あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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カテゴリ:信仰・雑感( 23 )

夏が来れば・・・

夏が来れば思い出す・・・。
はるかな尾瀬、じゃないですよ、尾瀬にはまだ行ったことはありませんから。
やっぱり、戦争とか、平和とか、核とか、命とか・・・。
夏になると考えずにはいられません。

色々考えてはいるのですが、言葉にするような、何か人に語れるような、そんなまとまったものがありません。
これでも若いころは、平和行動で、代々木公園に寝転がりに行ったり、「今戦争になったら地下活動に加わって、戦争反対のビラを張って回る」「いのちがけで闘う」とか思っていたんですけれど。
そう、なんとも、闘うのが好きな少女でした。

 ファイト!   闘う君の唄を
 闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト!   冷たい水の中を
 ふるえながらのぼってゆけ

 ファイト!      
             中島みゆき「ファイト!」より

生きるということは、自分の中の萎えていく心と闘うことなのだ、と今でも思ったりします。

 走り続けていなけりゃ 倒れちまう
 自転車みたいな この命転がして
 息はきれぎれ それでも走れ
 走りやめたら ガラクタと呼ぶだけだ、この世では
              中島みゆき「断崖-親愛なる者へ」

こう見えて(どう見えて?)結構ストイックなところがあったりします。
中島みゆきのこういう曲は、クリスチャンになる前に、とても好きだった曲です。

でもね、今は、闘うだけじゃなくて、神様に委ねることも覚えて、神様に信頼すること、感謝することも覚えて、闘うのも自分の力でがむしゃらに闘うのではない、と分かってきて、生き方も随分変わってきたと思います。

それでも、時には

 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ
       茨木のり子「自分の感受性くらい」

と、思う自分もいたりして。

キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
第2テモテ2:3

この御言葉を読んで献身の思いに導かれた割に、生ぬるーく、だらりんと日々生きている自分を反省するこの頃です。
神様はわたしの弱さも御存じ・・・ということに甘えてしまっている自分。
そのままのわたしで愛されているということと、そのままのわたしでいて良いということは違うとわかっているのに、どうも、自分には甘いんですよね・・・。

とりあえず、明日は、ちょっとしっかりピアノの練習をしようと思います。
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by s_soranotori | 2012-08-15 23:52 | 信仰・雑感

ゆるし・赦し・許し

 昨日の深夜、NHKで宮崎駿氏の特集番組をやっていました。

 ジブリ好きのグイドが見ていたので、途中から見て、途中で寝てしまったのですが、その中でとても印象に残った言葉がありました。

 正確ではないかもしれませんが、宮崎駿氏は「基本的に人を楽しませたい」ということを語っていた中で、
「楽しんでもらえれば自分の存在が許されるだろう。」
「楽しんでもらえれば自分の存在が無駄ではないと思える。」
といったことを語っておられたのです。

 幼少期の経験などが背景にあるようですが、こんなに有名な作品をたくさん作っているアニメーション監督でもこんなに淋しい心でおられるのかと思うと切なくなりました。
もちろん、いつもいつもそんな風に思っておられる訳ではないのでしょうが。

 ゆるしのない人生は空しいというか、哀しいというか、切ないというか…。

 わたしたちクリスチャンは、自分が生まれながらに罪びとであったことを認め、イエスキリストの十字架が自分の罪の贖いのためであったことを信じ、罪の赦しを得ています。
 罪の赦しを得ていることで、存在の許しをいただいているように思います。そして、

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43: 4

 という御言葉を一人一人が自分のものとして受け取ることができるのです。

 欠けたところも、足りないところも多く、デコボコの多いわたしだけれど、神様に赦されているから、愛されているから、わたしはいても良い。
 そして、自分の力では大したことはできないけれど、神様が用いて下さるから、わたしはきっと役に立たない者ではない。

 そんな風に信じることができるのです。

 宮崎駿氏はものすごく、アニミズム的思考の強い人だと感じますが、どうか、キリストのゆるしを知ってほしいものだと、番組を見て強く思わされました。
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by s_soranotori | 2008-10-19 00:03 | 信仰・雑感

