あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリ:信仰・証し( 10 )

神様からの取扱い

 ここ数日、とても落ち込んでいた。
いや、落ち込んでいたというのではないけれど、考え、祈り、考え、祈り…。
深いところをさまよっていた。
それで書いたのが、7月23日の日記だった。

 それを読んだ、ある人から、「神様の働きをバリバリしているのを、羨ましく思ってた」と言われた。
 確かに、日記を読んでいるとそう見えるかもしれない。いや、むしろそう見せていたのかもしれない。
けれども、本当は生ぬるくて、自分でも情けない状態だった。
愛がない。
人を裁いてばかり。
用いられている人を見ては 羨ましくなって…。
昔よく、「牧師同士でもよその教会が大きくなると妬むことがある」と言うような話を聞かされたけど、同じ過ちに陥っていた。大きく用いられている人を見ると羨ましく、いや妬ましく見ていたのだ。
そのくせ、何も努力をしようとせず、ただ人の目を気にして、内にこもって、じっと身をひそめて自分を守っているだけの者だったのだ。

 霊的な状態がいい時にはちゃんと受け止められる。
人にはそれぞれの場所があるのだ、と。
確かに、わたしも、いろんな教会や集会で賛美させてもらったり、よその教会でもメッセージさせてもらったり、 分不相応に用いられていると、畏れ多くなる。

 でも、霊的状態が悪くなると「自分」が前に出て、自分が栄光を受けたくなってしまう。
もともと女優を目指していたぐらいだから、肉の性質としてそういうのが強く残っているのだと思う。

 だから事あるごとに、思い起こして、悔い改めて、ささげなおさなければならないのだ。
自我をささげるというのか…、明け渡す、という方が適切かもしれない。
そういう悔い改めは折に触れて必要なのだと思う。

 今回のコトの発端は、ある教会にお招きを受けたことだった。

 最初、その教会にはわたしは一緒に行かないことになっていた。特に奉仕のご依頼もなかったし、父も証しだけのご奉仕ということだったので、わたしが行かなくても大丈夫だと思っていた。
もちろん、証しだけのご奉仕でも、遠方や特別なことがない限りほとんどはサポートのために父と同行している。けれども、その日はわたしの属している教会も特別伝道集会なので、わたしが教会をあけるわけにはいかず、両親だけで行ってもらう予定をしていた。
 ところが、最近になって、先方から
「一緒に来て下さるんですよね」と確認してこられ、
「いや…、その日は行けないんです」というと
「賛美してもらいたかった」と、とても残念がられた。
その言葉を聞くと、わたしの中で「賛美したい」という思いが強くなって、行けないことにすごくがっかりした。
けれども、一番がっかりしたのはその教会に行けなかったことではなく、がっかりした自分自身に対してだった。
わたしはどこに召されているのか、まず一番に仕える場所はどこなのか、それを考えたら、迷ったりがっかりしたりするはずない、と思ったからだ。
わたしは、人前で「賛美」ではなくて「歌」を歌いたかっただけなのだ。そう気付いて自分で自分にがっかりした。
わたしは神の栄光ではなく、自分の栄光を求めていたのだ。

 実は今年の2月に父がご奉仕させて頂いたある集会でも、わたしも一緒にお招きを受けたのだけれど、教会総会と重なっていたのでわたしは一緒にうかがうことができなかった。
その時のことも引きずっていたので、何重にもがっかりしたのだと思う。
つまり、前にも賛美させていただく機会を失ったことに対するがっかり、そしてそれにこだわっていた自分に対するがっかり、そして今回のがっかり…。

 それらのことに気付かされ、がっかりの中から23日24日と、神様を見上げて祈って、ゆだねて、わたしが召されている教会をさらに愛し、そこでしっかり主に仕えさせていただこう、と改めて思い至ることができた。
賛美も、決して自分が前に出て、自分が栄光を受けるためではなく、神様の必要とされる時に、ただ神様のご栄光のためだけにさせていただけるように、わたしが本当の賛美をささげることができるようにと、改めて心から願い、祈った。

 そこから新たな展開が始まった。 
まず24日の夜、ある教会の先生から、「秋の特伝の日に賛美をお願いします」と言われた。
そして今日、件の教会の方が打ち合わせに来られて、どうしてもわたしに一緒に来て賛美してほしいので、それに合わせて日程を変更させてもらえないか、と言って下さった。

 神様のなさることに、畏れを覚えた。
神様は、間違ったところに陥っていたわたしを砕いて下さったのだ。
より深い罪に陥らないように、守り、導き、教えて下さったのだ。
その上で、賛美の機会を与えて下さった…。
わたしが間違った心のまま賛美することがないように、導いて下さったのだ。
そう思うと本当に、こんなわたしを、神様が用いようとして下さることがなお不思議でならない。
本当にわたしは未熟な、あかんたれなのに…。

 わたしは、また繰り返し同じところに陥るだろう。
もちろん、そうしたくはないし、そうならないように努力もしよう。
けれども、わたしの肉の弱さは、きっと同じことを繰り返すだろう。
こんなわたしの弱さを、イエス様はすべて御存じなのだ。
わたしのすべての弱さ、愚かさを知られていることは何とも恥ずかしいことだ。
けれども、それをすべて御存じの上で、なおわたしを愛し、導き、時に矯正して、用いてくださることは、それ以上に大きな喜びであり、神様に感謝せずにはいられない。

 「わたしを用いてください」と願うことは、大それた不遜な祈りなのかもしれない。
自分の中に用いていただける何か良いことがあるとでも思っているかのようだ。
確かに、わたしから生まれるものにはなにも良いものはない。
けれども、主はわたしを「よいもの」として作って下さった。
以前も引用した三浦綾子さんの言葉によれば、神様は役に立たないものをおつくりになられるほど愚かではない、とのことだ。
いや、以前は役に立たないものであったかもしれないわたしは、主にあって新しく生まれ、真に「オネシモ(★)」とならせていただくことができるのだ。


 どうか何度でも、道から迷い出るわたしを主が連れ戻して下さいますように。
同じところをぐるぐる回る愚かな者でも、螺旋階段のように、少しずつ高みへと引き上げてくださいますように。
わたしを、真の賛美へと導いて下さいますように。たとえそれができなくても、少しずつでも真の賛美に近付いていくことができますように。
いつでもわたしが、賛美だけでなく、喜んですべてのものを主の御前に差し出すことができますように。
どうか、主の御栄光のみが輝きますように。
わたしではなく、主の御名が高められますように。



★「オネシモ」
聖書の「ピレモンへの手紙」に出てくる、ピレモンの元奴隷。
ピレモンのものを盗んだか何か、大きな損害を与えてピレモンのところを逃げ出したが、ローマでパウロに出会い、改心し、イエス・キリストを信じる者となった。
「オネシモ」とは「有益な」という意味。
彼は、その書簡の中で、パウロに

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」と書かれている。
[PR]
by s_soranotori | 2007-07-25 23:59 | 信仰・証し

イースターに思うこと


 この春、わたしには心に一つの思いが与えられた。
道が開かれれば神様の御心、と思いながら祈っていた。
最初はグイド(夫)にだけ話して、それから祈りつつ計画を進めて行った。
かなりの困難が予想されたけれど、グイドはわたしの気持ちを理解して協力すると言ってくれた。
途中からはすっかりその気になって、もう道は開かれたとばかりに姉と母にも話した。
けれども、あとは一歩を踏み出すばかり、という時になって、心の中にストップがかかった。
今、わたしが一番大切にすべきことはそれではない、と…。
そして、もしわたしがその計画を推し進めると、わたしは今よりもっともっと高慢の罪に陥ると(今でさえ高慢の罪に悩まされているのに)示された。
結局、計画は断念した。
少なくとも「時は今ではない」と。

 実は、その前にもう一つ砕かれた思いがあった。
自分のことではなかったが、「実現したら素敵だな」と言う思いがあった。
初めから無理だとわかっていたのに、それに反して「実現して欲しい」という願望があった。
でも結局、それはやはり無謀な思いだった。
わたしの思いは打ち砕かれた。

 この2つの事を通して、何度も泣いた。
それだけではなく、とても苦しい時期があった。
一つ目のことはエル(娘)に関することで、この思いが打ち砕かれた為に、一時期エルの事を愛し難くなってしまったのだ。
いつも、イライラして叱ることはあっても、すぐに忘れ、朝な夕なに「可愛い、可愛い」と思って過ごしていたのに、それができなくなってしまったのだ。
自分でも苦しかった。エルへの愛情がその程度のものだということが自分でも悲しかった。
 その後、2つ目の、自分に関する思いが与えられ、また希望が与えられたことで、娘に対する思いも回復した。
けれども結局、この2つ目の思いも砕かれた。
 しかし今では、この2つの事柄が無関係ではなかったこと、2つともが神様の摂理の内に起こったことを感謝している。
今は神様の御心の時ではなかったのだと。
なぜだか、絶対に道が閉ざされたと言う思いはない。
「時」ではなかった、と言うこと、そして今は道を閉ざされたことが時にかなって麗しいことなのだと感じている。
そしてまたいつか時が来れば、そしてそれが本当に私に相応しいことなら道は開かれていくだろうと。

 少し前にも書いたけれど、「謙遜」と言うのがずっと、最近のわたしの課題。
ずっと自覚していることだけれど、わたしはとても高慢な人間だ。
今回、神様は、わたしが高慢になる前に「高慢の芽」を摘み取ってくださったのだと思っている。
そして、それらのことは決して「ダメ」と言う絶望ではなく、「いつか時が来る」という希望が与えられている。
それで今はこの事を感謝している。

