イエスの母マリヤ(主にマルコの福音書とルカの福音書よりの考察)
2007年 12月 30日
学生時代に書いたレポートの一部です。
映画「マリア」を見て、このレポートのことを思い出しましたので、懐かしくひっぱりだしました。
書いたのは、1990年の初めごろだと思います。
「福音書」という授業で、マルコの福音書とルカの福音書を学んだところで書いたレポートでしたので、主にこの二つの福音書よりの考察となっています。
(映画についてはこちらにレビューを書きました)
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1)マリヤは主に明け渡した
わたしがマリヤのことを考える時の最も印象的な言葉として思い出すのはルカ1:38の御言葉です。
「本当に、わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
マリヤはメシヤが来られることを知っていました。また神の御言葉に親しむことによって神を知っていました。そして神である主に深い尊敬の念を抱いていました。マリヤは神が、御自身を敬う者に対して恵み深くあられること、そして神が、この世的な権力を持っていない者たち、社会的地位の低い人々を通して働くのを好まれる方であることを知っていました。マリヤは社会的地位を持っていたでしょうか。富を持っていたでしょうか。答えは否です。あるいは神はそのような者であったからこそ、用いるべき器としてマリヤを選ばれたのかもしれないと思います。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」マリヤ自身のこの言葉はこの後、マリヤの生涯を通して証しされていくものとなっていきました。
2)マリヤは犠牲を払った
マリヤは主の母という素晴らしい特権を受けながら、そうであればこそ、とも言うべき犠牲を払わねばなりませんでした。その中の一つはこの受胎告知の時以来起こったと言えるのではないでしょうか。
マリヤはまだ婚約中でありながらその胎に子を宿したのです。周囲の人はいつ頃このことに気が付いたかはわかりませんが、おそらく人々が気付いた時、マリヤはその人々の心ない噂に傷ついたこともあったのではないでしょうか。その時マリヤはどうしたのでしょうか。ただ信仰をもって忍耐しているしかなかったのでしょうか。このことを想像すると本当にマリヤの献身的な信仰の姿勢に心を打たれます。またヨセフも聖書の他の個所(マタイ1:19,20)を参考にするなら、このことで思い悩んだことがわかります。たとえ一時ではあっても許婚にさえ疑われなければならないようなことがあったことは事実なのです。結果としてはヨセフも信仰によって、その純潔性において周囲の人々に疑問視されているマリヤをめとるという犠牲を払ったということができるのではないでしょうか。
おそらくそのようなマリヤにとってエリサベツと共に過ごしたひと時は非常に慰めの多い時となったに違いありません。また、マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)に現れているマリヤの謙遜な信仰こそがマリヤの喜びと平安のすべての基となっているのではないかと思います。
3)母としてのマリヤ
母としてのマリヤを見ていく時に印象に残る言葉は、
「しかしマリヤはこれらのことをすべて心に収めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)
「母はこれらのことをみな、心にとどめておいた。」(ルカ2:51)
といった言葉です。
イエス様が、おそらく洞穴であったであろう家畜小屋でお生まれにならなければならないことは、たとえ預言によって知っていたとしても、キリストにふさわしい場所とは考えにくいことなのではないでしょうか。しかしその夜、奇跡は起こり、御使いの賛美は響き、羊飼いたちは礼拝しに来ました。マリヤは改めて自分の産んだ子がメシヤであることを確信し、感謝し、喜んだことでしょう。けれどもこのとき、マリヤは一体どんな気持ちで“心に納め”どんな“思いを巡らしていた“のでしょうか。こののち、エルサレムでシメオンに「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と言われた時、12歳のイエス様に「どうして、わたしをお捜しになったのですか。」と言われた時、どのようなことを感じ、何を思っていたのだろう、と思わずにいられません。