つぶやき

 ここは、たぶんメインの日記ブログに比べると読んで下さっている方は少ないと思うので…敢えてここに。
ただ、自分のために書くつぶやきです。

 わたしは自分で「信仰が足りないなあ」と思うことがあります。
結構色んなことをすぐに諦めてしまうのです。
あるいは、「今は時ではない」と考えてしまいます。

 この頃、周りを見回して、「羨ましいなあ」と思うことがあります。

 独身で若い伝道者の女性。
音楽もできて、英語も堪能で、バリバリ用いられています。

 あるいは、独身の友人たち。
それなりに趣味を大事にして、自分の生活をenjoyして、楽しそうにやっています。

 正直、「羨ましいなあ」と思ってしまうことはあります。

 でも、わたしもよく考えたら、かつてはそういう時代があったのだな、と思うのです。

 英語や日本語教育の学校に行くちょっとした蓄えもあって、豪華なツアー旅行は行けなかったけど、宣教師の友人を訪ねて海外にも行ったし、様々なところで神様の御用をしていました。

 今は、家庭があって、限られた範囲での活動です。
独身の時に比べたら経済的にも厳しくて、習い事のひとつもできません。

 でも今は、神様はわたしに家庭をゆだねて下さっている、と受け止めています。
夫を助け子供を育てる仕事をゆだねて下さっていると。
そして、そこには、わたしだけの幸があります。

 それでも、わたしは結婚して育児をしている割には、色んなところへ出かけている方ですし、色んなところで神様の御用もさせていただいている方だと思います。

 もっともっと…欲を出せばきりがありません。

 今は、目の前に置かれていることにベストを尽くしていこうと思います。

 自分のしたいこと、思いも、今は神様におゆだねしています。
「したい、したい」と思っていると、「できない」という状況に心が浸食されて、人を羨んだり妬んだりする心がわたしの中に芽生えてきてしまうので…。
そんな自分を嫌いになりたくない、と思っていた時、フッと、神様にゆだねることができ、心が静かになりました。

 人には諦めているように見えるかもしれませんが、わたしの中ではそうではなく、「できる時にはできる、できないときにはできない」そんな思いがあります。
今は、神様の歩ませて下さる道を一歩一歩、歩いていこうと思います。
いつか、神様が奇蹟の扉を開いて下さることを信じて…。
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by s_soranotori | 2008-10-18 02:09 | 信仰・雑感

「死」と向き合う

 友人がブログで「健康であること」とても感謝していました。「健康であることは一番幸せだ」と。
では、健康でない人、持病やチャレンジ(障害)をもっている人が幸せでないのか、というのは愚問。彼女が言いたいのはそういうことではなく、彼女は3年前に死ぬほどの大病をした、その経験の中から、現在本当に健康と言える状態に回復したことを実感として「幸せだ」と表現したのだと思います。

 また今年も、誕生日が近付いています。
ホスピスで有名な柏木哲夫先生が「誕生日には『死』について考えなさい」と言っておられたのを思い出します。最近も「死」と向き合う出来事があって、「生かされている」ということへの感謝を改めて感じましたし、「だからこそ、生かされている間、精一杯生きよう」との思いも新たにしました。

 「歌声ペトラ南近江」の立ち上げは、わたしにとって大いに体験的な学びの時となりました。
 先日、友人のコメントへのレスにも書きましたが、わたしは、神様の歯車の一つに過ぎませんでした。誰の力でもない、神様の時に「カチッ」という音がして歯車がかみ合い、すべてが回り始めた、そんな感じでした。
「神様の時、神様の御業」だったのです。
 わたし自身の結婚についても、ちょうどそのような摂理があったと、いつも思い返します。
 先日、ある方と話をしていて、いくつかの出来事に話が及んだとき、その姉妹が「わたしが○○こう進言したました」「わたしは△△先生にこうお願いしました」と何度となく言われたのが気になりました。
その方は、「自分が言ったから実現した」とおっしゃるつもりはなかったと思いますが、自分がそれらの出来事の実現にかかわったことを主張したいのだな、と感じました。
もちろん、その方の言葉や祈りが何の影響もなかったとは思いませんが、その時話したいくつかの出来事は、その方の言葉だけで動くような事柄ではなかったと思います。
その背後にはもっと大きな神様の摂理があったと思います。
今回のわたしと同じように、その方もきっとその時、神様の歯車の一つだったのでしょう。