 さてその一方で、やっぱり心はどこかで静かに戸惑い、停滞していた。
「それならばわたしは何をすればいいのですか?」と。
いや、すべきことは目の前にたくさんあるのに、それらに対する意欲が湧いてこない。
このままではいけない、という焦りを感じることもあった。

 こんな時に限って、神様からのチャレンジはどんどん押し寄せてくる。
いや、むしろ自分が蒔いた種の刈り取りと言うべきか。
 元来わたしは、まったくと言っていいほどリーダーシップのない人間だ。
自分が中心になって何かを進めるのは大嫌い。
それなのに、でしゃばり精神みたいなものもどこかに潜んでいてついつい色んなことに口を出してしまい、自分が動かなくてはならなかったりする。
こんな時に限ってそういう事柄が押し寄せてくるのだ。

 思いと思いとの狭間に押し潰されそうになってどうしていいかわからなくなっているときに、あるブログで「勝ちに行く」という言葉を見た。
受難週であるその時期に、敢えて「勝ちに行く」と宣言されたそのことばにハッとした。
わたしが信じている神、イエス・キリストは勝利の主、この神を信じているわたしが何をフラフラしているのだろう…。

 まだ、完全に回復したという訳ではない。
でも、イースターのこのとき、わたしはもう一度原点に戻る事を教えられた。
あの、イエス・キリストを信じ、十字架の血潮に与り、罪の贖いの為の死と葬りと復活を信じて救われたあのときの喜びと力をもう一度思い起こして、力強く、一歩を踏み出そうと…。

 とは言え、心は熱していても肉体は弱いわたしだ(それを言い訳にしているところがさらに情けない)。
まだまだ、エンジンがかかるまでに時間がかかりそうだけれど、ここにこうして書き記すことで、また新たな種を蒔こうと思う。
神様の力により頼みつつ…。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
ピリピ人への手紙2章3節~11節

[PR]
by s_soranotori | 2007-04-09 13:38 | 信仰・証し

わたしの賛美

 新しいポータブルMDを買ったのを機に、自分の、過去のいくつかの賛美のMDを聞きなおした。今までに何度も書いたけれど、技術的には本当にガッカリだ。あまりに不十分なできに情けなくなる。
こんな者が前に立って賛美してきたのかと思うと恥ずかしくなる。

 いつも同じことの繰り返し。
しかし、どうしても、「賛美」というご奉仕を自分の働きから取り去る事は考えられない。
もし、自分に「賛美」の賜物があるのならそれはどういうことなのか、どんな賜物なのか、どう用いるべきなのか、最近、祈りの中でずっと考えていた。
そんな中で、たどりついたのは「ことば」だった。
わたしは「ことば」を語る者であり、「ことば」を伝える者であるということ。
そしてわたしは「ことばなる神(=イエス・キリスト)の福音」を伝える者だということ…。
「歌う者」ではなく「語る者」…。それはわたしが天の父と、肉の父から受け継いだもの。
わたしの賛美は、「歌い手」としての賛美ではなく「語り部」としての賛美。そんな風にわたしの中にストンと落ちるように入ってきた思いがあった。
これからも、主の福音を伝える者として、語る者として、主を賛美し続けたい。今、そんな願いを持っている。

 こんなことを、書くのもおこがましい、恥ずかしい、と思ってしまう自分がいる。
しかし、今はあえて書くことで自分を押し出そう、と思う。
そして、決して歌手のように上手ではなくても、これからも「語り部」として主を賛美し、主のご栄光を伝え、主の福音を伝えて生きたい。今、そんな願いが与えられている。
[PR]
by s_soranotori | 2006-12-02 21:05 | 信仰・証し

異教との関わり

 掲示板で、墓参りの問題が出たので、改めて、異教との関わりについて考えてみた。
掲示板に書いたことも含めて、もう一度自分の考えをまとめておこうと思う。
他の掲示板でも、盆踊りなど地域密着型(?)の行事などとの関わりも話題に出ていたし…。

まず墓参りの問題。この問題は、日本では非常に複雑な問題だとは思う。
 しかし、わたしの中では断固できないこと。
わたしも「墓」そのものが悪いわけではないと思う。
仏式のお墓であっても仏壇であっても、掃除をしたりすることはかまわない、と思っているし。しかし決して手は合わせない。
 幸いなことにわたしは、独身時代から今日まで、一度も、仏式のお墓参りを強要されずにすんだ。というか、断固拒否した。親も割りに民主的な(?)ところがあり、「何が何でも来い!」というような強固な姿勢ではなかったように思う。
 親戚の家の法事だったか(?)に、母を車で連れて行ったときにも、正規の時間前について、無理やり仏壇の前に座らされたけど(これは家の中だけでなく、体面があったようだ)、焼香もせずに、頭だけ下げて、手も合わせずに帰ってきた。
後ろの席についていた人は少し変な顔をしていたけど。
 友人のお母様が亡くなったときは白っぽい花を少しだけ買って行き、「クリスチャンなのでお焼香できなくてごめんね」とその花を友人に渡した。日頃からクリスチャンだと話していたので、納得してくれた。友人は、その花を祭壇においたようだけど、わたしは自分で供えることはしなかった。
 夫の母親は、夫が1歳半の時に亡くなり、結婚する時には既におらず、夫の父親は、わたしたちが結婚した約10日後、新婚旅行から帰ってきた翌日亡くなった。
わたしたちはすぐに北海道に飛んだが、夫には兄がいて、喪主はその兄であったため、仏式での葬儀となった。前夜から、葬儀場に泊り込むこととなったが、焼香等は一切しなくてすんだ。
 というのは、夫の伯母と従妹がクリスチャンであったため(特に伯母は非常に熱心な方で)、通夜の席などで座席に回ってくる焼香の箱(盆?)はそのまま隣に回し、また葬儀本番の時は、もう焼香順の読み上げリストからも名前を省いてもらうことが出来たのだ。通夜の会場でも葬儀の会場でも、クリスチャンで集まって、ともに祈ることが出来、本当に感謝だった。
 最初は結婚してすぐの葬儀で、それも父親の葬儀でとても緊張した。「次男の嫁は焼香もせんのか」と言われたらどうしようかと…。でも、そのようなことをいう人もなく、すべての場面で守られたことを本当に感謝した。
 その後、夫の親戚の葬儀に出たときも、「わたしたちは焼香できないので…すみません」と事前に言っておいたら「ああ、あんたんとこは宗旨が違うもんね」とあっさり受け入れてくださり、その伯母の日頃の証しに感謝した。
 わたし自身の親には、救われたときすぐに、これからか墓参りも仏壇を拝むこともしない、と宣言し、その時以来したことがない。最初はブツブツ言われたこともあったが、わたしとしては、一貫した態度を取り続けたことが良かったと思っている。
 実際、わたしは非常に恵まれているのだと思う。
生まれ育った場所は、地域的にも、さほど因習が強い訳でもなく、父は身内に縁がなく、母も、次男の子供なので、元々実家の墓はなかった。母が、亡き両親の墓を立てたくらいだ。
そういう意味で、父方の墓も、母方の墓も、わたしの両親の代で建てたものだったから、先祖代々の墓という訳ではなかった。
 それでも、娘2人なので、自分がクリスチャンになったときには随分悩んだ。
とりあえずは、姉が、お墓のことは自分が何とかする、といってくれたけど、親が死んだ時の葬儀のことなど、考え始めたら、鬱々とした気分になった。そのとき、ふと、「そうだ、両親がイエス様を信じて救われれば問題は解決する」と思った。
そのときから、両親の救いを祈り始めた。
 両親は割りに民主的なところがある、と先程も書いたけれども、そのうちにわたしのために配慮してくれるようになり、自分たちが留守で、わたし一人が留守番している時にはお坊さんに来ないように「留守だ」と連絡してくれたりもした。(それでも来られて、しきたりなどわからず、慌てふためいたことはあったけど)
 結局、両親は、バプテスマを受ける前に、寺にあった墓を処分してくれた。

 もちろん、偶像崇拝を拒否するに当たっては、色々と難しいこともあるだろう。
立場によってはそう強硬な態度をとれないこともあるだろう。
日本ではまだまだ「嫁」の立場は弱い。
一番良いのは、ご主人が救われてクリスチャンになり、ご主人がはっきりとした態度を取ってくれることだと思うけれど…。それでも長男であったりすると、なかなか難しい場合もあるだろう。
親戚の手前だとかなんだとか…。
 また、会社などの場でも、難しいことだろうと思う。わたしが知っているビジネスマンの方も、降格覚悟で祈りに祈って闘っておられた。

それでも、とわたしは思う。
「多くの日本のクリスチャンが何故この問題でもっと闘おうとしないのだろう」と、もどかしく思うことがある。
周囲との和を考えるのも大切なことだと思うけれど、少なくともわたしは、主が何よりも嫌われる偶像崇拝について、妥協することは出来なかった。

わたしが来たのは
地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。
わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、
剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、
嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
わたしよりも父や母を愛する者は、
わたしにふさわしい者ではありません。
また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、
わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ10:34~38

主は、義なるお方だ。
気をつけないと、わたしたちはついつい、神様の愛なるお方、という面ばかりに目を向けてしまいがちになる。
しかし、主は義なるお方、裁き主でもあられる方なのだ。
また別の箇所には

