってくださったのだと思っている。
そして、それらのことは決して「ダメ」と言う絶望ではなく、「いつか時が来る」という希望が与えられている。
それで今はこの事を感謝している。

 さてその一方で、やっぱり心はどこかで静かに戸惑い、停滞していた。
「それならばわたしは何をすればいいのですか?」と。
いや、すべきことは目の前にたくさんあるのに、それらに対する意欲が湧いてこない。
このままではいけない、という焦りを感じることもあった。

 こんな時に限って、神様からのチャレンジはどんどん押し寄せてくる。
いや、むしろ自分が蒔いた種の刈り取りと言うべきか。
 元来わたしは、まったくと言っていいほどリーダーシップのない人間だ。
自分が中心になって何かを進めるのは大嫌い。
それなのに、でしゃばり精神みたいなものもどこかに潜んでいてついつい色んなことに口を出してしまい、自分が動かなくてはならなかったりする。
こんな時に限ってそういう事柄が押し寄せてくるのだ。

 思いと思いとの狭間に押し潰されそうになってどうしていいかわからなくなっているときに、あるブログで「勝ちに行く」という言葉を見た。
受難週であるその時期に、敢えて「勝ちに行く」と宣言されたそのことばにハッとした。
わたしが信じている神、イエス・キリストは勝利の主、この神を信じているわたしが何をフラフラしているのだろう…。

 まだ、完全に回復したという訳ではない。
でも、イースターのこのとき、わたしはもう一度原点に戻る事を教えられた。
あの、イエス・キリストを信じ、十字架の血潮に与り、罪の贖いの為の死と葬りと復活を信じて救われたあのときの喜びと力をもう一度思い起こして、力強く、一歩を踏み出そうと…。

 とは言え、心は熱していても肉体は弱いわたしだ(それを言い訳にしているところがさらに情けない)。
まだまだ、エンジンがかかるまでに時間がかかりそうだけれど、ここにこうして書き記すことで、また新たな種を蒔こうと思う。
神様の力により頼みつつ…。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
ピリピ人への手紙2章3節~11節

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by s_soranotori | 2007-04-09 13:38 | 信仰・証し