 今、わたし達にはいろいろと思うことがあります。
本当に多くのことを思います。例えばエルの進路一つにとっても、それはエル自身の考えることだと思いつつ、「ああもなって欲しい、こうもなって欲しい」と様々に考えてしまいます。
けれども、その背後にもきっと神様の摂理が働いて下さることと思います。
きっとエルの人生にも歯車が「カチッ」とかみ合う時が来るのだろう、と思うのです。
 またわたし達自身についてもそうです。
自分から何かを動かそうと思わなくても、「その時」が来れば、歯車が回りだす…そんなふうに思えるようになりました。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29章11節


あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇27編5節


神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3章11節


 好きな聖書の言葉はたくさんありますが、中でも、今までに何度となく支えられてきた御言葉です。
わたしは神様のされることのすべてを知ることはできませんが、わたしの主であるイエス・キリストは、すべてのことを最善に導いて下さると信頼しています。
今までもそうして下さいましたし、これからもそうして下さるでしょう。

 そう思いつつも、たびたび思い煩ってしまう愚かな者です。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
マタイの福音書6章34節


 神様の御言葉はいつも真実であることを感謝します。
だから、わたしは生かされている間、ベストを尽くして生きていきたいと思います。
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by s_soranotori | 2007-09-08 03:31 | 信仰・雑感

夫婦喧嘩(?)

 昨日、今日、グイドとたくさん話し合いました。(日付はもう14日になっているけれど、わたしの感覚はまだ13日)
最初、わたしはグイドの言うことに納得いっていなかったのだけれど、お友達のブログを読んでいて、なんとなくだけれど、グイドの言っていたことがわかりかけてきたような気がします。
お友達が書いていた内容は、全然違うことなのですが…。

 グイドには、わたしの消極的な点、それから満足しない心について、随分指摘を受けました。

 とにかく、ありのままのわたしを見て、人がどう思うか、それはまあ、確かに配慮も必要なのかもしれないけど、まず第一に大切なことは、「わたしは神様の喜ばれることをしたいです」ということ。
それを見て、妬んだり裁いたりする人がいるならもしかしたらそれは、わたしの訓練ではなくて、その人の訓練なのかもしれないということ…。
グイドが言っていたことを思い返しながら、今そんな風に思っています。

 …でも、あまりうまく言葉にはなりません。
言葉にする必要はないのかもしれないけど。
とにかく、わたしはわたし。
開き直るのではなく、わたしはわたしとイエス様の関係の中で、悔い改めることを悔い改めて、従うことを従う…そういうことを教えられました。

 わたしたち夫婦はまだまだ未熟なので、ぶつかってぶつかって、なかなか分かり合えなくて辛いこともあるけれど、間にいてくださるイエス様がとりなして下さって、結局落ち着くところに落ち着きます。

 今回の喧嘩(本当は喧嘩でもないのだけれど)を通して、神様が男性に与えられた賜物、女性の特質、そんなことも色々考えました。
わたしは基本的に配偶者のことを「夫」と言いますし、書きます。
「主人」という言葉はほとんど使いません。
それは、人権的に、特にこの日本では男性社会だった時代があり、女性が男性と平等の権利を勝ち取るために闘わなければならなかった、そういう歴史を踏まえての思いからのことです。
 けれども、一方で、聖書は、男性と女性を平等に扱いながらも、やはり男性にはリーダーシップの賜物を与えておられるし、家の中で「主人」として必要な知恵や力を与えてくださっているとつくづく思います。
一般社会ではやっぱり「夫」と呼びますが、実はクリスチャンとしては夫のことを「主人」と呼ぶことに抵抗はないのです。
 歳も、信仰歴も、わたしより若い主人ですが、尊敬に値する人を配偶者として持てたことを感謝しています。
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by s_soranotori | 2007-08-14 03:23 | 信仰・雑感

なりたい夢となれる夢


 昔、中島みゆきの「あわせ鏡」という歌の中に出てきた言葉、
   「なりたい夢となれる夢とが本当はちがうことくらい
    わかってるから鏡みるとき芝居してるのよ」
「なりたい夢となれる夢」その言葉が心に残っていた。

