あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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カテゴリ:信仰・雑感( 23 )

基本

 「簡単」ってすごいことだと思う。

 わたしはケーキ作りが好きだ。
もちろん食べることも。
中でも、シンプルな焼きっぱなしのケーキが、作るのも食べるのも好きだ。
そんなシンプルなケーキを焼いていてふと思ったこと…。

 学生時代、飲食店でアルバイトをしていた事がある。
そこの板前さんが、フランス料理だったかな?その勉強が「プレーンオムレツに始まってプレーンオムレツに終わる」って言っておられた記憶がある。
「プレーンオムレツなんて、何にも入っていないオムレツでしょ?」
と思う。でも、シンプルだからこそ、簡単だからこそ難しいのだと言っておられた。

 ケーキ作りも、基本のスポンジケーキは簡単。
だからこそ極めるのは難しい。
手作りのものは1回1回、デキが違う。
その日の気温によってオーブンでの焼け具合も微妙に変わる。
プロじゃないから、わたしはそこまでこだわっている訳じゃないけれど、プロの方は、毎回ベスト(ベターじゃなく)に仕上げるのはとてもデリケートな作業なんだろうと思う。

 ふとナアマンの話を思い出した。(聖書・列王記第二5章)
アラムのナアマンと言う将軍は、ツァラアト(皮膚病の一種で当時は不治の病だった)になったとき、イスラエルに病を癒すことのできる預言者がいると聞いて、はるばる、高価な金銀を携えて訪ねていった。
ナアマンがたずねて行くと、出てきた弟子に「ヨルダン川で七回身をきよめなさい」と言われた。
高名な預言者が、さぞかし大層に手を置いて癒してくれるだろうと期待していたナアマンは期待が外れて怒って帰ろうとする。
しかし、彼のしもべが言う。
「ナアマン将軍、あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
ナアマンはヨルダン川で七回身をきよめ、癒された。
簡単なことを命令されて怒ったナアマン。
でも、そこに彼の癒しの道があった。

 人は、難しいことが素晴らしいことだと思う。
でも、簡単なところに、素晴らしさがある。
人が、「簡単だ」と思って軽く見てしまうところに奥義がある。

 昔、親戚の家によくケーキを焼いていった。
子供さんが好きなので作り方を教えて欲しいといわれたので、分量と作り方を書いて渡した。
それからしばらくして、「Sちゃんが作ったのは(子供が)よく食べるのにわたしが作ったのは食べてくれないのよ」と叔母が言った。
よく聞いてみると、自分流にアレンジして作ったと言う。
叔母は、料理学校のアシスタントをしていたこともある人で、料理には自信があったようだ。
こうしたほうがもっとおいしい、と思って手を加えられたのだろう。

 わたしは、特別にケーキ作りが上手い訳ではないけれど、しょっちゅう作っているせいか、時々人に「教えてください」と言われる。
その時に、お伝えするのは、
「最初はレシピどおりに、(本に)書いてある通りに作ってください」ということ。
レシピを見ただけで、味がわかるようになるのはプロの域。
作ったことがないものは、まず、基本に忠実に作ってみて、基本を味わって、そこから学ぶことが大切。
お菓子のレシピには、それなりに意味がある。
お砂糖には増粘作用があるので、玉子などを泡立てたときにきめ細かに、また安定させる作用がある。それだけでなく、しっとり感や舌触りとの関係がある。甘いからと言ってお砂糖を減らせば良い訳ではない。また、塩には塩の、バターにはバターの役割がある。
長年かけて作り上げられたレシピにはそれなりの経験と知恵が詰め込まれている。
だから、レシピを守ることは、それはレシピを作った人への礼儀でもあると、わたしは思う。
とは言え、家庭で作るものはプロが作るのとは違うよさがある。好みもあるので、慣れればアレンジすることも悪くはないと思う。
ただ、基本はきちんと身につけておきたいものだと思う。