あなたはほかの神を拝んではならないからである。
その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。
出エジプト34:14

とある。何よりも偶像崇拝を嫌われる主であると、わたしは信じている。
人に愛を表すことと妥協することは別物だと、わたしは確信している。
わたしも、墓参りや、初詣の車での送迎は何度もしてきた。いや、墓のそばまで行ったこともある。
それでも、拝むことだけは決してしなかった。

 墓の中に、骨はあっても、そこに死者の魂はない。
もちろん、仏教徒はそうは思っていないだろう。仏教徒でなくても、日本人は漠然とそこに死者の「何か」が宿っていると考えるだろう。
でも、わたしたちは、クリスチャンなのだから、そう思えなくても当然だと思う。
わたしたちクリスチャンの歩みは、世と調和しないもの、と言い切ってしまうと御幣があるだろうが、必ずしも、すべての面で調和することはできない。

しかし、杓子定規に「それは罪だ!」と糾弾することは御心でないと思う。
人それぞれに、辛い思いをし、祈りつつ、その場その場で最善を選択しておられるのだということは、十分理解できる。
まずは、クリスチャンが、もっともっと増えて、市民権を得られるように、より多くの人がイエス・キリストを信じ救われるように祈る必要がある、ということだろう。

 いずれにしても、クリスチャンの、異教との関わりは、複雑だ。
墓参りは、明らかに仏式行事の一環で「偶像崇拝」と位置づけることが出来るが、では盆踊りはどうなのか?
他サイトでもこの話題でひとしきり沸いたけれど、非常に難しい。
元々は、信仰から出ていることは確かだ。しかし現在ほとんどの人はそこに「念仏踊り」の面影を見ない。単なる地域の夏祭り程度の感覚しかないだろう。
でも、「だから盆踊りはOK」なのか?
わたしは、なんとも言いかねる。
が、少なくともわたしは出かけない。多分子供にも行かせないだろう。
前に日記にも書いたと思うけれど、雛祭りも七夕も、子供には教えていない。
ある先生は、「鯉のぼりはOK」と言っておられた。偶像性が低い、と…。
しかし、3月3日、5月5日、7月7日という暦そのものが、節会に基づくものである限り、その節句を祝うのはどうだろう…?
 しかし、一方で、これらのことを、既に信仰心はそこになく、単なる季節の風物詩としてとらえる人もいる。伝道者であっても…。
ただ、わたしは、偶像問題に非常に厳しい教会で育ったため、どうも、その辺に対する厳格さから抜けきれない。
 これらの問題を、人に押し付けるつもりはないけれど、わたし自身は、どこまでも、こういうものに敏感であり続けたいと思っている。
 しかし反面、そういうものを見たり触れたりする一切のことがいけないのか、と言うとその辺は割りに柔軟だったりする。
 崇拝行為はしない、自分ではお祭り(お祀り)しない。しかし、お祭の屋台でたこ焼きを買って食べることがいけないとは思わない。国宝である神社仏閣を見に行くことが罪だとは思わない。証しという点では微妙だけれど、躓く人への配慮があるなら、それ自体を禁止するほどのことはないだろう。
けれども、お祭の屋台でたこ焼き(別にりんご飴でもおでんでも何でもいいのだけど)を買うことで、「お祭に参加していた」とみなされるなら、わたしはしたくない。
ああ、しかししかし、祇園祭の鉾の巡行を見ることが罪なのだろうか?天神祭りの船渡御を見るのが罪なのだろうか?信仰心のない観光客だって、外国人だって喜んで見ているではないか? その祭を「見に」行くことは、参加することなのか?
 こうやって考えてみると、何が信仰で、何が文化なのか、日本という国の中で、どう神様に従っていくのか、非常に難しい問題だと感じる。

 今、神学的に「コンテキスチャライゼーション」日本語で言えば「文脈化」もっと簡単に言えば「土着化」ということが言われている。
 かつては、キリスト教は欧米から来た宗教であり、教会では、文化・習慣も、欧米的なものがどんどん歓迎された。むしろ日本的なものを排除する傾向があったと思う。
 しかし、その中でも、元旦礼拝、大晦日礼拝、成人式、子供の日や七五三の時期に児童祝福式、婚約式、(葬儀の)前夜式などなど、多くの日本的な習慣が教会に取り入れられてきた。
 キリスト教と異教との関わり、ということを言い出すなら、クリスマスは最も顕著な例だろう。
 クリスマスは、元々、明らかに異教の祭であった。しかし、そこに、明確なキリスト教的意義付けがなされ、見事にキリスト教化されていった。

 偶像や、異教の問題について、ひとつの結論を出すのは非常に難しい。
 しかし、わたしたちの信じる全知全能の創造主が、偶像を忌み嫌われる神であることに間違いはない。
 そういう意味で、わたしたちは、何が偶像で、何が習慣なのか、よくよく見極め、祈る必要があるのではないだろうか。
 また、辛い思いで偶像崇拝を強要される人が一人でも少なくなるように、祈っていきたいと思う。

追記
夫が、自分のサイトの掲示板にも盆行事関係の書込みがあったことを受けて、わたしのことを書いてくれた。
以下に、その前文を夫の許可のもとに転載しておきます。(一部若干の修正あり)

 私は、仏式行事を無難にやり過ごすことも選択の1つだと思います。
 皆さんもご承知でしょうが私の家内は、落語家の娘です。その落語家の娘がクリスチャンになりました。そして、彼女(墓参りは一切しないなど)は戦いました。
 落語の創生を御存知の方はいらっしゃると思いますが、元々は落語は仏教の説法から生まれたものです。そして、興行として落語をはじめた場所は、北野天満宮であります。となると、落語家にとって如何に仏教や神道の関わりが深いかが想像できます。そんな中彼女は戦ったのです。
 信仰をもって初期の頃は、母親からの激しい反対がありました。
 父親はこのことに関して言葉は少なかったようですが、実際はあまり喜ばしいこととは考えていなかったようです。彼女が結婚するかなり前の頃、彼女は父親に勧めたようです。[キリスト信仰を持つ]ことを。その時は「お父さんはなられへん」答えたということです。この時にはお寺に家の墓(仏式)を所有しておりました。
そして結婚してから暫くして、同じようことを家内は尋ねました。すると「お父さんまだ分からん」と答えが変化しました。
その後、彼女の父親は、病気をして奇跡的に癒されることがあり、祈りはじめました。そしてこの病を機に上方落語協会会長を退き、それ以後は対外的な代表焼香や、葬儀委員長を務めることもほぼなくなったことが切っ掛けになったのか、突然「教会に行く」と家族に告白され、それから数ヶ月後「洗礼を受けたい」と私に申し出られました。これに伴い、自主的に墓を処分し、2003年10月26日にバプテスマ式へと導かれたのです。
 今は、キリスト教式の墓を建てることが目標となっています。
 さて、この話を聞いて、もちろん賛美両論あると思います。
 しかし、申し上げておきたいことは、戦うというということを選択した妻が最後に見たものは、神様からの思いかげない祝福であったことは確かであります。そして、家内に限らず、このような経験をされた聖徒は確かに存在するという事です。
 偶像崇拝禁止は聖書の教えなれども、愛の神だからゆるされるといってといって妥協することも道でしょう。
 しかし、私たちは忘れてはなりません旧約聖書を…。
 なぜ預言者が立てられたのですか?
それは、神が愛の神であると同時に義の神様、裁きの神様でもあることを民に知らしめる為ではなかったでしょうか?
王ソロモンが栄華を極めた時のイスラエル、その後は国は2つに分かれました。なぜ分裂しましたか?
その後分かれた2つの王国ユダとイスラエルはなぜ滅んだのでしょうか?
ユダヤの民が離散し捕囚として引いていかれた理由は何であったのですか?
 これらのことを胆に命じるなら、神の御心は何であるか理解出来ると思います。
その上であなたは何を選択するのか?その選択に応じて人は蒔いたものを刈り取るようになるのです。

 わたし自身、偶像問題に断固として立った結果、神様は大いなる祝福を下さった。
 両親の救いとバプテスマ…。
わたしが、一貫して、偶像崇拝を拒否するという態度を取り続けて、結果的に良かったと思うのはこの故である…。
 もちろん、こうすれば家族が救われる、というものではない。しかし、人は蒔いたものを刈り取る、ということは、聖書の一貫した原則だと思う。
 わたしは、多くの人は救いに導けないかもしれない。しかし、この両親にイエス様を紹介できたことは、この上ない恵みであったと感謝している。
 夫の書いたことを一点だけ補足するなら、偶像崇拝は、旧約聖書だけでなく、新約聖書でも厳しく戒められている。(Ⅰコリント10章など)
 もちろん、誰が闘っていて誰が闘っていない、などと、個人的に人を裁けるものなどいない。裁かれるのはただ神様だ。
だからこそ、それぞれのクリスチャンが、自分に出来る精一杯を勝利の栄冠目指して戦い抜いて欲しいと祈るばかりである。
[PR]
by s_soranotori | 2004-08-17 00:00 | 信仰・証し
 わたしは、1983年2月9日に、イエスキリストを信じ、救われ、いわゆるキリスト教的、新生を体験した。昨年は、信仰を持って20周年だった。
その年に両親がバプテスマ(洗礼)を受けたことはとても嬉しいことだった。
 1984年、2月11日にバプテスマを受けたので、今年は、わたしがバプテスマを受けて20周年に当たる。それで、という訳ではないのだけど、昨年に引き続き、私自身の信仰の歴史について、もう少し書き留めておきたいと思う。