 単なるあきらめということではなく、人にはやはり、ふさわしい歩みや可能な歩みと言うものがある。
極端にいえば、わたしが今からディズニーのプリンセスものに出てくるような「お姫様」になりたいと言っても無理な話。
「願っていれば、祈っていれば、すべては可能になる」と思いたいけれど、現実はそうではない。

 わたしはつい、周りを見て、「ああもなりたい、こうもなりたい」と願ってはそうなれないことに落ち込んでしまう。

 そうではなく、神様がわたしに望んでおられることは何なのか、わたしの「なれる夢」「なるべき夢」は何なのか、と思う。

 わたしの居場所は神様のそば。それは分かっているけれど、この社会の中ではどこにいれば良いのか、時として見失ってしまうことがある。
そんなとき、周りを見ないで、静まって、神様と向き合おう。
 わたしは、学歴もない、特別な教育も受けてはいない。知らないこと、できないことだらけだ。
それでも、神様がわたしに与えて下さったものは「充分」なのだ。わたしは十分に充たされているのだ。
そしてそんなわたしを、神様は用いてくださる。

 人前で歌ったり、語ったりした後に限って、コンプレックスにさいなまれ、荒野に退いてしまいたくなる。ちょうど450人のバアルの預言者と対決した後のエリヤのように(もちろんわたしはそんなに大きな器ではないが)。
心弱くなったわたしは、すべてのことから逃げ出してしまいたくなる。
他のすべての人が偉大に見える。
自分は小さくなんの力もない人間に思えてくる。
 けれどもそんなわたしを、主は細き御声をもって再び呼び出される。
主はいったいわたしが何者だというので、わたしを顧みてくださるのでしょう。

 神様を仰ぎ見、信頼するとき、「なれる夢」いや、「ならせてくださる夢」が「なりたい夢」になる。
わたしの願うところではなく、主の御心のままに、と。

 人を見ないで、神を見ることはわたしにとって簡単なことではない。
元来わたしは人に褒められたい、自己表現欲求、自己実現欲求の非常に強い人間だ。
そうして、周りの人を見て、自分にないものを求めて、自分にできないことを追って、落ち込んで弱り果てる。
だからこそ、神様はわたしにすべてをささげるようにと導いておられる。
すべてを明け渡した時に、見えてくるものがあるよ、と。

 主よ、わたしは心の貧しい者です。
 主よ、わたしは愚かな者です。
 それでも、あなたの前に、よりよきものとなりたいのです。
 あなたの御心を、わたしの「夢(Vision)」として下さい。
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by s_soranotori | 2007-07-05 13:50 | 信仰・雑感

本質

 物事で大切なものは「本質」だなあ、と思う。
形式や、形、名前などではない。

 先日買ったセンティッドゼラニウム、そのお店のインターネットショップに出ていた名前と商品についてきたラベルの名前とが違っていた。
お店に問い合わせたところ、文献によって色々な名前が付けられており、どれが正しい、ということはないのだそう。

 その返事を見た時、ちょっとがっかりした。
わたしは正しい名前が知りたかったのに。
でもそれからハタと気がついた。名前が何であれ、ここにその花があるという事実は変わらない。名前が、「アンダーソニー」だろうが「アンダーソニア」だろうが、花の色は変わらない。
名前は人がつけたものだけど、花は神様が作られたものなのだ(人が多少改良を加えたとしても)。
 「名は体を表す」「名前は大事」確かに一面ではそれ正しい。
だからわたしたちは「イエス・キリストの名によって」祈る。
ただの「神様」ではなくて、「イエス・キリスト」という名前にこだわる。
けれど、大切なことは名前ではなく、「本質」なのだ。
いたずらに名を呼んでも、そこに信仰がなければ無意味だ。