 絵の勉強をした人なら、デッサンの大切さを知っているだろう。
カッコイイからといって、いきなりピカソのような絵を描こうとする人がいるけれど、有名なピカソの絵は、緻密なデッサンの時代を経て、描かれたものだということを、少しでも絵に造詣のある人なら誰でも知っている。

 落語でも、前座なのにいきなり真打のネタをやる人がいるらしい。
しかし、前座ネタには前座ネタの意味があり、そこに落語の基礎が凝縮されていたりする。
また、「古典は面白くない」と新作ばかりやりたがる人がいるらしいけれど、それは古典の面白さを理解していないからだし、落語の基礎ができていないために、本来面白いネタを面白くできない、つまり実力がない、と言う場合も往々にしてあるようだ。
もちろん、確かに文化的背景の違いで、古典落語の言葉が理解しにくいなどの問題はあるのだけれど。

 基本は、あまり面白いものではない。
簡単で馬鹿らしいとさえ思われる事がある。
しかし、それができているかどうかによって、後々の成果が大きく変わってくる。
それはスポーツでも芸術でも、どんな世界でも同じなのではないだろうか。

 先般、ハーベスト・タイムに出演した時、中川先生が「牧師たちに言いたいことは」と聞かれたときに父は、「世の牧師たちは、簡単なことをことさらに難しく言う」と答えた。
難しく語ったほうが、ありがたいこと、素晴らしいことのように感じるからかもしれない。
聞いたほうも、案外難しい言葉で語られる言葉に満足感を覚えるのかもしれない。
でも、実は救いの道はとてもシンプル。
簡単。そこに奥義がある。
必要なことは「福音を信じること」だけ。
でも、人はついついそこに何かを付け加えたがる。
行いや、理屈を。
ケーキをついついクリームや果物で飾り立てるように…。
焼いた肉に、複雑な味のソースをかけるように。
多くの人は、簡単なことを命じられて怒って帰ろうとしたナアマンのように、「信じるだけ」と言う簡単なことができないで、教会を去っていく…。
でも、シンプルに、福音を味わうこと。
そこにクリスチャン生活の奥義があるように思う。

 基本は簡単、でも奥が深い。
簡単だから難しい。
だからこそ基本に忠実でありたい。
物事が複雑でややこしくなる時、このシンプルな基本に戻ることを忘れないでいたい…と、最近つくづく思わされている。
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by s_soranotori | 2006-10-25 14:49 | 信仰・雑感

エンジョイしよう!

 前にもどこかに書いた気がするのだけれど…。
謙遜とか、神様に仕えるとか、そういうこと…、育児をしながらいろいろ考える。

 エル(娘)はわたしが台所に立っていると「わたしもおてつだいするわ」と言っていそいそとエプロンをしてやってくる。
わたしはいつも時間に追われて家事をやっているので、正直に言えば「こんとって!(来ないで)」と思うことが多い。来ても足手まといになるばかり。
でも、せっかくの「お手伝いしよう」と言う気持ちを尊重したいと思って、「じゃあお母さんがやって、っていうことだけやってね」と言うのだけれど、結局はあれこれやりたがる。
で、少しやらせてみるのだけれど、絶対と言っていいほど上手く行かない。
失敗してはシッチャカメッチャカになり、わたしがぶちきれて「もうー!あっちいっててー!!」となる。
そして怒ってから、あとで反省(後悔)する。せっかく手伝ってくれていたのに…。

 たまにはエルとクッキングを楽しむ時間を作らなくちゃ、と思う。

 それはさておき、神様とわたしたちの関係も同じようなものだといつも思う。
神様は、わたしたちの助けが必要なのか?
答えは否。神様はぜったいに一人で全部やったほうが速いし上手くいく。
それなのに、あえてわたしたちに色んなことを任せてくださる。
 だったらわたしたちはそれを喜び楽しまなくちゃ、って思う。
台所に立ったわたしは一人でやったほうが速やかに、上手く事が運ぶ。
それでも、子供が喜んで、楽しみにしているなら一緒にやろう、って思う。
だからわたしも、子供が、お母さんやお父さんのお手伝いを喜んでいるように、神様のお手伝い(足手まとい?)を喜んでやろう。