 今回は、信仰を持つ背景となったものを、もう少し、また違った側面で書いておきたいと思う。
 信仰を持ったときの事は、先に書いたが、他にも色々な導きがあった。

 自分で言うのも何だが、わたしは感受性の強い子供で、本や映画、TVなどにすぐに感情移入をする子だった。
 いつだったか、「ハイジ」の映画を見た。アニメではなく実写の、海外製作のものだったが、それを見てきてから、しばらくの間、毎日ベランダに出て空を見ながらお祈りしていた(何に向かってかはわからないけれど)。
 小学校高学年ごろ、「アンネの日記」を読んだ。それから、自分も日記に名前をつけて手紙のようにして日記を書いた。
 TVで「赤い靴」というバレエもののドラマをやっていた。あこがれて、バレエを習い始めた。
 そんな話は枚挙に暇がない。
 「赤毛のアン」や「ジェーン・エア」などの本を読んでは教会というものにあこがれた。中でも「ジェーン・エア」は小学6年の時に夢中になり、8回も繰り返して読んだ。
 とにかく小学生の頃は本の虫だったので、色々な本を読み、その影響を受けた。その頃読んだ少女漫画の影響もあったかもしれない。
 中学の時、通学路の途中に小さなカトリック教会があった。
行ってみたくて、いつも、いくつかある帰り方の中で、一人の時は、いつもその教会のそばを通って帰った。
 話は変わるが、その頃私は宝塚ファンだった。
 宝塚というのは、阪急グループの劇団なので、当時、阪急百貨店のレコード売り場と、同じ百貨店内の「宝塚コーナー」によく通った。毎回買い物をする訳ではないのだけど、ただ、いろいろな物を眺めては楽しんだ。
 当時、レコード売り場は、書籍売り場の隣にあった。その書籍売り場に「ホーリーコーナー」というのがあった。そこには聖書が売ってあり、時々カトリックのシスターらしき人がお店に駐在していた。マリア像や、クロス、キャンドルなど、ロマンチックなものも売っていて、わたしはそこが大好きだった。他の店内よりは、少し薄暗い神秘的な雰囲気がして、レコード売り場に行くと、必ずそこにもよるようになった。
何度かキャンドルや燭台を買った後で、一冊の聖書を買い求めた。たいして読んだわけではないけれど、その頃、家庭科の実習でパジャマを作ったギンガムチェックの布のあまりでカバーを作り、大切にした。
 考えてみれば、なぜかわたしは「聖書」というものに関心があったようだ。
 小学校中学年の頃、やはり百貨店の書籍売り場で(これは神戸大丸だったような気がするけど…)、誕生日に好きな本を買ってやるというので、姉と一冊ずつ選んだ時もわたしは「聖書物語」を選んだ。モーセが(たぶん紅海を前にしていたのだと思う)風を受けて崖のようなところに立っている絵が表紙だったと記憶している。母に「あんたこんな本がエエの」と言われながらも「うん、これがエエ」と買ってもらった。それも、実はそんなに熱心に読んだ記憶がないのだけど、とにかく、買ってもらった時は嬉しかった。
 救われてから振り返ってみると、もっと小さい頃に与えられていた絵本のことまで覚えている。イエス様の誕生から、最後はどこまで書かれていたのか、ヨハネのバプテスマを受けられるイエス様の絵は覚えているけど、十字架は記憶にないから、神の国をのべ伝えた、というところまでだったのかもしれない。あるいは忘れてしまったのか。とにかく、イエス様の誕生の時の、東方の3人の博士がらくだに乗っている絵がやけに印象に残っている。
 こうして振り返ると、本当に小さい頃から、様々な方法を通して、神様はわたしに語っておられたのだ、と感じる。
 もちろん、わたしは教会にばかり関心を持ったわけではなく、小学校高学年から中学にかけて、漫画や宝塚の影響もあって、新選組に興味を持ち、司馬遼太郎など、歴史小説も色々読んだ。新選組に関しては、愛好会みたいなものに入ったり、壬生寺や京都の史跡にもよく通ったりしたものだ。神秘的なものにあこがれるわたしは占いも大好きだった。わたしは熱しやすくさめにくし性格だと、自分でも思う。習い事や勉強に関しては、あまり長続きはしなかったけれど…(^^)
 話を元に戻そう。
 聖書を買ってしばらくして、わたしは、思い切って教会に電話をかけてみた。中学1年の時だったと思う。教会の前で電話番号をメモするのが恥ずかしかったわたしは、一生懸命暗証しながら家に帰って、電話した。たぶん神父さんだったのだろう、男性が出られて、「誰でも行っていいのですか」という質問に、丁寧に、「どうぞお越しください」と答えてくださった。
 次の日曜、わたしは、教会に出かけた。いつも教会の看板を見ていたから、集会の時間もわかっていた。
 はいると、思っていたとおりの神秘的な雰囲気で、教会は素敵なところだった。けれども、中で何が行われているのかさっぱりわからなかった。何か水の入った鉢のようなものがあって、それを触っていた人もいたようだけど、何をしているのかわからなかった。自分がどうすればいいのかもわからなかった。誰も何も教えてくれなかった。
 しばらくして、回りを見回して、後ろのほうの席にそっと座った。なんだか集会(ミサ)が始まったようで、みんなが賛美歌を歌い始めた。幸い賛美歌だけは隣の人がそこにあったものを貸してくださった。でも、歌は知らないし、何が起こっているのかもさっぱりわからないまま、いつの間にか集会が終わったらしく、皆が席を立ったので、わたしも席を立った。神父さんらしき人が、「またいらしてください」と言ってくださったような気もするが、他の人はほとんど声をかけてもくれなかったし、その日、洗礼を受けられたらしいベールをかぶった若い女性の周りに皆が集まっているのを横目に身ながら、少し淋しい思いで帰ってきた。また教会には行きたかったけど、なんとなく足が遠のいた。
 そうこうするうちに、中学2年の初めに引っ越してしまい、その教会とは離れてしまった。
 引っ越した地域は、プロテスタント教会がいくつかあり、中には熱心な信徒の方が、家の前に大きな集会案内の看板を出しておられるところもあった。また、時々、電柱という電柱に真っ赤な十字架の着いたポスターが貼られ、伝道集会の告知がされていた。
 それらを横目に見ながら、結局教会には行かずに残りの中学時代をすごし、高校に進学した。
 高校は、ミッションスクールではないけれど、キリスト教主義を取り入れた学校だった。
 この違いは、後になってわかったのだけど、ミッションスクールというのは、宣教師やキリスト教団体が、宣教の一環として建てた学校のことで、わたしの通っていた学校は、もともとミッションスクールではなく、裁縫学校から、女学校、女子高校へと転換してきた学校で、その途中、道徳教育のためにキリスト教教育を取り入れたと聞いた。
 この高校を選んだのは、「美術科」というのがあり、そこでは、2年生に理系の授業がなく、3年では数学がない、という、単純な理由だった。それと、その頃には、演劇の道に進む決心をしていたので、普通のクラスよりは、芸術系のクラスの方が後々役に立つだろう、というぐらいの思いだった。公立高校にも行けたけど(わたしたちの地域では、有名私立高校はともかく、公立は比較的レベルの高い部類だった。レベルからすると、有名私立進学校、公立高校、一般私学の順。一般私学にもピンからキリまであったけど)、公立高校で受験戦争に巻き込まれるのはごめんだと思い、私学一本にした。まあ、美術科は比較的狭き門だったので、私学専願でも「美術科」というとそれなりに格好がついた。他の受験者の中には、美術科は専願でないと入れない、と言われたという人もいた。
 まあ、学歴ですべてが決まるわけじゃないし、ウチの父は小卒でも大学で講義できるようになった、という人なので、気にはしないつもりだったけど、それなりに、周りのこともちょっとは気になる年頃だった。
 それはさておき、とにもかくにもキリスト教主義の高校だったので、1年の時には聖書の授業なるものがあった。この授業は牧師先生が来てくださって、2クラスぐらい合同で受けていた。
わたしは、後にも先にも3学期間すべてを通して5段階評価で5を貰ったのは聖書のクラスだけだった。実際、このクラスは非常に簡単で、ほとんど譬え話を覚える程度のテストだったのだけど、それでも赤点を取る人がいたから、世の中にはよっぽど、向き不向きというのがあるのかと思う。しかし、そんなこともあって更に更に私は「聖書」に親しみを持っていった。
 とはいえ、礼拝の時間はどうもだめだった。1年の時に聖書の授業が週1時間あった変わり、2年、3年になると週1時間、礼拝の時間があったの。宗教部の先生や、時には宣教師の先生が来られて、聖書からお話をしてくださるのだけど、わたしはこの礼拝が始まった瞬間からもう眠かった。
 またまた、話がそれるけれど、わたしは小さい頃から文楽や歌舞伎に連れて行かれることが多かった。わたしの両親は、わからないから、といって子供が騒ぐのを良しとしなかった。騒ぐよりは寝ていたほうがまし、というので、「わからなければ寝なさい」と言われ、そうする習慣がついていた。そのせいか、わからない授業の時もすぐに寝てしまって困ったものだったが(^_^;)。
 そんな訳で、退屈だと思うと、本能的に眠りのスイッチが入るらしい。礼拝はほとんど最初から最後まで寝ていた。それも、非常に上手に寝ていたので(自慢にならないが)先生に見つかって叱られたことがない。眠ったまま、立ったり座ったりして、皆が賛美歌を歌うのに合わせていたりしていたらしい。
 そんなわたしだったけれど、聖書の授業で覚えたいくつかの譬え話は心に残っていた。特に「放蕩息子」の話はなぜか大好きだった。
 さて、またまた話は変わるが、わたしは高校時代アニメファンだった。
実際には、子供の頃からアニメ大好きだった。中学3年のころにアニメブームがやってきて、それで、自分がアニメファンだということに気が付いただけで、その時、アニメ好きになった訳ではない。タツノコアニメが好きでファンクラブにも入ったし、学校の漫画研究会にも入った。漫研と言っても、ほとんどアニメの話ばかりしていた。
馬鹿ばっかりやっていたわたしたちに、ひとつの逸話がある。
 高校1年生の時、昼休みにみんなでお弁当を食べていて、アニメソングの話で盛り上がり、みんなで熱唱していた。と、突然担任が入ってきて、「今うととった(歌ってた)ヤツ誰や!」と怒鳴られた。いつの間にかチャイムが鳴って、5時限目が始まっていたらしい。たまたま担当教師が何かの事情で来られなかったのと、歌声でチャイムが聞こえなかったために、わたしたちは大声で歌い続けていたという訳だ。
 折りしも、高校の願書受付期間中、わたしたちの教室はその受付の真上にあり、担任の先生は「学校の恥や!」と激昂しておられた。
 わたしは、一番に席を立った。そういうところは正直者だったと思う。次々と仲間が立ち、わたしたちは廊下に立たされた。教室の中ではまだ延々と先生が怒って説教されていて、わたしたちは、こりゃ、顔のひとつも叩かれるかと覚悟をした。隣に立っていた友人はそっと眼鏡をはずしていた。
 しかし、教室を出てきた先生は、意外に教室の中とは雰囲気が変わり、一人一人の顔をしげしげと眺め、「お前らはいつかやるやろとおもっとたら、ついにやったな~」と笑って「しばらく立っとけ」と言って行かれた。わたしらはそんな馬鹿ばっかりやってるヤンチャな「漫研グループ」だった。
 「ガンダム」「イデオン」「どかべん」「野球狂の詩」「ダンガードA」「ガッチャマン」「ヤマト」「キャプテン・ハーロック」「999」「家なき子」「宝島」「ルパンⅢ世」色んなアニメを好きな人がいたっけ。わたしは、「ガンダム」「ガッチャマン」「家なき子」「宝島」などなどが好きだった。上映会に行ったり、声優さんのコンサートにいったりもしたっけ。
 何で、このことと、信仰と関係あるのかと言うと、この時、アニメファンだったおかげで、後に、東京の演劇学校で出会った人と親しくなり、その友人が、やはりアニメ関係で出会った人に教会に誘われ、わたしがついていったのが、わたしがクリスチャンになるきっかけとなったのだ。もし、あの時わたしがアニメファンでなかったら、教会には行ってなかったに違いない。