 人は「本物」という言葉に弱い。
「本当の」「正しい」ものを求めている。
けれども、大切なことはその本質なのだと思う。

 「教会」や「礼拝」についても同じ。
世の中にはいろんな教会があって、いろんなスタイルの礼拝があって、「我こそは正統派だ」と人それぞれに信じている。
 でも、形式は人が作り出したもの。
聖書に書いてある本当の礼拝は「霊とまことによる礼拝」ただそれだけ(ヨハネ4章)。
そしてそれは自分自身を生きた供え物としてささげる礼拝(ローマ書12章)。
 イエス様の時代、礼拝は大聖堂ではなく、家から始まった。
もちろん、会堂でも人々は集まったけれど、むしろ、人々は家で集まっていたようだ。
人は、「教会」と言うとつい建物を想像してしまうけれど、当時の人々は今よりもっとシンプルに、神様を賛美し、聖餐式を行い、御言葉に耳を傾けていた。
それも土曜日(安息日)や日曜日(主の復活日)だけではなく、人々は毎日のように集まり、聖餐を分かち合っていた。
そこには本当の礼拝があった。

 わたしも、初代教会の人々のような、本当の礼拝がささげたいなあ、といつも思う。
頭では分かっていても、マリヤのようではなく、マルタのように、今日のスケジュールや、今週のスケジュールをあれこれ考えながらメッセージを聞いていたりする。
あるいは、「○○さんがお休みだけれど、体調崩されたかな?」なんて、(人のことを思いやるのは悪いことではないけれど)礼拝中に考えなくてもよいことを考えていたりする。

 美しい言葉で「日々主はそばにいまし」と賛美しているけれど、本当にわたしは、今日、神のそば近く歩んでいるか。今日、真の礼拝をささげているか。
今日、本当に神様に信頼して歩いているか。

matt: 7:21
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」

先日聞いた講義で、岸先生が、この個所を引用されて、「あなたは父のみこころを行っていると断言できますか?天国に入れますか?」と聞かれた。
 もちろんここで問われている、天国に入るために行わなければならない「みこころ」はただ一つ、「イエス・キリストを信じること(どう信じるかはここでは省略)」なのだけれど、広い意味で「神のみこころ」と言われると、わたし自身は「わたしはいつも神様のみこころを行っています」とはとても答えられない。
怠慢、高慢、怒り、妬み、リストアップすればきりがないほどに日々罪を犯しているわたしだ。
だからこそ、日々の悔い改めと、神様のみ声を聞くことが必要なのだ。
日曜日だけの礼拝者ではなく、日々の歩みの中で、イエス・キリストの真の礼拝者として、砕かれた心で歩む者となりたいと切に願う。

※この文章は、特定の教団・教派・教会およびその礼拝を否定、批判するものではなく、あくまでもわたし自身の個人的な思いであり内省であることをお断りしておきます。
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by s_soranotori | 2007-06-16 15:11 | 信仰・雑感

≪愛から遠く離れて≫



 世の中には色んな人がいる。
中には愛するのが難しいと思われる人もいる。
聖書に「隣人を愛しなさい」と書いてあるから、クリスチャンは誰でも愛しているかと言うとそうではない。
 聖書の中にこんなにも「愛すること」が強調されているのは、人がそれほどまでに愛しにくい存在だからなのだ、とわたしの一番近くにいる牧師が言う。
確かにそうだと思う。
簡単にできないことだからこそ、聖書はそれを繰り返し教えているのだろう。

 世の中には色んな人がいる。
相手に悪意はないのに、どうも相性が悪い、と言う人も居る。
もっと質(たち)が悪いのは、相手が、悪意を持ってこちらを傷つけたり排除しようとしていながら、嵐がおさまると、謝りもしないでケロッとしていたりする場合だ。

 そんな人でも「愛しなさい」と聖書は教える。
ただし、「愛する」ということは、「=相手に優しく接すること」ではないし、「なんでもかんでもゆるすこと」でもないだろう。

 真実に人を愛するということは、どれほど難しいことかと思わされる。

 相手のためを思って、自分が悪者になれるか…。
人に疎まれても、相手のためになら信念を持って行動(発言)できるか…。
子供の為や、自分が心底惚れこんだ人のためにならそれもできるかもしれないけれど、家族以外の隣人の為にそこまでできるか…。

