♪Sunnyのもの想い
2012-08-16T00:58:20+09:00
s_soranotori
あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。
Excite Blog
夏が来れば・・・
http://soranotori.exblog.jp/18638891/
2012-08-15T23:52:00+09:00
2012-08-16T00:58:20+09:00
2012-08-16T00:54:49+09:00
s_soranotori
信仰・雑感
はるかな尾瀬、じゃないですよ、尾瀬にはまだ行ったことはありませんから。
やっぱり、戦争とか、平和とか、核とか、命とか・・・。
夏になると考えずにはいられません。
色々考えてはいるのですが、言葉にするような、何か人に語れるような、そんなまとまったものがありません。
これでも若いころは、平和行動で、代々木公園に寝転がりに行ったり、「今戦争になったら地下活動に加わって、戦争反対のビラを張って回る」「いのちがけで闘う」とか思っていたんですけれど。
そう、なんとも、闘うのが好きな少女でした。
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
ファイト!
中島みゆき「ファイト!」より
生きるということは、自分の中の萎えていく心と闘うことなのだ、と今でも思ったりします。
走り続けていなけりゃ 倒れちまう
自転車みたいな この命転がして
息はきれぎれ それでも走れ
走りやめたら ガラクタと呼ぶだけだ、この世では
中島みゆき「断崖-親愛なる者へ」
こう見えて(どう見えて?)結構ストイックなところがあったりします。
中島みゆきのこういう曲は、クリスチャンになる前に、とても好きだった曲です。
でもね、今は、闘うだけじゃなくて、神様に委ねることも覚えて、神様に信頼すること、感謝することも覚えて、闘うのも自分の力でがむしゃらに闘うのではない、と分かってきて、生き方も随分変わってきたと思います。
それでも、時には
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
茨木のり子「自分の感受性くらい」
と、思う自分もいたりして。
キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
第2テモテ2:3
この御言葉を読んで献身の思いに導かれた割に、生ぬるーく、だらりんと日々生きている自分を反省するこの頃です。
神様はわたしの弱さも御存じ・・・ということに甘えてしまっている自分。
そのままのわたしで愛されているということと、そのままのわたしでいて良いということは違うとわかっているのに、どうも、自分には甘いんですよね・・・。
とりあえず、明日は、ちょっとしっかりピアノの練習をしようと思います。
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【わたしとインターネット】
http://soranotori.exblog.jp/15079073/
2011-07-07T21:16:06+09:00
2011-07-07T21:16:03+09:00
2011-07-07T21:16:03+09:00
s_soranotori
雑感
わたしにとっては主に、友人知人とコミュニケーションを取る道具です。
あとは情報収集と、たまにお買い物。
もちろん仕事の打ち合わせや、連絡のツールとしても用いています。
いずれにしても、あまり知らない人と、どんどんつながっていくというタイプではありません。
基本的には、インターネットでつながっている人も、わたしにとってはリアルなお友達がほとんどです。
インターネットで頻繁に交流していた相手が、あまりネットに顔を出さなくなったり、今までブログ中心だったのにTwitter中心になるなど、別のネットワークに行ったりしてしまうと、交流が少なくなってしまうけど、リアルな友達なら、それで友達ではなくなる訳ではありません。
もちろん、少しは淋しさを感じます。
かといって、それだけがつながりという訳ではないのだから、と、思うようにしています。
逆に、知らない人からどんどんお友達申請が来ると、ちょっと戸惑ってしまいます。
「どこかで出会った人で、わたしが忘れているのか?」
「どうしてこの人はわたしと友達になりたいと思ったの?」
あれこれ考えて、悩んでしまいます。
最近は、Facebookでの交流が多いのですが、mixiにしろ、Facebookにしろ、お友達申請をして下さる方は、その辺のことを一言添えてメッセージいただけるととてもすっきりします。
先ほども書きましたが、知らない人とどんどんつながりを広げていくタイプではないので、ただ名前や公開されているプロフィールだけを見てお友達になるということは少ないです。
こちらが一方的に知っていて、お友達になりたいと思っていても、一度もお会いしたことがないのに、わたしの方からお友達申請をするというのはよほどのことがない限りできない「引っ込み思案」なタイプなのです。