 そう考えると、神様のご計画というのは実に深遠だと思う。
 信仰とは一見何の関係もないこと、つまりわたしが宝塚ファンだったりアニメファンだったことも、ちゃーんと、神様につながっていたのだ。
 こじつけ、と思われる方もおられるかもしれない。でも、わたしにとってはただの偶然ではない。一つ一つが、大切な神様の導きだったのだと思う。
 わたしが、京王線の調布駅で、一人の婦人にイエス・キリストを受け入れる祈りを導いていただいた、その場にたまたま居合わせた一人の兄弟がおられる。その方は、いつもは新宿駅は利用しないのに、その日に限って、その時間、そこにおられ、同じ電車になった。後で親しくなってみると、その方はなんと、JAZZの大ファンで、叔父のことも良く知っておられた。後になって、あれも偶然ではなかったのだ、と知った。

 わたしは、偶然教会に行ったのではない。一つ一つのことを、神様が用意周到に導いてくださっていたのだ、と思う。もちろん、わたし自身が選択した道ではある。神様は強制的にわたしを連れて行かれるようなことはされなかった。しかし、どのようなことも用いて、神様はご自分の愛する羊を導いてくださったのだと思う。
 今、これをご覧になっている方がおられるなら、それもまたきっと、神様の導きの1つなのかもしれない…。というか、そうであってくれれば嬉しいと思う。
 拙いサイトだし、世的な部分もたくさんあるかもしれないけれど、このサイトが、神様に用いられますように、わたしは祈りながら綴っている。
[PR]
by s_soranotori | 2004-02-07 00:00 | 信仰・証し

献身について

 ICFの「使徒的神学」のスレッドに書き込んだ記事ですが、他のサイトが転載してくださっているのだから、自分のサイトに来てくださった方にも読んでもらっても良いかな、とUPすることにしました。
 単独で掲載するため、一部訂正していますが、わかりにくい点もあるかもしれません。ご了承ください。
 元記事、また全体の流れが気になる方は、ICFのBBSでご確認ください。

 現在多くの教会、クリスチャンが「献身」という言葉を特別な人の、特別な召命、つまり牧師や、宣教師といった職業としての伝道者になることと考えておられる気がします。
 しかし、ローマ書に12章1節を見るなら、パウロは、教会の「兄弟たち」みんなに向かって語っていると思います。
「からだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる」ことが「霊的な礼拝」だと語っています。
それならば、現在、霊において主を礼拝する全ての者は、「献身」すべきなのではないかと思います。

 また、牧師の召命ですが、Ⅰテモテ3章1節を見るなら
「人がもし監督の職につきたいと思うなら」
とあります。
この場合の「監督」は現在の「牧師」と同じような働きを意味しますから、人が牧師になりたいと思う、つまり召命がなくても、意思によって目指すことは、よいことだと言われています。
 わたしは、特別な召命を受けて牧師になった人を否定するものではありませんし、Ⅰコリント12章を見るなら、神が、教会の中でそれぞれの奉仕に任命された、とありますから、それを受けた方が「特別の召命」と言われるのもわかります。
 ただ、いずれにしても、人が、どの奉仕をするか、またどのような職業に就くかは賜物と関係しているということはできると思います。

 しかし、弟子となることは誰にでもできます。
 わたしは、以前読んだある本の中に「使徒の働き29章を知っていますか」という文章を見たことがあります。
 それは、今、わたしたちがしている働きだ、とその本には書かれてありました。逆に言うと「あなたは今、使徒の働き28章に連なる働きをしているか?」と問われている気がします。
 また、マタイの28章、いわゆる宣教大命令には「いって、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とあります。
 特別な人を弟子として教育しなさい、といわれたのではないのです。
その意味で、全てのクリスチャンは主の弟子となるべきだと思います。

 わたしは救われて、バプテスマを受けるより先に献身しました(バプテスマの決心はしていました)。
 以前ある方にその話をすると、「それは、信徒献身ですね、伝道者としての献身はいつですか」
と聞かれたことがありますが、私は献身は1回だけしかしていません。
すべてをささげたのですから、1回しかささげられません。
 ただ、ささげたものを、その時、その時、神様が最善な方法で用いてくださっていると思っています。
また用いていただけるように、通りよき管でありたいと願っています。
 それまでの信徒としての歩みから、伝道者となるように、導かれた転機はあります。
神様は御言葉を通して、導き、背中を押してくださいました。
それを「召命」と呼ぶ方もあるのかもしれません。

 わたしは、救われた時に、多くの鎖から解き放たれました。
 わたしもクリスチャンになって最初の頃は、「こうあらねばならない」という鎖になお、縛られていましたが、今は、本当に自由にされました。

 聖書には色々な教えがありますから、色々な面で、バランスは必要だと思います。
 そのバランスの中で、人がもっと自由になって、もっと喜んで、もっとイエス様の似姿になっていけるといいな、と率直に感じます。

追加

 確かに、愛を、具体的な形で実践することはとても難しいです。
 自分が、どれほどのことをしているか、と省みるならわたしもまた、不肖の弟子、と言わざるを得ません。

 わたしは、あの人はこれだけのことをしている、とか、周りの同労者を見ると、自分が情けなくなりますし、反省もします。
落ち込むことさえあります。
 それでも、わたし自身、持病を持ちながら家庭と伝道の働きをしていると、その中で、「神様がわたしに期待されていることは何か」「今の私にできることは何か」と祈りつつ、何とかして、イエス様の似姿となりたいと願っています。

 やはり以前聞いたことですが、「不特定多数の『みんな』のために働くことは難しい。自分にゆだねられている特定の人のために、祈り働くことが必要だ」と。
 わたし自身も、わたしにゆだねられている人たちのために、しっかりと働いてゆきたいです。
[PR]
by s_soranotori | 2004-01-19 00:00 | 信仰・証し

生い立ちと信仰

 わたしが信仰を持つようになったきっかけを、生い立ちとの関係で少し書いてみようと思う。
 辻谷氏のサイトの「Good news!」でも、少し信仰を持ったきっかけを書いたが、今回はもう少し詳しくというか、別の側面で書いてみたい。
 大体、信仰を持つに至る理由は、一つではなく、色々なことが複雑に絡み合っていて立体的なものなので、これを文章という線状的性質を持つ媒体で表現することは非常に難しい。よって、書く(語る)ごとに違う側面が少しずつ現れたりするので、「前に書いていた(言っていた)ことと違う」のではなく、そういう一面もある、ということだと捕らえていただきたい。
 また、「Good news!」に書いたことと重複する部分もあるが、単独で読んで分かる文章にするためには、仕方がない部分もあるのでご了承いただきたい。