 それと、昨日、日記の方に「大きなうねりの中にいて愕然とする事がある」と書いたけれど、それは、有名なクリスチャンと出会ったり、たくさんの人の前で歌ったり語ったり、キリスト教番組に出たりするからではない、と言うことを補足しておきたい。
 神様の前に大きな働きも小さな働きもない、と思う。
100人の前に遣わされるのも1人の前に遣わされるのも神様の目には同じ事だと思う。
大きな集会やTVの前で語るから大きなうねりの中にいるのじゃない。
1人の人に伝えるところから大きなうねりは始まっている。

 そう…もう何年前になるだろうか。
演劇関係の先輩から「(演劇を通して)もっと、とてつもなく大きなことができると思っていたんだよ(けれどもそうではなかった)」という言葉を聞いた。多分もう15年近く前…。
その時わたしは何も答えられなかったけれど、あとで手紙を書いた。
「わたしはすでにとてつもなく大きな働きの中にいるのかもしれません」と。
そう、もうずっと以前から、わたしは神様のプロジェクトの中にいたのだ。
このプロジェクトは世界を動かすプロジェクト。
とてつもなく大きなプロジェクト。
 わたしも、そして多くの先輩や友人もすでにその中にいる。
日本で、中国で、タイで、ウクライナで、ペルーで、インドネシアで、セネガルで…世界の各地で…。
皆この大きなプロジェクトの中にいる。皆大きなうねりの中にいる。
それぞれが前に置かれた働きに精一杯取り組んでいる。

 もっと必死にならないといけないのかな?
確かにパウロは「奮闘している」って表現を使っていた。
だけど、やっぱり、最初に書いたように、わたしはこの働きを、喜び楽しんでできたら良いな、と思う。
何をやったって下手くそに決まってる。上手く行かないに決まっている。みんな初めはそんなものだ。
でも、それを喜んで、へこたれないで、やり続けるなら少しずつでも上手になるし、それで周りの人も喜んでくれたり助かったりするようになることもあるだろう。
何よりも神様が喜んでくださるだろう。
 昨日も書いたけれど、「自分の中に何一つとして良いものがない」と言うのは本当の謙遜ではないと思う。確かに、罪はあるし、ではどんな良いものがあるのか、と聞かれると真直ぐに差し出せるものがあるという自信はないけれど、素晴らしい神様がわたしを作ってくださった。神様には失敗作はない。
 もっと神様を信じて、もっと喜んで、わたしはわたしの人生をエンジョイしよう!
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by s_soranotori | 2006-10-05 15:42 | 信仰・雑感

越境行為

 自分に負い切れない荷は負ってはならないと改めて痛感することがあった。
わたしは、ある方への対応を間違えてしまったのだ。
相手の方をとても傷つけてしまった。
 クリスチャンサイトを運営していると、時々、ネット上で色々な相談を持ちかけられる。
何か自分にできることを、と思って、ついつい、一生懸命になってしまう。
でも、わたしは専門のカウンセラーでもないし、その人の牧師でもない。その人の背景も充分に知らない。
ましてや、相手もわたしの事をよく知っているわけではない。
「この人なら、何か(自分にとって)良い事を言ってくれるだろう」と期待されても、必ずしもそうはいかない。むしろ、わたしの場合、「どう思いますか」と聞かれると自分の意見をはっきり書いてしまう傾向がある。わたしは、文字だと自分の気持ちや考えを表しやすいので、面と向かってはなかなか言えない事も、ついつい書いてしまう。
これはわたしの弱点だと思うし、軽率な部分で、反省しなくてはならない。
しかし、時々、いや往々にして、人は、他人に相談を持ちかけるとき、暗に自分の思いを肯定して欲しいと言う願いを既に持っている場合が多い。
しかし、それがわたし自身の意見と大きく食い違う場合、対応に苦慮する。
 以前にも、掲示板の対応で色々学んだつもりだったのに、同類の失敗を繰り返してしまった。
こちらは「失敗」「反省」で済むけれど、相手の方にはそんな言葉で簡単に済ませることはできない重大な傷を与えてしまう場合がある。今回もそうだった(と思う)。
 相手の方は、教会にも行っておられるし、カウンセリングも受けておられる。わたしが余計なことを書いてはいけなかったのだ。相手の方の心を傷つけただけでなく、わたしが口を挟むことで、その牧師先生やカウンセラーの方の働きをも邪魔してしまった、と思う。
本当に申し訳ないことをしてしまった。
わたしのしたことは越境行為だった。