それでもたまに、知らない人との素敵な出会いがあったり、忘れていたようなつながりが復活したりするのが、インターネットの不思議で面白いところかもしれませんね。
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「処世のおきて」
http://soranotori.exblog.jp/9659906/
2009-02-21T00:20:00+09:00
2009-02-21T00:24:59+09:00
2009-02-21T00:21:22+09:00
s_soranotori
雑感
先日はそこで一人の女性が、「毎日、とてもイライラするのですが、環境のせい、健康のせい、他にやっぱり修養が足りないのでしょうか」と言われました。その時ふと頭に浮かんだのが、ゲーテの「処世のおきて」という言葉です。私はこの言葉(詩?)の出典については詳しく知りません。「アルプスの少女ハイジとともに」(高橋健二著・彌生書房刊)という、「ハイジ」の著者、ヨハンナ・シュピーリの伝記の中に引用されていた言葉として記憶に残っています。
気持ちよい生活を作ろうと思ったら、
済んだことにくよくよせぬこと、
めったなことに腹を立てぬこと、
いつも現在を楽しむこと、
とりわけ、人を憎まぬこと、
未来を神にまかせること。
わたし自身も、このような生活を送ることができればさぞ、毎日気持ちよく過ごせるだろう、と思うのですが、はてさて、なかなか難しいものですね。
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8年前のこと…
http://soranotori.exblog.jp/9058022/
2008-11-22T23:59:00+09:00
2008-11-24T23:15:14+09:00
2008-11-24T23:12:40+09:00
s_soranotori
あの日を忘れない
わたしが結婚したのは2000年11月11日土曜日。
グイドのお父さんとは、11月10日に初めて出会って(結婚前に北海道の親戚に挨拶に行った時は行方不明というか、居場所がわからなかったのです)親戚の皆さんも含めて皆で夕食を食べ、11月11日結婚式のあと別れて、11月12日は礼拝に出席して13日から新婚旅行。
11月21日新婚旅行から帰ってきて、11月22日にグイドのお父さんが亡くなったと連絡があり、23日の早朝札幌に飛んだのでした。
だからわたしにとって、義父との思い出はたった2日間だけでした。
それも思い出と呼べるほどのものではなく…。
グイドは、1歳半の時にお母さんが亡くなったのですが、お父さんは子育てや家庭的なことは全く駄目な人だったようで、結局グイドはお兄さんとバラバラに親戚に預けられて育ったのだそうです。
何軒かの親戚のお世話になったようですが、一番長くいたのが広尾の伯父さんのところで、16歳からは自活。
まあ、グイドの生い立ちは紆余曲折があってわたしもよく分かっていない(というか憶えられない)部分はあるのですが、いずれにしてもお父さんと共に過ごした思い出はあまりないようです。
そんな話を聞いていたわたしは、これからたくさんの親子らしいことを、お義父さんにもグイドにも味わわせてあげたい、と思っていたのに…。もしかしたらいつかはこちらに呼んで一緒に暮らすことになるかも、と思っていたのに…。
あまりにもあっけなく逝ってしまったお義父さん…。
最初は交通事故だと連絡を受けたのですが、警察に行ってみたら、解剖の結果、運転中に心臓の発作か何かがあったようで、意識不明になった結果、電柱に当たったということで、事故死ではなく病死だったそうです。
恐らくそんなに苦しまずに亡くなられたのでしょう…。
お義父さんは、結婚式の当日グイドに「ありがとうな…」とぽつりと言葉をかけられたそうです。「結婚式に呼んでくれてありがとう」だったのか、「立派に育ってくれてありがとう」だったのか…。真意はわからないのですが、色んな思いのこもっていた「ありがとう」だったのではないかと思います。
新婚旅行から帰ってきて、当時私たちが御奉仕していた教会では「11月一杯ゆっくりして良い」と言っていただいていたのですが、結局11月一杯、葬儀と、義父の身辺整理に追われたのでした。
まだ11月でしたが、雪が降って結構つもり、泊まっていた安ホテルの近くにあった、ちょっと大型のスーパーで肌着や短いブーツを買ったっけ。
そんなことを思い出しながら、ほとんど思い出のないお義父さんのことを思い出したくて、結婚式のビデオを出してきて見ました。
式の時のお義父さんの挨拶は不器用な人らしくしどろもどろで、笑いを誘いながらも心温まるもので、お義父さんに結婚式に出てもらえたことが何よりの思い出になったことを感謝しました。
今日、デンマークカクタスがほころび始めました。
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ゆるし・赦し・許し
http://soranotori.exblog.jp/8781961/
2008-10-19T00:03:23+09:00