やがて、メシヤとしての働きと宣教のために、自分の元を離れていくイエス様、それはもはや自分の息子ではないということを、どのように受け止めていったのでしょうか。
4)イエス様に従ったマリヤ
信じる私たちにはとても感謝だけれども、イエス様の母マリヤにとってはとても辛い言葉だったのではないかと思う御言葉が一つあります。それはマルコ3:33-35です。
「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」
もし、私がマリヤなら、きっとつまずいてしまったのではないかと思うのです。けれど、マリヤはこのとき既に信じていたこと、イエス様がメシヤであるというその信仰によって、もはや、自分とイエス様は親子ではなく、メシヤとそれに従う者、という立場をはっきりと確信したのではないでしょうか。マリヤは福音書の後半においてあまり目立つ女性ではありません。その意味ではベタニヤのマリヤやマグダラのマリヤの方が目立つ存在と言えるかもしれません。けれども聖書の他の個所(ヨハネ19:25-27、使徒1:14)を見ると、マリヤはイエス様の十字架まで、また復活の証人として、イエス様の御足の跡に従ったことがわかります。たとえ、どんなに信仰深かったとしても、たとえ他人のようにさえなっていたとしても、御自分の産んだ一人の子が十字架につけられるのを見る母の心はどのようなものか、そこには想像だにできないものがあるのではないでしょうか。その十字架のもといおいて、マリヤの、その名の本当の意味「苦さ」を理解できるのではないでしょうか。
マリヤは、救い主の母という、ある意味で最も素晴らしい特権に与りながら、最も辛い試練に遭った女性ということができるのではないでしょうか。
マリヤも人の子である以上罪人には違いないのですが、いつもマリヤについて学ぶ時、自分には到達し得ないほどの信仰の姿を教えられます。
結論
今まで、マリヤについて、素晴らしい女性だと思いながら、ほとんど完璧な女性、自分にはとても到達できない女性、という思いが強かったのですが、今回学んだことを通して、マリヤの人間的な弱さ、悲しみ、信仰について教えられ、マリヤは決して到達できない女性ではなく、続けてわたしたちが信仰の良き模範とすべき女性と教えられました。
映画「マリア」を見て、このレポートのことを思い出しましたので、懐かしくひっぱりだしました。
書いたのは、1990年の初めごろだと思います。
「福音書」という授業で、マルコの福音書とルカの福音書を学んだところで書いたレポートでしたので、主にこの二つの福音書よりの考察となっています。
(映画についてはこちらにレビューを書きました)
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1)マリヤは主に明け渡した
わたしがマリヤのことを考える時の最も印象的な言葉として思い出すのはルカ1:38の御言葉です。
「本当に、わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
マリヤはメシヤが来られることを知っていました。また神の御言葉に親しむことによって神を知っていました。そして神である主に深い尊敬の念を抱いていました。マリヤは神が、御自身を敬う者に対して恵み深くあられること、そして神が、この世的な権力を持っていない者たち、社会的地位の低い人々を通して働くのを好まれる方であることを知っていました。マリヤは社会的地位を持っていたでしょうか。富を持っていたでしょうか。答えは否です。あるいは神はそのような者であったからこそ、用いるべき器としてマリヤを選ばれたのかもしれないと思います。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」マリヤ自身のこの言葉はこの後、マリヤの生涯を通して証しされていくものとなっていきました。
2)マリヤは犠牲を払った
マリヤは主の母という素晴らしい特権を受けながら、そうであればこそ、とも言うべき犠牲を払わねばなりませんでした。その中の一つはこの受胎告知の時以来起こったと言えるのではないでしょうか。