 「自分に負い切れない荷は負わない」
心に刻み込んでおかなくては。
あとはイエス様にお委ねして、祈るしかない…。
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by s_soranotori | 2006-09-22 23:59 | 信仰・雑感

エルのお祈り

 エルはお祈りの力を信じている。
昨日、わたしがしんどかった時、エルはまだ食事中だったけれどおかゆを食べ終わったわたしは2階へ上がって横になることにした。
「エルが食べ終わったら、お祈りしにきてね」と言うと「いまおいのりしてあげる」と言ってお祈りしてくれた。
食べ終わったら「どうげんきになった?」と言ってベッドにやってきた。「まだ」と言うと「ちゃんとおいのりしたのにー」と文句を言っていた。
 今朝、朝ご飯を食べて着替えた後、部屋の隅で、ボソボソ一人でお祈りしていた。何をお祈りしたの?と聞くと「おてんきのこと」と言っていた。
そういえば昨日も、登園時に少し曇っていたので「今日はプールじゃなくてどろんこ遊びかもね」と言うと、「おいのりしよう!」と言って「どうかきょうもピカピカのおてんきにしてください」とお祈りしていた。
そして、「おいのりしたからだいじょうぶ!」って。
きっと今日も同じようにお祈りしていたのだろう。
 わたしも、子供のように素直に信じて祈ろう。
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by s_soranotori | 2006-08-29 15:59 | 信仰・雑感

ガリラヤ丸艇庫跡

 世界福音伝道団のキャンプ場が、琵琶湖の小豆が浜と言うところにある。
と言っても、琵琶湖近辺の人以外は小豆が浜、ってどこ?という感じかもしれない。
イヤ、琵琶湖近辺の人でも、よくわからないかも。
近江八幡の国民休暇村の近く、「長命寺」の近くといった方が通りがよいかもしれない。
で、このキャンプ場で開かれる小学生キャンプに行くグイドの送迎のために通りかかった道端に「ガリラヤ」という文字を発見し、気になって立ち寄ってみた。
そこにあったのは「ガリラヤ丸艇庫跡」と言うものだった。
キャンプ場の近くにこんなものがあったとは、ここに通い始めて6年になるけれど、初めて知った。

 看板に書いてあった紹介文(この看板の責任所在が書いていなかったので、許可を得ていませんが・・・)
「ウイリアム・メレル・ヴォーリズは1905年滋賀県立商業学校の英語教師として近江八幡に赴任した。しかし2年後キリスト教伝道活動を理由に解雇されたため、建築の仕事に着手する。
1910年にはヴォーリス合名会社を設立し、建築設計で経済的基盤を確立する。
翌年、近江キリスト教伝道団を結成。
14年には米国メンソレータム社創業者ハイド氏の寄付により、ガリラヤ丸を進水させ、船による伝道活動を開始した。

当所に伝道船ガリラヤ丸艇庫があり、ここを基地として近江各地に伝道したが、僻地の重病人を病院のある所まで運送することも多かった。艇庫の骨格・基礎は土地所有者により、現状のまま保存されている。」