2008-10-19T00:04:08+09:00
2008-10-19T00:04:08+09:00
s_soranotori
信仰・雑感
ジブリ好きのグイドが見ていたので、途中から見て、途中で寝てしまったのですが、その中でとても印象に残った言葉がありました。
正確ではないかもしれませんが、宮崎駿氏は「基本的に人を楽しませたい」ということを語っていた中で、
「楽しんでもらえれば自分の存在が許されるだろう。」
「楽しんでもらえれば自分の存在が無駄ではないと思える。」
といったことを語っておられたのです。
幼少期の経験などが背景にあるようですが、こんなに有名な作品をたくさん作っているアニメーション監督でもこんなに淋しい心でおられるのかと思うと切なくなりました。
もちろん、いつもいつもそんな風に思っておられる訳ではないのでしょうが。
ゆるしのない人生は空しいというか、哀しいというか、切ないというか…。
わたしたちクリスチャンは、自分が生まれながらに罪びとであったことを認め、イエスキリストの十字架が自分の罪の贖いのためであったことを信じ、罪の赦しを得ています。
罪の赦しを得ていることで、存在の許しをいただいているように思います。そして、
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43: 4
という御言葉を一人一人が自分のものとして受け取ることができるのです。
欠けたところも、足りないところも多く、デコボコの多いわたしだけれど、神様に赦されているから、愛されているから、わたしはいても良い。
そして、自分の力では大したことはできないけれど、神様が用いて下さるから、わたしはきっと役に立たない者ではない。
そんな風に信じることができるのです。
宮崎駿氏はものすごく、アニミズム的思考の強い人だと感じますが、どうか、キリストのゆるしを知ってほしいものだと、番組を見て強く思わされました。
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つぶやき
http://soranotori.exblog.jp/8777060/
2008-10-18T02:09:00+09:00
2008-10-18T02:15:55+09:00
2008-10-18T02:10:01+09:00
s_soranotori
信仰・雑感
ただ、自分のために書くつぶやきです。
わたしは自分で「信仰が足りないなあ」と思うことがあります。
結構色んなことをすぐに諦めてしまうのです。
あるいは、「今は時ではない」と考えてしまいます。
この頃、周りを見回して、「羨ましいなあ」と思うことがあります。
独身で若い伝道者の女性。
音楽もできて、英語も堪能で、バリバリ用いられています。
あるいは、独身の友人たち。
それなりに趣味を大事にして、自分の生活をenjoyして、楽しそうにやっています。
正直、「羨ましいなあ」と思ってしまうことはあります。
でも、わたしもよく考えたら、かつてはそういう時代があったのだな、と思うのです。
英語や日本語教育の学校に行くちょっとした蓄えもあって、豪華なツアー旅行は行けなかったけど、宣教師の友人を訪ねて海外にも行ったし、様々なところで神様の御用をしていました。
今は、家庭があって、限られた範囲での活動です。
独身の時に比べたら経済的にも厳しくて、習い事のひとつもできません。
でも今は、神様はわたしに家庭をゆだねて下さっている、と受け止めています。
夫を助け子供を育てる仕事をゆだねて下さっていると。
そして、そこには、わたしだけの幸があります。
それでも、わたしは結婚して育児をしている割には、色んなところへ出かけている方ですし、色んなところで神様の御用もさせていただいている方だと思います。
もっともっと…欲を出せばきりがありません。
今は、目の前に置かれていることにベストを尽くしていこうと思います。
自分のしたいこと、思いも、今は神様におゆだねしています。
「したい、したい」と思っていると、「できない」という状況に心が浸食されて、人を羨んだり妬んだりする心がわたしの中に芽生えてきてしまうので…。
そんな自分を嫌いになりたくない、と思っていた時、フッと、神様にゆだねることができ、心が静かになりました。
人には諦めているように見えるかもしれませんが、わたしの中ではそうではなく、「できる時にはできる、できないときにはできない」そんな思いがあります。
今は、神様の歩ませて下さる道を一歩一歩、歩いていこうと思います。
いつか、神様が奇蹟の扉を開いて下さることを信じて…。
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定めの時
http://soranotori.exblog.jp/8725971/
2008-10-08T01:32:00+09:00
2008-10-08T01:34:22+09:00
2008-10-08T01:33:06+09:00
s_soranotori
雑感
好きな俳優さんの一人でした。
本当に急で、びっくりしました。
姉は、共演のチャンスがあったのに、タイミングが悪く、他の仕事が入っていてできなかったのを残念がっていました。