マリヤはまだ婚約中でありながらその胎に子を宿したのです。周囲の人はいつ頃このことに気が付いたかはわかりませんが、おそらく人々が気付いた時、マリヤはその人々の心ない噂に傷ついたこともあったのではないでしょうか。その時マリヤはどうしたのでしょうか。ただ信仰をもって忍耐しているしかなかったのでしょうか。このことを想像すると本当にマリヤの献身的な信仰の姿勢に心を打たれます。またヨセフも聖書の他の個所(マタイ1:19,20)を参考にするなら、このことで思い悩んだことがわかります。たとえ一時ではあっても許婚にさえ疑われなければならないようなことがあったことは事実なのです。結果としてはヨセフも信仰によって、その純潔性において周囲の人々に疑問視されているマリヤをめとるという犠牲を払ったということができるのではないでしょうか。
おそらくそのようなマリヤにとってエリサベツと共に過ごしたひと時は非常に慰めの多い時となったに違いありません。また、マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)に現れているマリヤの謙遜な信仰こそがマリヤの喜びと平安のすべての基となっているのではないかと思います。
3)母としてのマリヤ
母としてのマリヤを見ていく時に印象に残る言葉は、
「しかしマリヤはこれらのことをすべて心に収めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)
「母はこれらのことをみな、心にとどめておいた。」(ルカ2:51)
といった言葉です。
イエス様が、おそらく洞穴であったであろう家畜小屋でお生まれにならなければならないことは、たとえ預言によって知っていたとしても、キリストにふさわしい場所とは考えにくいことなのではないでしょうか。しかしその夜、奇跡は起こり、御使いの賛美は響き、羊飼いたちは礼拝しに来ました。マリヤは改めて自分の産んだ子がメシヤであることを確信し、感謝し、喜んだことでしょう。けれどもこのとき、マリヤは一体どんな気持ちで“心に納め”どんな“思いを巡らしていた“のでしょうか。こののち、エルサレムでシメオンに「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と言われた時、12歳のイエス様に「どうして、わたしをお捜しになったのですか。」と言われた時、どのようなことを感じ、何を思っていたのだろう、と思わずにいられません。
やがて、メシヤとしての働きと宣教のために、自分の元を離れていくイエス様、それはもはや自分の息子ではないということを、どのように受け止めていったのでしょうか。
4)イエス様に従ったマリヤ
信じる私たちにはとても感謝だけれども、イエス様の母マリヤにとってはとても辛い言葉だったのではないかと思う御言葉が一つあります。それはマルコ3:33-35です。
「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」
もし、私がマリヤなら、きっとつまずいてしまったのではないかと思うのです。けれど、マリヤはこのとき既に信じていたこと、イエス様がメシヤであるというその信仰によって、もはや、自分とイエス様は親子ではなく、メシヤとそれに従う者、という立場をはっきりと確信したのではないでしょうか。マリヤは福音書の後半においてあまり目立つ女性ではありません。その意味ではベタニヤのマリヤやマグダラのマリヤの方が目立つ存在と言えるかもしれません。けれども聖書の他の個所(ヨハネ19:25-27、使徒1:14)を見ると、マリヤはイエス様の十字架まで、また復活の証人として、イエス様の御足の跡に従ったことがわかります。たとえ、どんなに信仰深かったとしても、たとえ他人のようにさえなっていたとしても、御自分の産んだ一人の子が十字架につけられるのを見る母の心はどのようなものか、そこには想像だにできないものがあるのではないでしょうか。その十字架のもといおいて、マリヤの、その名の本当の意味「苦さ」を理解できるのではないでしょうか。
マリヤは、救い主の母という、ある意味で最も素晴らしい特権に与りながら、最も辛い試練に遭った女性ということができるのではないでしょうか。
マリヤも人の子である以上罪人には違いないのですが、いつもマリヤについて学ぶ時、自分には到達し得ないほどの信仰の姿を教えられます。
結論
今まで、マリヤについて、素晴らしい女性だと思いながら、ほとんど完璧な女性、自分にはとても到達できない女性、という思いが強かったのですが、今回学んだことを通して、マリヤの人間的な弱さ、悲しみ、信仰について教えられ、マリヤは決して到達できない女性ではなく、続けてわたしたちが信仰の良き模範とすべき女性と教えられました。
by s_soranotori
| 2007-12-30 02:49
| 聖書の人物