 また看板には東郷正二郎という人が1960年頃に描いたその場所の風景画や、船上のヴォーリズ氏の写真なども掲載されていた。
場所は琵琶湖畔長命寺のすぐ近く。
その看板が誰によって作成されたものかはわからないけれど、こんな伝道船があったなんて、と感心。

 琵琶湖は日本一大きな湖。この湖のお陰で滋賀県では水不足はまずおこらない。
近年かなり水位が下がっているという時期もあったけれど、他府県のような深刻さはなかった。
しかしその反面で、霊的渇水は深刻なのではないか。
日曜学校の子供は減り続け、教会も高齢化など、問題が山積。
物質的な水は豊かだけれど、魂をうるおす命の水に渇いている人々。
ヴォーリズの精神を通してそんなことを思い、またわたしも、ヴォーリズのようにもっと愛と熱意を持ってキリストを伝えたいと思わされた。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
ヨハネの福音書4章13、14節


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現在の様子

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東郷正二郎氏の絵(複製の複製ですが無断掲載なので小さめにしています)

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船上のヴォーリズ氏など

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by s_soranotori | 2006-07-27 17:12 | 信仰・雑感
月刊わっは 5月号「なんでやねん」 露の五郎兵衛

 平成十五年十月二十六日栗東キリスト教会で洗礼を受けました。
 噺家がクリスチャンになるというのが世に言うミスマッチの面白さですやろうか。どんな心境で洗礼を受けたか、という話をするように、と、礼拝の中で要求されることが、多くなってきました。中には他都市の教会から頼まれて出かけて行くてなこともおます。交通費ぐらいは出してくださるのですが、なかに『ボランティアでお願いします』「なんでやねん」と言いとうなります。
 私はかりにも噺家、喋るのが商売です。こっちからボランティアで行ったげますと、言うのならともかく、ボランティアで来て下さい…て、言うかア?…
 けど世の中にはこういうのがママあるんですなア。自分らが良い事してるのやから他の人も協力するのがアタリマエやと思わはるんですやろねえ。
 電器店の大将に初対面でいきなり冷蔵庫一台おくんなはれって言えまっか。普通は言えまへんでエ。ボランティア、何とおそろしい言葉ですやろか。その一言で話が片づくと思うてなはる気持ちがおそろしい。
 ま、ともあれ私としては七十四年間生きてくる間に数限りなく生命びろいということを経験させてもろうて、「これは単なるラッキーやない、誰ぞが生かしてくれてはるのや」というところから出発した信仰でおます。
 ヨハネ15章16節「あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選び任命したのです」これや!!
 私はイエス様にスカウトされたのや。折角スカウトしてくれはったんや、これに答えなんだら申し訳ない。いつわらざる受洗の心境でおます。

露の五郎兵衛
つゆの・ごろべえ1947年二代目桂春團治に入門。桂春坊、桂小春團治を経て二代目露の五郎となり、2005年10月二世露の五郎兵衛を襲名。2000年紫綬褒章受章、大阪府知事表彰受賞。

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 上記記事は、月刊わっは5月号に掲載されたものです。本人の了承を得て転載させいただきました。

 クリスチャンを非難しているようだけど、自分もそのクリスチャンになったことをはっきり証ししている不思議な記事。

 でも、言い難いことをはっきり書いているところが気持ちよかったりする。

 父は、クリスチャンになる以前から「ボランティア」を依頼してくる人が大嫌い。
この記事は単にクリスチャンを非難しているのじゃなくて、「ボランティアを強要する人たち」への抗議文なのだ。
その辺を誤解しないで読んでいただければと思う。
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by s_soranotori | 2006-06-01 03:51 | 信仰・雑感

神方噺(福音落語)