改めて、人の命の不思議を思いました。
うちの父は、今までに何度も死にかけて、今もお医者さまでさえ「これで生きているのが不思議」と言うほど、たくさんの病気を抱えていて、体も弱っているのに、まだ生かされています。
何とかお仕事も続けさせていただいています。
緒方さんは、ご本人には人に知られない戦いがあったのでしょうが、それを一切見せずに、つい最近まで普通に仕事をしておられたのに突然、逝ってしまわれました。
人の命は、わからないものですよね。
最近、人が亡くなるたびに思います。
人の命は神様が定められた時があるのでしょうが、残されて戸惑う者たちは、簡単にそれを受け入れられずに、追いかけて焦がれて泣き狂う…ということもあるのでしょう。
愛する人を失われた人々の心に慰めがありますように…。
天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
伝道者の書 3章1-2節
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。
しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書 3章11節]]>
影を追い越す方法
http://soranotori.exblog.jp/8537967/
2008-08-29T22:35:38+09:00
2008-08-29T22:36:11+09:00
2008-08-29T22:36:11+09:00
s_soranotori
雑感
「神様がわからない」そう夫に泣きつきました。
今でも、ふとネガティブになることがあります。
そんなとき、昔読んだ漫画に出てきた一つのエピソードを思い出しました。
自分の影におびえつつ、どうしてもその影を追い越せなくて、悩んでいた少年…。
でも、仲間たちとの友情の中でいつの間にか、太陽に向かって駆けていて、その時、あんなに恐れていた影は自分の後ろに回っていた、というお話。
こうして書いてしまうと、ありきたりなきれいごとの世界なのかもしれませんが、光に背を向けることの愚かさをとてもうまく表現していると思いました。
後ろを向いてしまったら終わり、とにかく今は、一歩ずつでも、いえ、半歩ずつでも、…立っているだけでも良いから、光に向かっていようと思います。
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63回目の今日
http://soranotori.exblog.jp/8429358/
2008-08-06T23:59:00+09:00
2008-08-07T00:05:42+09:00
2008-08-07T00:05:42+09:00
s_soranotori
あの日を忘れない
三たびゆるすまじ原爆を
世界の 上に
いつだったか、の、ドキュメント番組で、被爆者の方と原爆投下された方との対面、というのがありました。
投下された方は、決して一言も謝りませんでしたね。
戦争は、個人レベルのことではないので、色々と問題はあると思うのですが、その方は、一言「申しわけなかった」と言うことで、相手の心をいやすことができたのに、それをしなかった。
非常に残念でした。
原爆は、そして戦争は、人類の罪です。
この地上のどこにも、正当化されてよい戦いはないのです。
ただ、その一方で思うことは、憎しみは憎しみの連鎖を生むだけだということ。
わたしたちは憎しみの連鎖を断ち切らなければならないのです。
「トラトラトラ、我奇襲に成功せり」の真珠湾攻撃の特攻隊長・淵田美津雄さんや、「炎のランナー」で有名なエリック・リデルさんの生涯を通して、学ぶことは多々あります。
戦争を、そして原爆をゆるしてはならない。
けれど、どこかで憎しみの連鎖を断ち切らなければならない。
矛盾しているようだけれど、人類にとっての課題ではないかと感じています。]]>
野に咲く花のように
http://soranotori.exblog.jp/8038161/
2008-05-30T23:49:00+09:00
2008-05-30T23:52:34+09:00
2008-05-30T23:49:27+09:00
s_soranotori
雑感
(記事は辻ちゃんのサイトのtopics〔5月22日付〕にあります)
あるがままの自分を受け入れるのは、なかなか難しいことですね。
特にたるんだ自分のお腹を見る時は(笑)
それでも、ONLY ONEである自分を愛することは、とても大切なことです。
今の日本には、self imageの低い人が多すぎるように思います。
もちろん、あるがままの自分を受け入れること、愛することは、現状に妥協するという意味ではなく、受け入れたうえでなお、自分のbestを尽くすこと。
それがわたしの課題でもあるのですが。
無理して頑張るのではなく、bestを尽くすこと。
しなやかに、したたかに…。
あの頃(辻ちゃん達とと顔を突き合わせていた頃です・笑)、自分にイメージしていた生き方が、今でも課題のわたしです。