--------------------------------------

 皆さんは「落語家」と聞いてどういう人をイメージするだろうか。実は「露の五郎」と聞いてもどんな顔かよくわからない、という方も結構おられるのではないだろうか。TVとか、マスコミに登場することが割に少ないので、そういう方がおられてもわたしはごく当たり前だと思っている。むしろ、父の名前を言っただけで「よく知っています!」と言われる方というのは「なんとまあ、奇特な方だろう」と思ったりする。
落語というのは実は非常に歴史のある伝統芸能だ。しかし、「落語」「落語家」というとどうしても「お笑い」というイメージが強いのではないだろうか。
 余談になるが、関東と関西ではこの「落語」の扱われ方が大きく違う。
 関東では、伝統芸能としての地位が確立しており、落語家といえば厳しい修行をしてきた文化人、というイメージがある。しかし関西において「落語」はあくまでも「お笑い芸」の一つであり、娯楽の対象だ。
 従来、どうも関西において「お笑い芸人」というのは一段低く見られる傾向があるように思う。今でこそ、吉本興業は上場企業で、有名人もたくさんおり、「おまえ、吉本行けるで」というのはある意味で「おまえ、おもろいやっちゃなあ」という誉め言葉になる。しかし、私が子供の頃に「おまえ、吉本行ったらええんちゃうか」というのは人を馬鹿にした言葉で、それぐらいしかなれるもんはないやろ、という意味だった。これは、明石家さんまさんなんかも言われていたことがあるように思う。
 そういう訳で、わたしは、どちらかというと人から一段低く見られるような仕事をしている父を持っていた事になる。
 昨今は、関西の落語家さんの中からも人間国宝や、叙勲を受ける方が出てこられ、関西における落語家の地位もかなり向上したかとは思うが。

 そうは言っても、わたしの育った家庭の中では、父は常にエライ人だった。父親の権威、父権というものが確立していた。父は芸人ではあったが大変真面目な人でまた厳しい面もあった。一時期は、夜の大人向けの番組によく出てたりして、結構遊び人というイメージで売っていたことがあった。しかし実際は、娘が言うのも何だけれども、非常に真面目な勉強家だ。
 しかしまあ、大阪の人というのは、やすし・きよしのやすしさんなどに代表されるように、多少くだけた人間、羽目をはずした人間のほうがオモロイ、という面があるので、うちの父なんかもそういうイメージを前面に出していた時期があったのではないかと思う。もちろん、そういう遊び心がまったくないという訳ではないが。
いずれにしても、家庭の中での父は厳しく、しつけもうるさい人だった。
 わたしは、目標を持って生きる、ということ、人道的に、道徳的に生きることを、小さい時からよく教えられたように思う。いや、改めて教えられたというよりは、家庭の中で自然と身につけさせられたというべきかも知れない。
 小学校から中学に上がる時に、将来何になるか考えて、それで中学を公立に進むか、私学に進むか、決めるように、と言われた。といっても私学に入れるだけのお金があったわけではないので、実際は公立中学に進むように誘導されていたのだけれど、とにかく目標を持つ、ということを教えられた。子供だから、まだ知識の範囲が狭いので、それが広がるにつれて変わってもよいが、とにかく、その時その時、目標を持って進むということが大事、と言われていた。
 実際、父に叱られたことはほとんどないように思う。しかし、うちの中で父は絶対的存在だった。3歳の時から内弟子さんが住み込んでいたので、自分が叱られなくても、お弟子さんが怒鳴られる姿を見て、怒らせたら怖い、ということはよくわかっていた。
しかし、わたしはそういう父のことに関して、自分では意識していなかったけれど、非常にプライドを持っていたようだ。またそれだけに「おまえのおとうちゃん、なんでテレビでえへんのや」などと言われると、非常に傷ついた。

 話はわたし自身のことになるが、わたしは中学1年生の時にいじめにあった。当時のいじめは、まだ今ほど陰湿ではなかったように思う。けれども、わたしは、自分のクラスだけでなく他のクラスの男子からも無視され、だんだんエスカレートすると「臭い、汚い」とあからさまに避けられ、輪ゴムのパチンコで紙礫の標的にされ、ある時は、体育の授業が終わって教室に戻るとクラスでこれまた一番馬鹿にされている男の子の机の上に、わたしの机をさかさまにして接着剤でくっつけてあったりしたこともあった。しかし、同じ学年にいた双子の姉はいじめられていなかったのだから、わたしのほうにも何か問題があったのだろうと、今になって思うこともある。
 ただ、わたしは、そういう経験の中からいつしか、そういうふうに自分をを傷つけたり、いじめたりした奴らを見返してやりたいと思うようになっていった。
 それとは別に、わたしは中学2、3年生の頃から舞台女優を目指すようになった。わたしは、芸能人の家庭に育ったことで、「普通」という感覚が人と少し違っていたのではないかと思う。会社員の家庭に育った方には会社員になることは普通だろうが、わたしには会社は何をするところかわからなかった。OLになるより、芸の道に進む方が「普通」だったのだ。芸能人の家に生まれ、子供の時から、歌舞伎、文楽、宝塚と芸事に親しんできたわたしにとって芸能界を目指すことは、ごく自然なことだったと思う。
 中学の時には、丁度ベルばらブームだった宝塚にどっぷりはまって宝塚通いをした。それと前後して歌舞伎にもはまって、今の片岡仁左衛門(当時・孝夫)さん、それと残念ながら今はもう亡くなられてしまった女形の澤村藤十郎さんの大ファンになり、関西に歌舞伎が来ると大阪、京都にもよく出かけた。
 父が落語家で得したこと、というのはそれほどないのだが、歌舞伎の方には色々と御縁があって、現仁左衛門さん、藤十郎さんを始め、仁左衛門さんのご兄弟、我當さんや秀太郎さん、坂東三津五郎(当時・八十助)さん、市川左団治さん、等といった方々とは何度もお会いさせていただく機会があった。
寄席にも、もちろんよく出入りしていた。子供の頃は父が吉本興業に所属していたこともあって、梅田花月、難波花月、京都花月とよく連れていってもらった。家にも、噺家さんがよく出入りされていて、特にもう20年近く前に亡くなられた林家小染さんと、桂ざこば(当時・朝丸)さんのお二人は、わたしが小さい頃、よく家にみえて、可愛がっていただいた。少し前に亡くなられた枝雀(当時・小米〔こよね〕)さんなんかも若い頃よく来られて、私の叔父の英語の家庭教師などもして下さっていたそうだ。また、数年前に、久しぶりに笑福亭仁鶴さんにお目にかかる機会があって、御挨拶すると懐かしそうに「大きなったなあ」と言われ、30歳をとうに過ぎて、今更大きなったもないなあ、とおかしくなった。
 また、わたしが小学生の頃だったか、間寛平さんが木村進さんと共に「寛平・進」で売り出し中で、よく楽屋口で大勢のファンの女性達が楽屋待ちをしていた。その中を「おはようございます」と、大人ぶって、業界人のような顔をして劇場に入っていくのはちょっとした優越感だった。
 小さい時から何度も、TVに出演した事もあったし、子供の時から、そういうふうに楽屋の雰囲気を味わっていたことも、私を芸能の道に進ませた大きな要因ではないかと思う。
 一時は宝塚に入りたい、とも思ったが、背も低いし、昔バレエを習っていた時に少し腰をいためていたこともあって迷っていた時に、新劇に出会った。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーの子供時代を描いた物語「奇蹟の人」という芝居に感動し、新劇女優になりたいと志すようになった。そして「こういう素晴らしいことを人々に伝えたい!」と思ったのだった。
 高校三年の時わたしは、大学進学する人が塾に通う代わりに大阪の劇団の養成所に通い、卒業後は上京し、演劇の専門学校(舞台芸術学院)に入った。とても楽しかった。毎日好きな芝居のことばかりを考えて、バイトをしたお金で芝居を見たり、ダンスや歌のレッスンに通ったりもした。
 それだけでなく、親元を離れたわたしは友人達とも自由に遊ぶことができた。未成年であったにもかかわらず、お酒を飲んだりタバコを吸ったり、大人の真似事をして、夜遅くまで、いや朝方まで友人たちと語り合った。
 しかし次第に、私は苦しさを覚えるようになってきた。時々自分の中がカラカラの空き瓶のようになっていることに気付いたのだ。
何かを伝えたいと思っているのに、それが何だか良くわからない。
 当時のわたしはヒューマニストであり、人間の愛の力といったようなものを信じていた。反戦運動や、人種差別問題など、様々なことに関心を持ち、社会を良くするのは、1人1人の人が、意識して変えていかなくてはならないのだと信じていた。自分自身、反戦行動に参加したこともあった。
 しかし、そのわりには自分は醜い、ちっぽけな人間だ。
 実は、わたしはそれまで、自分が結構きちんとした人間だと思っていた。高校は決して進学校という訳ではなかったけれど、大して勉強しなくてもいつもそこそこの成績を取れ、親にも厳しく躾られ、大人の中で育ったわたしは、一般常識をも備えていると自負していた。
 しかし、東京で1人暮しをしているうちにだんだん、自分のアラが、わたし自身にも見えてきた。本当の自分がさらけ出されてきたのだ。自分はいい加減で、嫉妬深く、少しも成熟した人間ではない。お酒を飲んでは友人たちと、他の仲間達のこきおろし大会をしていた。こんなくだらない人間であるわたしにいったい何ができるというのだろうか。
 わたしは人を信じたいのに信じられず、自分自身さえも信じられなくなっていった。
 そういう時に、以前友人の付き合いで行った教会のことを思い出した。なぜか、わたしは教会に行かなければならないと感じたのだ。私は、いつも電話をかける度に私を教会に誘って下さっていた一人の婦人に電話をした。
 その婦人は、教会に行く電車の中で、イエス・キリストがわたしの醜い心を知っておられ、そういう罪深いわたしのために、十字架にかかり、3日目によみがえってくださったという事実、そしてそれを信じるだけで罪が赦され永遠の命が与えられるということを教えて下った。
 その婦人は、一通り語られた後、「信じますか」と聞かれた。頭で考えるより先に、口が「信じます」と答えていた。その時わたしは、理想はあっても汚い競争社会に生きることに限界を感じており、自分の心の醜さを十分理解していた。そして人間にはそこから抜け出す力がないことを嫌と言うほど感じていた。ちょうどその時が神様の時だったのだと思う。1983年2月9日、水曜日のことだった。
 わたしは、その日以来、自分の人生がキリストによって変えられたことを、はっきりと自覚した。
以前は、何を伝えるべきか、それは曖昧なものだった。何か良いことを人に伝えたい、と思っているのに、それが何かを知っている訳ではなかった。お芝居をやるということを通して、台本を読んで、その作品が伝えようとしていることを学びながら、自分自身も成長していこう、という堂々巡りのようなものだった。
 しかし、今はイエス・キリストにゆだねられた福音という、伝えるべき真理を知っている。
 わたしは、有名になること、人に褒められることばかりを求めていた。有名になることで、自分を見下げた人たちを見返してやりたいと思っていた。
 しかし、それらのものを捨てて、イエス・キリストをのべ伝えること、それも舞台の上から大勢に語るのではなく、日々の生活の中で出会う一人一人の人に伝えていこうと思った。
 そして、「神様に、自分のこれからの一切をお任せします」と決心した時、自分をいじめた人々に対する恨みの執念も消えた。自分が握り締めていた「演劇」というものに、むしろ自分自身が縛られていたことに、その鎖から開放されて初めて気付いた。
 両親も初めは反対していた。東京からも連れ戻された。わたしも、親を裏切ったという思いがなかった訳ではない。しかし、わたしが、この道に進んでどんなにか幸せであること、喜びがあること、それを見せることしか、親を納得させる方法はないと信じて歩んできた。
とは言え、わたしの弱さを誰よりもよく知っている親を納得させるのは、口で言うほど簡単なことではなく、「クリスチャンのくせに」と何度も言われてきた。「あんたがクリスチャンになって良かったことなんか一つもない」と言われたこともある。
 しかし、今はその親も、わたし達夫婦の働きを、今の時代にとても大切なこととして応援してくれている。
 そしてすでに書いたように、わたしがイエス・キリストを信じて20年目の今年、クリスチャンとなりバプテスマ(洗礼)を受けた。これは、わたしの力でできたことではなく、ただ神様が与えて下さった恵みだ。わたしはただ感謝するほかはない。
 確かに、弱さも醜さもまだ持っている。しかしイエスさまによって赦された喜びが心にあふれている。
 今わたしは、日々、わたしなりにベストを尽くして精一杯生きている。このわたしをイエス・キリストが用いてくださるようにと願いながら。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3章11節
 わたしが、この時代のこの両親のもとに生れたことがなぜであるのか、私には分からない。けれども、これも神様の御計画の時であったのだということを感謝している。
 いつもどんな時でも、わたしたちの周りに溢れている一つ一つの出来事もまた、神様のなさったことであり、時にかなって美しいと、わたしは確信している。