 父は昨年末、新しい福音落語を自分で創作した。
この福音落語、グイドが「神方(かみがた)噺」と命名した。
実は、「ゴスペル落語」と言う名前では、未信者の落語家さんがすでに何本か創作落語を演じておられる。わたしはその中の1本のテープをいただいて聞いたけれど、落語としてのできはともかく、「ゴスペル」と名付けるのは、ちょっと…と思う内容であった。
しかし、上方落語会では超有名なその一門の方がとにもかくにも「ゴスペル落語」と言って口演しておられるのだから、それはそれで仕方がない。しかし、であればこそ、わたしが作ったものや、父が作ったものを安直に「ゴスペル落語」とは呼びたくないという気持ちもあった。
そこへ、グイドが「『神方噺』はどう?」と言ってくれて、なかなかいいアイディアではないかと思った。父にはまだ意向を聞いていないけれど、今後、第3作、4作ができるかどうかはわからないけれど、とりあえず「神方噺」いいんじゃないかな?
 わたしが作った第1作「教会根問(ねどい)」は、今後姉が引き継いでくれることになっている。孫弟子の○ちゃんもやる気まんまんだ。
そこで、姉が、昨日、台本を少し手直ししてメールで送ってくれた。
実は、わたしが突貫工事で作ったために、少々手抜きをした部分を姉が目ざとく気付いたほか、イエス・キリストを信じてはいるものの、家庭の事情で教会からは少し離れたところにいる姉から見て、未信者にもよりわかりやすくなるようにと配慮してくれた。
修正箇所はわずかなのだけど、そのわずかが結構効いているように思う。
 改めて読み返してみると「教会根問」は福音そのもの、まるで伝道メッセージのようなネタだと思う。
落語が仏教の説法から始まったと言う原点に帰ったようなものか。
正直に言うと、父が演じていたのはわたしが書いた落語の半分ぐらいだったのではないかと思う。
そのかわり父が演じると、わたしが書いた何倍も面白いし説得力もあったと思うが、作者として伝えたいことの全てが伝わらないもどかしさがあった。
もちろん、「落語」なのだから面白くなくては意味がないし、そこに父がやる値打ちがあったと思うので、それはそれで満足していた。
極端に言えば「露の五郎兵衛が福音落語を語る」と言うだけでも証し的な価値はあると私は思っていた。
でも、その父がさらに一歩進んで新ネタを作ってくれ、「教会根問」が若手に引き継がれたことには意味があると思う。
きっと、父とは一味違う「教会根問」が聞けるだろうと楽しみにしている。

 父のこんどの創作落語は人情噺。
神様の名前や説明的なことは一切出てこない。
ただ、聖書中の有名なエピソードを人情噺にしたもの。
 それは、言ってみれば三浦綾子さんの小説のようなものだと思っている(例えば「氷点」など)。
知らない人、クリスチャン以外の人が読んだら(聞いたら)、すぐに聖書の真理を語っているとは気付かないかもしれない。けれどもそこには確かに神様のこと、聖書の真理が語られている。
知らず知らずのうちに、人は聖書のお話を聞いていることになる訳だ。
 まだ完成、というのは早い感があるが、完成するのが楽しみな話だ。
そして、「神方噺」これからも大いに用いられますように。
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by s_soranotori | 2006-01-14 21:59 | 信仰・雑感

I have a dream.

昨年のいつごろからだったろうか。
キング牧師の言葉が頭の中で響き始めた。
きっともうすぐ、大きな大きな神様のプロジェクトが実現する…。
私はそれを見ることができないかもしれないけれど、もう恐れるものはない…。
「I have a dream.」のメッセージと、キング牧師最後のメッセージが混ざって頭の中でひとつのメッセージとなっていた。
キング牧師が夢見た神の国。
すべてのユダヤ人も異邦人も、カトリックもプロテスタントも全ての神の子が真の自由を勝ち取って神の栄光を仰ぎ見る時、そんな時が来ることを信じて、わたしも一歩を踏み出そう。