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イエスの母マリヤ(主にマルコの福音書とルカの福音書よりの考察)
http://soranotori.exblog.jp/7017162/
2007-12-30T02:49:00+09:00
2008-02-25T19:25:05+09:00
2007-12-30T02:49:30+09:00
s_soranotori
聖書の人物
映画「マリア」を見て、このレポートのことを思い出しましたので、懐かしくひっぱりだしました。
書いたのは、1990年の初めごろだと思います。
「福音書」という授業で、マルコの福音書とルカの福音書を学んだところで書いたレポートでしたので、主にこの二つの福音書よりの考察となっています。
(映画についてはこちらにレビューを書きました)
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1)マリヤは主に明け渡した
わたしがマリヤのことを考える時の最も印象的な言葉として思い出すのはルカ1:38の御言葉です。
「本当に、わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
マリヤはメシヤが来られることを知っていました。また神の御言葉に親しむことによって神を知っていました。そして神である主に深い尊敬の念を抱いていました。マリヤは神が、御自身を敬う者に対して恵み深くあられること、そして神が、この世的な権力を持っていない者たち、社会的地位の低い人々を通して働くのを好まれる方であることを知っていました。マリヤは社会的地位を持っていたでしょうか。富を持っていたでしょうか。答えは否です。あるいは神はそのような者であったからこそ、用いるべき器としてマリヤを選ばれたのかもしれないと思います。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」マリヤ自身のこの言葉はこの後、マリヤの生涯を通して証しされていくものとなっていきました。
2)マリヤは犠牲を払った
マリヤは主の母という素晴らしい特権を受けながら、そうであればこそ、とも言うべき犠牲を払わねばなりませんでした。その中の一つはこの受胎告知の時以来起こったと言えるのではないでしょうか。
マリヤはまだ婚約中でありながらその胎に子を宿したのです。周囲の人はいつ頃このことに気が付いたかはわかりませんが、おそらく人々が気付いた時、マリヤはその人々の心ない噂に傷ついたこともあったのではないでしょうか。その時マリヤはどうしたのでしょうか。ただ信仰をもって忍耐しているしかなかったのでしょうか。このことを想像すると本当にマリヤの献身的な信仰の姿勢に心を打たれます。またヨセフも聖書の他の個所(マタイ1:19,20)を参考にするなら、このことで思い悩んだことがわかります。たとえ一時ではあっても許婚にさえ疑われなければならないようなことがあったことは事実なのです。結果としてはヨセフも信仰によって、その純潔性において周囲の人々に疑問視されているマリヤをめとるという犠牲を払ったということができるのではないでしょうか。
おそらくそのようなマリヤにとってエリサベツと共に過ごしたひと時は非常に慰めの多い時となったに違いありません。また、マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)に現れているマリヤの謙遜な信仰こそがマリヤの喜びと平安のすべての基となっているのではないかと思います。
3)母としてのマリヤ
母としてのマリヤを見ていく時に印象に残る言葉は、
「しかしマリヤはこれらのことをすべて心に収めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)
「母はこれらのことをみな、心にとどめておいた。」(ルカ2:51)
といった言葉です。
イエス様が、おそらく洞穴であったであろう家畜小屋でお生まれにならなければならないことは、たとえ預言によって知っていたとしても、キリストにふさわしい場所とは考えにくいことなのではないでしょうか。しかしその夜、奇跡は起こり、御使いの賛美は響き、羊飼いたちは礼拝しに来ました。マリヤは改めて自分の産んだ子がメシヤであることを確信し、感謝し、喜んだことでしょう。けれどもこのとき、マリヤは一体どんな気持ちで“心に納め”どんな“思いを巡らしていた“のでしょうか。こののち、エルサレムでシメオンに「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と言われた時、12歳のイエス様に「どうして、わたしをお捜しになったのですか。」と言われた時、どのようなことを感じ、何を思っていたのだろう、と思わずにいられません。
やがて、メシヤとしての働きと宣教のために、自分の元を離れていくイエス様、それはもはや自分の息子ではないということを、どのように受け止めていったのでしょうか。
4)イエス様に従ったマリヤ
信じる私たちにはとても感謝だけれども、イエス様の母マリヤにとってはとても辛い言葉だったのではないかと思う御言葉が一つあります。それはマルコ3:33-35です。