 「神様ごめんなさい」と言わざるを得ない自分が居る。
イエス様は、こんなわたしのために、極悪人と並んで十字架にまでかかって下さったのに。

 わたしほど愛に遠い者はいないと、つくづく思わされる今日この頃だ。
こんなわたしになお近づいて愛してくださる神様にただ感謝あるのみ…。
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by s_soranotori | 2007-02-17 22:32 | 信仰・雑感

≪ヴィジョン≫

 昨年、最初に教会でメッセージさせていただいたのは1月22日でした。
その時、キング牧師の「I have a dream.」という言葉を引用しました。
一昨年の秋ごろから、一つのヴィジョンを持つようになりました。
キング牧師が最期まで見続けたのと同じヴィジョンを…。
いつの日か、国籍も、人種も、職業も、すべての隔てが取り除かれ、すべての国民が一つになって礼拝する日が来ることを。

 これは、エキュメニカル的な意味(すべての宗派が一つになるとか)ではなく、ただ、キリストにある民が同じ心で礼拝する、公同の教会として礼拝する、と言うような意味です。
ことばで表現するのは難しいのですが。
 そして、これは天国で実現するのではなく、今生きているわたしたちが現実のこととしてその光景を見るのだと…。

 昨年、近畿宣教会議に出席させていただいたり、近放伝での活動に参加させていただいたり、また、草津ちいロバ会のミーティングに参加させていただいたりして、グッと世界が広がりました。
また、幾つかの出会いを通しても、本当に自分の世界が広がりました。
実際に教団教派を超えた交流をさせていただく中で、みなさんがそれぞれに、真剣に、熱く主に仕えておられる姿を拝見し、感動しました。

 わたしは、「地方教会(いわゆる目に見える教会)」を非常に大切にする教会(群れ)で(クリスチャンとして)育ちました。今でも、「地方教会」は大切だと思っています。
けれども、自分自身が様々な超教派の集会に参加することで、「公同の教会」の素晴らしさも昨年、大いに味わわせていただきました。
これは大きな恵みであったと思います。

 昨年のクリスマス(12月17日)に、京都の教会でクリスマスコンサート礼拝のご奉仕をさせていただきました。とても素晴らしい集会でしたが、わたしにとっては緊張する時でもありました。その翌週、自分達の教会で、クリスマスを迎えたときに、「ここは『我が家』だな」と感じました。
我が家はとても大切です。
その一方で、神様の国、全体を見ることも必要だと感じさせられています。
「神様の御国の為に働いている」そんな思いを、昨年は実感として感じられるようになりました。
今年も、我が家(ホームチャーチ)を守り、また我が家の家族が増し加えられることを願いつつ、我が家を含めた、広い意味での神様の御国の拡大のためにベストを尽くして生きたいと願っています。
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by s_soranotori | 2007-01-05 09:31 | 信仰・雑感

≪応答≫

 ブログを幾つか持っている。掲示板も持っている。
そんな中で、コメントを書いていただいたり、書込みしていただいたりするととても嬉しい。
コメントや書き込みはなくてもよい、と思いながら運営しているつもりだけれど、やはり反応、応答があると嬉しい。
反対に、書いても書いてもコメントや書込みがないとちょっと淋しかったりする。

 ある時、ふと「神様も同じかなあ」と思った。
神様は反応を「必要」とはしておられない。
けれども、わたしたちがその語りかけに耳を傾ける時、反応し、行動することを喜ばれるのではないか、そんなことを感じていた。

 今年、いただいた年賀状を見ていてもうひとつ別のことを感じた。
ある友達はいつも、わたしのHPを見てくれている。
そして、書き込みはしないけれど、わたしたちの事を覚えて、祝福を祈り続けてくれている。
祈られて、支えられていることを、心から感謝している。
わたしたちは、わたしたちの知らないところで祈られていることに、どれほど支えられていることか、と思う。

 わたしはついつい、「書き込み」「コメント」と言う目に見える反応を求めてしまうけれど、目に見えない応答=「背後での祈り」という応答をしてくれている友人もいる。
それもまた、貴重なことなのだ、と感じた。

 見えるところに捉われないで、わたしはわたしに委ねられたことをしていこう。
わたしはわたしに求められている「応答」をしていこう。

ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ヨハネの福音書21:21,22

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by s_soranotori | 2007-01-05 09:29 | 信仰・雑感