そんな思いが与えられた。

わたしたちが命をつないで、神様の真理を伝え続けて、きっと、きっと、神様の素晴らしいご栄光が全てを覆う時が来る…。

そのときを、単なる夢としてではなく、信仰によって、まだ見てはいないけれど確信して、すでに見たように信じて歩いていこう。

道は遠く果てしないようでも、神の国は確かにそこにある…。

深いけれどシンプルな聖書のメッセージが心に響いてくる。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカの福音書 1:45

信じるなら、わたしもその幸いに与れる。
なんと感謝なことだろう。

今年の、わたしのキーワードは、聖句じゃないけど「I have a dream.」
神の国の実現を、夢見て、信じて、確信して、前進していこう。
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by s_soranotori | 2006-01-13 10:43 | 信仰・雑感
 今年も我が家にはサンタクロースは来なかった。

 友人の日記にサンタクロースを信じている子供さんのことが書いてあって、ハタ、と我が家ではまだサンタさんをどう扱うか、曖昧なままになっていることを思い出した。
 Shionちゃんは、もちろんまだサンタさんを信じている。
26日、姉のところに餅つきに行った時、思い出したように「Shionちゃんのお家にまだサンタさん来てない」と言い始めた。
「サンタさん、もう保育園に来たんでしょう?」と言ってごまかそうと思ったけれど「そうじゃなくて、Shionちゃんのおうちにもサンタさんくるの。でもまだきてないでしょ?」と主張する。
「うーん、今年はShionちゃんのおうちにはサンタさんは来ないと思うよ、クリスマス終わっちゃったし」
「サンタさんは病気の子とか、そういうところに行くんだよ」とひとこと言うと、傍にいた小学1年生の姪(Shionちゃんの従姉妹)が加勢してくれた。
「あんな、この時期子供がいっぱいいるからサンタさんはすごく忙しいねん。全部まわりきられへんから、だから病気の子とか、貧乏なおうちとか、すごく大変なこどものお家にいかはんねん。だからサンタさん、Shionちゃんのおうちにはこられへんかってん」
この姪はとっても頭が良い。勉強の出来がいいという意味ではなく(別に勉強ができないという意味でもない、当然のことだけど)、人の心の機微に敏感で、感受性が豊かだ。
それでか、Shionちゃんの心を傷つけないように、一生懸命、説明してくれた。
Shionちゃんはあんまり納得していなかったけれど。
 多分、姉の家でもサンタさんはいないと、教えているのか、とにかくサンタさんが来る様子もないし、子供がサンタさんにプレゼントを頼んでいる様子もない。プレゼントは、おばあちゃんやおじいちゃんに貰ったプレゼント用のお小遣いで好きなものを買ってもらっているようだ。うちも同じなのだけど。

 わたしがクリスチャンになったときから、在籍していた教会ではずっと「サンタクロースはNO」だった。
聖書(キリスト教)的でない、という理由で排除されていた。
だから今の教会に来て、教会のクリスマスの飾り付けにサンタクロース関係の飾りがあってびっくりした。
最近は、キリスト教書店にも、サンタクロース関係のイラストや置物がたくさんある。
違和感がまったくない訳ではない。

 でも、最近少し迷いがある。
もともとクリスマス自体が異教文化から始まったものだ。
クリスマスツリーも、クリスマスリースも、ろうそくを飾ることも、全部全部異教文化からの転用だ。
ただ、そこには、少なくともキリスト教的意義付けがなされている。
 サンタクロースは、通説によるとカトリックの聖人に由来した伝説なので、まったくキリスト教的でないとは言い切れない。(いわゆる「福音的」という考えからは少し外れるかもしれないが)
でも、イエス・キリストとどう結びつけるのか?
サンタクロースを過度に強調すると、クリスマスのクリスマスたる所以が薄れてしまうのではないか?
そんな危惧がわたしの頭をよぎる。

 教会に来ている子どもでもサンタさんを信じている子はいる。
そういう子供の前でむげに、サンタクロースを否定するのもどうか、という気がする。
でも、グイドも、毎年のようにサンタクロースの由来とか、メッセージで語ったりしているから、遅かれ早かれうちの子は「サンタクロースはいない」ってことに気付くだろうしなぁ…。