「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」
もし、私がマリヤなら、きっとつまずいてしまったのではないかと思うのです。けれど、マリヤはこのとき既に信じていたこと、イエス様がメシヤであるというその信仰によって、もはや、自分とイエス様は親子ではなく、メシヤとそれに従う者、という立場をはっきりと確信したのではないでしょうか。マリヤは福音書の後半においてあまり目立つ女性ではありません。その意味ではベタニヤのマリヤやマグダラのマリヤの方が目立つ存在と言えるかもしれません。けれども聖書の他の個所(ヨハネ19:25-27、使徒1:14)を見ると、マリヤはイエス様の十字架まで、また復活の証人として、イエス様の御足の跡に従ったことがわかります。たとえ、どんなに信仰深かったとしても、たとえ他人のようにさえなっていたとしても、御自分の産んだ一人の子が十字架につけられるのを見る母の心はどのようなものか、そこには想像だにできないものがあるのではないでしょうか。その十字架のもといおいて、マリヤの、その名の本当の意味「苦さ」を理解できるのではないでしょうか。
マリヤは、救い主の母という、ある意味で最も素晴らしい特権に与りながら、最も辛い試練に遭った女性ということができるのではないでしょうか。
マリヤも人の子である以上罪人には違いないのですが、いつもマリヤについて学ぶ時、自分には到達し得ないほどの信仰の姿を教えられます。
結論
今まで、マリヤについて、素晴らしい女性だと思いながら、ほとんど完璧な女性、自分にはとても到達できない女性、という思いが強かったのですが、今回学んだことを通して、マリヤの人間的な弱さ、悲しみ、信仰について教えられ、マリヤは決して到達できない女性ではなく、続けてわたしたちが信仰の良き模範とすべき女性と教えられました。
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2007年教会学校クリスマス顛末
http://soranotori.exblog.jp/6921372/
2007-12-10T11:44:00+09:00
2007-12-10T11:44:00+09:00
2007-12-10T11:44:00+09:00
s_soranotori
雑感
と言っても、日頃教会学校に来ているのはエル一人、ということで、例年、礼拝に保護者の方と集っている子供さんや、よくエルが遊んでいるご近所のYちゃんを誘って細々とやっていました。
以前は近くの小学校前でチラシを配ったりして、大々的に(?)やっていたようですが、今はスタッフもいなくてほとんどわたし一人でやっているので(当日手伝って下さる方はあるけど)、もう無理はしないでできることをやろう、と規模を思い切って縮小して、続けていたのでした。
でも、今年はエルが幼児園のお友達を誘うというので、「まず、親御さんに許可をいただかなくては(未就学児のことなので送り迎えの問題もあるので)」と思い、最初に、以前からお母さんと連絡先の交換をしていたWちゃんと、同じクラスで教会の近くに住んでいるAちゃんのお母さんにお手紙を書きました。
そうしたらそこから話が広がって、結局、エルの幼児園から8人のお友達が来てくれ、合計10名の子供達でのクリスマス会となりました。例年来てくれているYちゃんが来られなかったり、教会関係の子供さんが来られなかったりした一方で、幼児園のお友達は、当初予定していなかった子や直前になってくることになった子の弟さん、またお母さんを知らないので直接声をかけていなかった子も来てくれて、感謝でした。
実は中に、地域の子供クリスマス会とWブッキングしている子もいたようなのですが、お母さんの話では「どっちに行くの?」と聞いたら「エルちゃんの方」と言って、こちらに来てくれた子もあったようです。
わたしは、見かけによらず(?)社交的でなく、今まで他のお母さんたちと挨拶ぐらいしかしたことがなかったのですが、今の幼児園に行くようになって2年半が過ぎ、ようやく子供を通して少しずついろんなお母さん方とコンタクトが取れるようになってきました。
なにぶん、今まで(わたしが担当するようになってからは)教会の子供中心に細々とやってきた教会学校クリスマス会でしたので、今年、エルが「お友達を呼ぶ」と言いだして、「○○ちゃんも△△ちゃんも来たいって」と、どんどん話が広がるのを聞いて嬉しい半面「みんなに楽しんでもらうことができるだろうか」と不安もありました。
結局、賛美1曲、DVDでクリスマスストーリーを紹介し、もう1曲賛美し、ビンゴゲーム、ケーキタイム、アイロンビーズというプログラムでした。
本当は他にも予定していたことがあったのですが、さすがに10人の子供たち(8人のお友達に、エルと水曜日に来ているAちゃん)をまとめるのはなかなか難しく、時間がずれ込みそこまで手が回りませんでした。
アイロンビーズはここ3年ぐらい毎年やっていますが、子供達は大好きで、それまでとてもうるさかった子供たちが熱中してやっていました。
