あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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神様からの取扱い

 ここ数日、とても落ち込んでいた。
いや、落ち込んでいたというのではないけれど、考え、祈り、考え、祈り…。
深いところをさまよっていた。
それで書いたのが、7月23日の日記だった。

 それを読んだ、ある人から、「神様の働きをバリバリしているのを、羨ましく思ってた」と言われた。
 確かに、日記を読んでいるとそう見えるかもしれない。いや、むしろそう見せていたのかもしれない。
けれども、本当は生ぬるくて、自分でも情けない状態だった。
愛がない。
人を裁いてばかり。
用いられている人を見ては 羨ましくなって…。
昔よく、「牧師同士でもよその教会が大きくなると妬むことがある」と言うような話を聞かされたけど、同じ過ちに陥っていた。大きく用いられている人を見ると羨ましく、いや妬ましく見ていたのだ。
そのくせ、何も努力をしようとせず、ただ人の目を気にして、内にこもって、じっと身をひそめて自分を守っているだけの者だったのだ。

 霊的な状態がいい時にはちゃんと受け止められる。
人にはそれぞれの場所があるのだ、と。
確かに、わたしも、いろんな教会や集会で賛美させてもらったり、よその教会でもメッセージさせてもらったり、 分不相応に用いられていると、畏れ多くなる。

 でも、霊的状態が悪くなると「自分」が前に出て、自分が栄光を受けたくなってしまう。
もともと女優を目指していたぐらいだから、肉の性質としてそういうのが強く残っているのだと思う。

 だから事あるごとに、思い起こして、悔い改めて、ささげなおさなければならないのだ。
自我をささげるというのか…、明け渡す、という方が適切かもしれない。
そういう悔い改めは折に触れて必要なのだと思う。

 今回のコトの発端は、ある教会にお招きを受けたことだった。

 最初、その教会にはわたしは一緒に行かないことになっていた。特に奉仕のご依頼もなかったし、父も証しだけのご奉仕ということだったので、わたしが行かなくても大丈夫だと思っていた。
もちろん、証しだけのご奉仕でも、遠方や特別なことがない限りほとんどはサポートのために父と同行している。けれども、その日はわたしの属している教会も特別伝道集会なので、わたしが教会をあけるわけにはいかず、両親だけで行ってもらう予定をしていた。
 ところが、最近になって、先方から
「一緒に来て下さるんですよね」と確認してこられ、
「いや…、その日は行けないんです」というと
「賛美してもらいたかった」と、とても残念がられた。
その言葉を聞くと、わたしの中で「賛美したい」という思いが強くなって、行けないことにすごくがっかりした。
けれども、一番がっかりしたのはその教会に行けなかったことではなく、がっかりした自分自身に対してだった。
わたしはどこに召されているのか、まず一番に仕える場所はどこなのか、それを考えたら、迷ったりがっかりしたりするはずない、と思ったからだ。
わたしは、人前で「賛美」ではなくて「歌」を歌いたかっただけなのだ。そう気付いて自分で自分にがっかりした。
わたしは神の栄光ではなく、自分の栄光を求めていたのだ。

 実は今年の2月に父がご奉仕させて頂いたある集会でも、わたしも一緒にお招きを受けたのだけれど、教会総会と重なっていたのでわたしは一緒にうかがうことができなかった。
その時のことも引きずっていたので、何重にもがっかりしたのだと思う。
つまり、前にも賛美させていただく機会を失ったことに対するがっかり、そしてそれにこだわっていた自分に対するがっかり、そして今回のがっかり…。

 それらのことに気付かされ、がっかりの中から23日24日と、神様を見上げて祈って、ゆだねて、わたしが召されている教会をさらに愛し、そこでしっかり主に仕えさせていただこう、と改めて思い至ることができた。
賛美も、決して自分が前に出て、自分が栄光を受けるためではなく、神様の必要とされる時に、ただ神様のご栄光のためだけにさせていただけるように、わたしが本当の賛美をささげることができるようにと、改めて心から願い、祈った。

 そこから新たな展開が始まった。 
まず24日の夜、ある教会の先生から、「秋の特伝の日に賛美をお願いします」と言われた。
そして今日、件の教会の方が打ち合わせに来られて、どうしてもわたしに一緒に来て賛美してほしいので、それに合わせて日程を変更させてもらえないか、と言って下さった。

 神様のなさることに、畏れを覚えた。
神様は、間違ったところに陥っていたわたしを砕いて下さったのだ。
より深い罪に陥らないように、守り、導き、教えて下さったのだ。
その上で、賛美の機会を与えて下さった…。
わたしが間違った心のまま賛美することがないように、導いて下さったのだ。
そう思うと本当に、こんなわたしを、神様が用いようとして下さることがなお不思議でならない。
本当にわたしは未熟な、あかんたれなのに…。

 わたしは、また繰り返し同じところに陥るだろう。
もちろん、そうしたくはないし、そうならないように努力もしよう。
けれども、わたしの肉の弱さは、きっと同じことを繰り返すだろう。
こんなわたしの弱さを、イエス様はすべて御存じなのだ。
わたしのすべての弱さ、愚かさを知られていることは何とも恥ずかしいことだ。
けれども、それをすべて御存じの上で、なおわたしを愛し、導き、時に矯正して、用いてくださることは、それ以上に大きな喜びであり、神様に感謝せずにはいられない。

 「わたしを用いてください」と願うことは、大それた不遜な祈りなのかもしれない。
自分の中に用いていただける何か良いことがあるとでも思っているかのようだ。
確かに、わたしから生まれるものにはなにも良いものはない。
けれども、主はわたしを「よいもの」として作って下さった。
以前も引用した三浦綾子さんの言葉によれば、神様は役に立たないものをおつくりになられるほど愚かではない、とのことだ。
いや、以前は役に立たないものであったかもしれないわたしは、主にあって新しく生まれ、真に「オネシモ(★)」とならせていただくことができるのだ。


 どうか何度でも、道から迷い出るわたしを主が連れ戻して下さいますように。
同じところをぐるぐる回る愚かな者でも、螺旋階段のように、少しずつ高みへと引き上げてくださいますように。
わたしを、真の賛美へと導いて下さいますように。たとえそれができなくても、少しずつでも真の賛美に近付いていくことができますように。
いつでもわたしが、賛美だけでなく、喜んですべてのものを主の御前に差し出すことができますように。
どうか、主の御栄光のみが輝きますように。
わたしではなく、主の御名が高められますように。



★「オネシモ」
聖書の「ピレモンへの手紙」に出てくる、ピレモンの元奴隷。
ピレモンのものを盗んだか何か、大きな損害を与えてピレモンのところを逃げ出したが、ローマでパウロに出会い、改心し、イエス・キリストを信じる者となった。
「オネシモ」とは「有益な」という意味。
彼は、その書簡の中で、パウロに

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」と書かれている。
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by s_soranotori | 2007-07-25 23:59 | 信仰・証し