 何よりもグイド(夫)とよく話し合って「我が家の方針」を決めなくては、と改めて感じた。
Shionちゃんも、来年には今よりもっと色んなことがわかってくる。
今年はなんとなくごまかして過ぎてしまったけれど、来年はそうも行かないだろう…。
クリスマスの時期になってしまってからでは忙しくてゆっくり考える時間がないから、それ以前にきちんと夫婦で話し合っておかなくては。
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by s_soranotori | 2005-12-31 01:14 | 信仰・雑感
 あることがきっかけで、声優のFさんのサイトを見ることができた。
Fさんはわたしが高校時代、大大大ファンだった人。Fさんは声優仲間とバンドなんかも組んでいて、とっても人気があった。父にないコネを無理やり作ってもらってそのバンドのコンサートの楽屋にうかがったこともあったっけ。
劇団活動もしておられて、舞台人を目指していたわたしにとっては憧れの人だった。
 ファンレターを毎週のように出していたわたしは、演劇学校の友人を介して、東京でFさんに再会することができた。
 その後、紆余曲折あってこのFさんの当時の奥様を通してわたしは教会に導かれ、クリスチャンとなった(本当の話はもうちょっと複雑なのだけど、シンプルにするとこんな感じ)。
 そのころにはFさんもクリスチャンとなっておられて一緒に教会に行ったりしたこともあった。当時Fさんは超売れっ子だったから、そう一緒に教会に行けたわけではないけれど。それから、半年ほどしてわたしは兵庫の実家に戻り、当然Fさんたちとは別の教会に通うようになった。…そしてしばらくして、Fさんご夫妻が離婚されたことを知った。
 実は最近は、日本でもクリスチャンの離婚についてよく聞かれるようになってきて、まあそれはひとつの問題ではあるのだけど、当時クリスチャンになってまだそれほど間がないわたしにとってクリスチャンであったFさんご夫妻の離婚はとてもショックだった。
 その後、奥様のほうはクリスチャンの方と再婚されて別の教会で教会生活を送っておられることを聞き、1、2度お会いしたこともあったけれど、Fさんとはお会いする機会も、音信も途絶えてしまった。Fさんも再婚されたことは聞いていたけれど、もう教会は離れてしまわれたのだろう、と思っていた。
 そして今日、Fさんのサイトを見た。
宝物は「妻から贈られた聖書&妻」と書いてあった。
座右の銘も、聖書の言葉だったし、尊敬する人は「天の父」と書いてあった(人か?)。
愛読書の欄に「バイブル」とも。
「ああ、この人はまだ信仰を捨ててはいないんだ」と思い、とても嬉しかった。神様に感謝した。
奥様も声優さんで、やはり同じように、宝物は「夫から贈られた聖書&夫」と書いてあったし、座右の銘も、尊敬する人も同様だった。
きっと奥様もイエス様を信じておられるんだ。
 ほんとうにほんとうに神様に感謝した。
わたしは、Fさんとの出会いがなければイエス様と出会うことはなかった。それは、直接的なつながりではなくて、不思議にグルグルと遠くから手繰り寄せられたような導きだったけれど、やっぱりFさんと出合ったことは、わたしには大きなことだった。
 そのFさんが離婚されて、教会を離れられて、証しの中でもFさんの名前を言えなくなってしまった。
でも、神様は、その生活の上で、どんな事があっても、一度救われた魂を見捨てられることはない。
その親子関係は、どんな事があっても切れることはない。
 それが嬉しかった。ただ、嬉しかった。
今は教会に行っておられるのか、どんな信仰生活を送っておられるのか、わからないけれど…。
どうか、これからもFさんの上に主の祝福が豊かにありますように。
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by s_soranotori | 2005-12-10 00:00 | 信仰・雑感