教会外からの子供たちにとってはクリスマスのお話などはどうでもよかったようですが、それでも全体的に、楽しんで帰ってもらえたようで、良かったです。
本当はもっと福音的なことを伝えたいという思いもあるのですが、色々考えて、祈って、今の段階としては「教会は楽しいところ」という印象を持って帰ってもらうことを第一目標にして計画しました。そして今回はある程度その目標をクリアできたのではないかと思っています。
クリスマスプレゼントの中にイエス様のことや教会のことを紹介する子供向けの小冊子を入れましたので、興味のある子供や親御さんがそれを見て下さればいいなあ、と思っています。
また、教会とコンタクトができたことで、将来的にも、何かあった時に教会を思い出してもらえればいいなあ、と思っています。
わたし自身は、期待と不安の中、精一杯準備しましたが、けっこうギリギリになってバタバタしてしまい、残念だったことは、ケーキタイムのケーキや持って帰ってもらうクリスマスプレゼントに入れるお菓子が、どうしても前夜に作ることができなかったことです。結局、朝3時起きして作り、直前まで時間と闘いながら袋詰をしていたのでした。
でも寝ぼけ眼で作ったせいか、スポンジケーキの粉の配分を間違えて少しスポンジが固くなってしまったこと、ワッフルも何となく硬めの食感になってしまったのが悔やまれます。
上は集会で食べたケーキ、下はプレゼントに持ち帰ってもらったお菓子です(15セット作りました)
クッキーは一つはカラースプレーチョコ、もう一つはドライアップル入りです。
プレゼントは他に小冊子、フェルトのクリスマスツリーなどを入れました。
また、今年は教会からのスタッフがほとんど参加できなかったのですが、いつも陰で仕える働きをして下さっているI姉が来て下さり感謝でした。また先日、日記に書いたとおり、水曜日に来てくれているAちゃんと一緒にお母さんのM姉が来て下さり、本当に助かりました。
グイドも日曜日の準備で忙しい中、手伝ってくれて、これも本当に助かりました。
背後において祈って下さっていた方々の祈りにも感謝すると共に、その祈りに応えて助けの手を与えて下さった神様に感謝します。
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チェーンメールについて
http://soranotori.exblog.jp/6549921/
2007-10-01T00:56:28+09:00
2007-10-01T00:56:28+09:00
2007-10-01T00:56:28+09:00
s_soranotori
雑感
子どもに関する事件についての警告だったのですが、「こんなことが本当に起こっているのならニュースになっているだろう」というような内容でした。
また「できるだけ広めて下さい」というようなメールは、内容の如何にかかわらず、それだけでもうネットマナー違反であることを知ってほしいと思います。
困ったことに発信者のメールアドレスに心当たりがないのです。
「あなたは誰ですか、こんなことはやめて下さい」と抗議したい気持ちもあるのですが、誰かわからない人にメールを返送する不安もあり、とりあえずは無視しています。
しかし、わたしのアドレスが、「Cc」で複数の人の手元に送られていることにも憤りを感じています。困ったものです。
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「死」と向き合う
http://soranotori.exblog.jp/6421678/
2007-09-08T03:31:11+09:00
2007-09-08T03:31:10+09:00
2007-09-08T03:31:10+09:00
s_soranotori
信仰・雑感
では、健康でない人、持病やチャレンジ(障害)をもっている人が幸せでないのか、というのは愚問。彼女が言いたいのはそういうことではなく、彼女は3年前に死ぬほどの大病をした、その経験の中から、現在本当に健康と言える状態に回復したことを実感として「幸せだ」と表現したのだと思います。
また今年も、誕生日が近付いています。
ホスピスで有名な柏木哲夫先生が「誕生日には『死』について考えなさい」と言っておられたのを思い出します。最近も「死」と向き合う出来事があって、「生かされている」ということへの感謝を改めて感じましたし、「だからこそ、生かされている間、精一杯生きよう」との思いも新たにしました。
「歌声ペトラ南近江」の立ち上げは、わたしにとって大いに体験的な学びの時となりました。
先日、友人のコメントへのレスにも書きましたが、わたしは、神様の歯車の一つに過ぎませんでした。誰の力でもない、神様の時に「カチッ」という音がして歯車がかみ合い、すべてが回り始めた、そんな感じでした。
「神様の時、神様の御業」だったのです。
わたし自身の結婚についても、ちょうどそのような摂理があったと、いつも思い返します。
先日、ある方と話をしていて、いくつかの出来事に話が及んだとき、その姉妹が「わたしが○○こう進言したました」「わたしは△△先生にこうお願いしました」と何度となく言われたのが気になりました。