(ずいぶん長くなってしまったけれど、これでもずいぶん端折って短くしたつもりなのだ。微に入り細に入り、何もかも一度に書こうとすると、長くなって仕方がないので、抜けてるところはまた、おいおい折に触れて書いていきたい。)
[PR]
by s_soranotori | 2003-12-05 00:00 | 信仰・証し

父と娘の信仰秘話

 この前私は、父のバプテスマの裏話をぶちまけた。あれだけではなんだか父が可哀想な気がしてきたので、父の、クリスチャンになるまでの道のりを、娘から見た目で綴ってみようと思う。

 父は、家庭的に恵まれた人ではなかった。だから余計なのだろうけど、非常に芸人らしい部分を持つ反面で、とても家庭的なところがあった。
 新しい物好きなところがあって、8ミリを自分で撮影していた。今のようにまだホームビデオのない時代のことだ。私がまだ赤ちゃんの頃からの映像が我が家には残っている。一年に一度、今はなくなってしまった阪神パークの菊人形を見に、家族やお弟子さん、同居していた母の兄弟まで一緒に出かけた。小学生の頃に、学校を休んで家族旅行に出かけたこともある。
 しつけには厳しかったが、とても優しい父だった。
 私と姉が、TVドラマ「サインはV」に夢中になっている頃、仕事でそのキャプテン役の方と一緒になったらしく、サインをもらってきてくれたこともあった。中学時代、アニメに夢中になっていた時には、どこかの本屋で売っていたからとセル画をたくさん買ってきてくれたこともあった。仕事柄、すれ違いが多かったはずなのだけれど、逆に様々なエピソードが思い出になっている。

 家族の中で、父と私はどちらかというと性格が似ている方だ。私を知っている人からは「うそや~」と言われることは必至だけれど、敢えて言うなら、父と私は陰、母と姉が陽の性格だ。いや、むしろ凹凸に例えたほうが良いかもしれない。父と私は凹、母と姉は凸。だから母と姉はよく喧嘩する。決して仲が悪い訳ではないのに喧嘩する。凸の出っ張った部分同士が摩擦を起こすらしい。父と私は、むしろ会話が少ない。決して仲が悪い訳ではないのだが、そんなに話が弾む方ではない。
 
 そんな父が、私が高校を卒業して上京したことをきっかけに東京の寄席に時々出演するようになった。そんなときには10日間、父は私の部屋に泊まっていった。あまり話はしないけど、私は、甘いものの好きな父のためにお菓子を作って待っていたり、父は、当時、未成年のクセに煙草を吸っていた私にライターやシガレットケースをくれた。

 父は、私がクリスチャンになったことに関しては、無反応に近かった。ただ、私が行っている教会がどんなところか(変なところでないか)、確かめるために両親そろって教会の集会に出席してくれた。
 父は、私がクリスチャンになって、当時目指していた女優の道をあっさりとあきらめ、神様一筋になっていったことに関しては、実はショックだったようだ。後に、姉の進路のことで、家族会議になった時、父が「早樹には裏切られたからお前には(女優の道で)頑張って欲しい」と言うようなことを話すのを聞いて、「あー、そんな風に思っていたのか」と痛感した。しかし、そんなことは当時、顔には少しも出さなかった父である。
 クリスチャンになって間がない頃、両親にもクリスチャンになって欲しい、という話をすると、私が女優の道を捨てたことで、クリスチャンになったら芸人をやめなければいけない、と思ったのか、「わしが落語やめたら誰が食わしてくれんねん。神さんが食わしてくれるんか」と言ったことがあった。父が、信仰のことで私にきついことを言ったのは、この時だけだったと記憶している。

 母は、一番最初こそ「教会に行くのはいいことや」と言ってくれたが、私が急激に熱心になるにつれ、心配から、反対するようになった。最終的に両親は、「信仰の自由」が憲法に守られていること、私がもう20歳になっていたこと、この2つの理由で、容認してくれた。
 しかし、数年して神学校に行きたい、と言った時にはさすがに「賛成できない」と言われた。シスターにでもなるようなイメージがあったのかもしれない。家の中で気まずい空気が流れた。話は膠着状態だったけれど、私の決心は変わらなかった。私は、両親に長い手紙を書いた。
 その頃、父は健康診断でちょっと引っかかり、再検査が必要と言われていた。更にはちょっとした段で足をひねり足の甲の骨を骨折した。
 ある日、高校時代に痛めたひざに水がたまっていた私と父は、一緒に近くの整形外科に出かけた。診療時間の少し前についてしまい、外で少しの間待っていた。私と父は例によって黙って立っていたのだけれど、その時父がポツリと言った。「あの話、神学校の事な、今晩話しなさい」
 その晩、神学校の話を切り出した私に、両親は、「認めることはできないけれど、もう立派な大人なんだから(当時私は24歳だった)勝手に行くなら、仕方がない。その代わり経済的なことも含めて、途中でやめることになっても、どうなっても知らないから」と母に言い渡された。
 私たちは基本的にとても仲の良い家族だったし、まして、家庭に恵まれなかった父にしたら、家族がいつまでも反目しあった状態は嫌だったのだろうと思う。

 父が最初に脳塞栓で倒れたのは、私が9月から神学校に入学することが決まった年の8月だった。父は奇跡的に回復し、退院することができた。その8月、父の看病に疲れたのか、母も、胆のう炎で腹膜炎寸前で入院。私は神学校に入学できるかどうかの瀬戸際に立たされたが、叔母(母のすぐ下の妹)の助けを始め、多くの人の助けもあって、何とか入学することができた。