その方は、「自分が言ったから実現した」とおっしゃるつもりはなかったと思いますが、自分がそれらの出来事の実現にかかわったことを主張したいのだな、と感じました。
もちろん、その方の言葉や祈りが何の影響もなかったとは思いませんが、その時話したいくつかの出来事は、その方の言葉だけで動くような事柄ではなかったと思います。
その背後にはもっと大きな神様の摂理があったと思います。
今回のわたしと同じように、その方もきっとその時、神様の歯車の一つだったのでしょう。
今、わたし達にはいろいろと思うことがあります。
本当に多くのことを思います。例えばエルの進路一つにとっても、それはエル自身の考えることだと思いつつ、「ああもなって欲しい、こうもなって欲しい」と様々に考えてしまいます。
けれども、その背後にもきっと神様の摂理が働いて下さることと思います。
きっとエルの人生にも歯車が「カチッ」とかみ合う時が来るのだろう、と思うのです。
またわたし達自身についてもそうです。
自分から何かを動かそうと思わなくても、「その時」が来れば、歯車が回りだす…そんなふうに思えるようになりました。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29章11節
あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇27編5節
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3章11節
好きな聖書の言葉はたくさんありますが、中でも、今までに何度となく支えられてきた御言葉です。
わたしは神様のされることのすべてを知ることはできませんが、わたしの主であるイエス・キリストは、すべてのことを最善に導いて下さると信頼しています。
今までもそうして下さいましたし、これからもそうして下さるでしょう。
そう思いつつも、たびたび思い煩ってしまう愚かな者です。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
マタイの福音書6章34節
神様の御言葉はいつも真実であることを感謝します。
だから、わたしは生かされている間、ベストを尽くして生きていきたいと思います。
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夫婦喧嘩(?)
http://soranotori.exblog.jp/6278404/
2007-08-14T03:23:13+09:00
2007-08-14T03:23:13+09:00
2007-08-14T03:23:13+09:00
s_soranotori
信仰・雑感
最初、わたしはグイドの言うことに納得いっていなかったのだけれど、お友達のブログを読んでいて、なんとなくだけれど、グイドの言っていたことがわかりかけてきたような気がします。
お友達が書いていた内容は、全然違うことなのですが…。
グイドには、わたしの消極的な点、それから満足しない心について、随分指摘を受けました。
とにかく、ありのままのわたしを見て、人がどう思うか、それはまあ、確かに配慮も必要なのかもしれないけど、まず第一に大切なことは、「わたしは神様の喜ばれることをしたいです」ということ。
それを見て、妬んだり裁いたりする人がいるならもしかしたらそれは、わたしの訓練ではなくて、その人の訓練なのかもしれないということ…。
グイドが言っていたことを思い返しながら、今そんな風に思っています。
…でも、あまりうまく言葉にはなりません。
言葉にする必要はないのかもしれないけど。
とにかく、わたしはわたし。
開き直るのではなく、わたしはわたしとイエス様の関係の中で、悔い改めることを悔い改めて、従うことを従う…そういうことを教えられました。
わたしたち夫婦はまだまだ未熟なので、ぶつかってぶつかって、なかなか分かり合えなくて辛いこともあるけれど、間にいてくださるイエス様がとりなして下さって、結局落ち着くところに落ち着きます。
今回の喧嘩(本当は喧嘩でもないのだけれど)を通して、神様が男性に与えられた賜物、女性の特質、そんなことも色々考えました。
わたしは基本的に配偶者のことを「夫」と言いますし、書きます。
「主人」という言葉はほとんど使いません。
それは、人権的に、特にこの日本では男性社会だった時代があり、女性が男性と平等の権利を勝ち取るために闘わなければならなかった、そういう歴史を踏まえての思いからのことです。
けれども、一方で、聖書は、男性と女性を平等に扱いながらも、やはり男性にはリーダーシップの賜物を与えておられるし、家の中で「主人」として必要な知恵や力を与えてくださっているとつくづく思います。
一般社会ではやっぱり「夫」と呼びますが、実はクリスチャンとしては夫のことを「主人」と呼ぶことに抵抗はないのです。
歳も、信仰歴も、わたしより若い主人ですが、尊敬に値する人を配偶者として持てたことを感謝しています。
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