 母は、キリスト教に限らず、どちらかというと宗教好きな人だった。姓名判断や方位、暦、何でも気にする人だったし、観音様や荒神さんにもよく参っていた。その代わり、私の話(キリスト教・聖書の話し)もよく聞いてくれた。父はいつも黙っていた。
 それでも時折、「高山右近の洗礼名、知ってるか、ジュスト言うねんて」とか、落語に出てくる「崇禅寺」に細川ガラシャ夫人の墓があることを教えてくれたりした。

 阪神淡路大震災の起こる直前の正月に私たちは、家族で九州へ旅行をした。脳梗塞で一人暮らしができなくなり同居するようになった父の母と(私にとっては祖母)私たち家族4人と車で(フェリーで)行った。水曜にかかるので(水曜はいつも私が教会の祈祷会に出席する日だった)、教会のあるところなら良いと、私が言ったので、鹿児島の長島、出水近辺に出かけた。長島に、よく知っている教会があったからだ。その時、長島で焼き物をしておられたKさんご家族を訪問した。
 若い時に少しだけ焼き物と関わったことのある父は、Kさんと打ち解けて話していた。父が私以外のクリスチャンの人と、フレンドリーに話すのを始めて見たような気がする。自然体でクリスチャン生活をしておられるご家族の姿にも好感を持ったようだった。
[PR]
by s_soranotori | 2003-11-24 00:00 | 信仰・証し
 去る、10月26日、両親がバプテスマを受けた。ものすごく嬉しかった。神様の素晴らしい恵みだった。
 でもそれだけでは終わらなかった。
 当日、当事者は礼拝の中で、証しというものをする。イエス・キリストを信じたいきさつとか、バプテスマを受ける決心をしたいきさつなどを語る。
 ところで、私の父は、プロフィールの欄に書いたとおり、落語家だ。言ってみれば話すことのプロだ。私はそれをすっかり忘れていた。証しとはどんなことをすればよいのかは説明したけれども、どれくらいの時間で話せばよいかを言い忘れていたのだ。
 父が証しを始めたとき、私は「しまった!」と思った。時間制限を伝えるべきだった、と思ったがすでに時遅し。父は語りだした。しゃべるしゃべる。歌まで歌いだす始末。信徒の皆さんはそれなりに楽しんでいるようだが、私は気が気ではなかった。牧師(私の夫)のメッセージの時間がなくなってしまう。用意したビデオも残り時間が少なくなってきた。
 私は父の証し中、母子室(教会堂の一番後ろにあるガラス張りの部屋)で、何度か思わず立ち上がり、「マキ」の合図をした。父はその度に、「ちょっと長くなりますが説明をしないと分かりにくいので」とか何とか、言い訳をしていた。しばらくは、簡単に話そうとしていたが、しばらくたつと元のペースに戻る。
 普通の人は、証しというとたいてい緊張して、書いたものを読むだけなのだけれど、父は、何も見ないで話す癖がついている。講演会では90分話すのが通例だ。落語のネタならばそれなりの枠があるけれども、フリートークは話そうと思えばいくらでも話せる。
 私は最低でも3回は「マキ」の合図を送った。証しは35分くらいはあったと思う。終わった時にはホッとした。
 礼拝後、今度はバプテスマ式。
教会の前の小さなスペースにバプテスマ槽を置いてのバプテスマ式。通常、私たちの教会では琵琶湖でバプテスマ式をするが、父は、病気で体が弱っているし、歳だし、もう水も冷たくなっているから、と、教会でのバプテスマになった。
 式の最初に賛美をしていると、父は、さりげない顔をしてバプテスマ槽に手を入れ水温を確かめていた。「ちゃんとお湯にしてあるってば!」と心の中で叫びながら、子供みたいな父がちょっとおかしくなった。
 そしていよいよバプテスマ、いわゆる洗礼のことなのだけど、全身をお風呂みたいなバプテスマ槽に沈める。牧師が、(水が入らないように)「鼻をつまんでください」と言っているのに一生懸命両耳に指を突っ込む父。これにはさすがに笑ってしまった。牧師が何度も「鼻を・・・」と言っているのにそれでも耳に指を突っ込んでいる。さすがに見かねた私は「お父さん、鼻、鼻」と小声で(でもみんなに丸聞こえ)叫んだ。
 父のバプテスマが無事終わり、母の番。その間、父は、ぬれたバプテスマ衣から着替えるために、用意された小部屋に。その場所が問題。バプテスマ槽のちょうど真後ろにあったのだ(写真で母の後ろに見えている茶色いのがドア)。にもかかわらず父は、ドアを開けたまま、悠然と着替えを始めた。
バプテスマ衣を脱ぎ、下に着ていたシャツを脱ぎ・・・。その姿は教会員の皆さんに丸見え。前で母のバプテスマ式を行っているので、私は「ドアを閉めて」と叫ぶ訳にもいかない。
 結局、父がパンツ一枚になる寸前、私はドアを閉めに走った。何とか間に合った。
 あとでビデオを見ると、バプテスマ槽の前に立っている両親は、とても落語家風夫婦には見えず、お豆腐屋さんの夫婦みたいだった。なんだかとてもアンバランスで、家族で大笑いしたことは言うまでもない。
 私がクリスチャンになって20年、感動のバプテスマ式になると思っていたんだけどな・・・。
[PR]
by s_soranotori | 2003-11-12 00:00 | 信仰・証し

神の真実な導き

 素晴らしい救い主、イエス・キリストの御名を心から賛美いたします。
 落語家の家に生まれた私は、高校卒業後、上京して演劇の専門学校に入りました。私は、芸能人の家庭に育ったことで、「普通」という感覚が人と少し違っていたのではないかと思います。芸能人の家に生まれ、芸事に親しんできた私としては芸能界を目指すことはごく自然なことでした。会社員の家庭に育った方には会社員になることは普通でしょうが、私には会社は何をするところかわかりませんでした。OLになるより、芸の道に進む方が普通だったのです。
 私は中学生の時に、三重苦の偉人、ヘレン・ケラーの子供時代を描いた物語「奇蹟の人」という芝居を見てから、新劇を目指すようになっていました。その芝居に感動した私は「こういう素晴らしいことを人々に伝えたい!」と思ったものでした。また、父は芸人ではありましたが大変真面目な人で、私は、目標を持って生きるということ、人道的に、道徳的に生きることを、小さい時からよく教えられていました。それで私は、芝居を通して、良いことを人に伝えたい、イデオロギーのしっかりしたお芝居をしたい、と思っていたのです。
 演劇の専門学校はとても楽しいところでした。毎日好きな芝居のことばかりを考えて、アルバイトをしたお金で芝居を見たり、ダンスや歌のレッスンに通ったりできたからです。
 しかし次第に、私は苦しさを覚えるようになってきました。時々自分の中がカラカラの空き瓶のようになっていることに気付いたのです。何かを伝えたいと思っているのに、それが何だか良くわからないのです。当時の私はヒューマニストであり、人間の愛の力といったようなものを信じていました。しかし、自分という人間が、自分で思っているほど良くはないということがさらけ出されていく中で、人を信じたいのに信じられなくなっていきました。そして自分の中に何かしら空虚なものを感じるようになっていったのです。こんな私にいったい何ができるというのでしょうか。
 そういう時に、以前行った、ある教会のことを思い出したのです。演劇学校の卒業が間近に迫っている20歳の頃でした。私はいつも電話をかける度に教会に誘って下さっていた一人の婦人に電話をしました。
 その婦人は、教会に行く電車の中で、イエス・キリストが私の醜い心を知っておられ、そういう罪深い私のために、十字架に掛かり、3日目によみがえってくださったという事実、そしてそれを信じるだけで罪が赦され永遠の命が与えられるということを教えて下さいました。そして私はその時すぐにそれを信じました。自分の心の醜さを十分実感しており、人間にはそこから抜け出す力がないことを知っていたからです。理想はあっても汚い競争社会に生きることに限界を感じていた私は、その時変えられ、平安を持つことができたのです。
 イエス様を信じた瞬間から、私の人生は変えられました。以前は、何を伝えるべきか、それは曖昧なものでした。しかし信じてからはイエス・キリストにゆだねられた福音という、伝えるべき真理を知っています。私は、有名になること、人に褒められることを捨てて、イエス・キリストをのべ伝えたい、それも舞台の上から大勢に語るのではなく、一人一人の人に伝えていこうと思いました。それから私は、自分の全てをイエス様にお任せする決心をしました。イエス様の導いてくださる通りに歩む決心、そして自分の全てを神様のものとして歩んで行く決心をしたのです。イエス様が遣わして下さるなら、国内開拓でも海外宣教でも、とどめられれば教会の奉仕者として、ただ、自分自身をささげ、従って歩んで行きたいと願いました。
 しかし、それからの歩みが、全て順風満帆であったという訳では決してありません。私があまりにも急激に教会に熱心になっていく様を見て心配した両親は、東京から郷里の西宮に私を連れ戻しました。そして私は、会社に勤めながら教会生活を送るようになりました。それはそれで楽しい毎日でした。しかし最終的な平安のなかった私は数年後、御言葉の学びのために神学校に入学しました。反対する両親を説得し、神様の導きに感謝し、喜んで意気揚揚と神学校に入学しました。しかし、4年の学びを終え、神学校を卒業してもその後の働きについて何の導きもなかったのです。私は神学校や宣教のための事務局で働いていましたがそれが自分の最終的な働きだという確信がどうしても持てませんでした。神学校を卒業して10年近くの間、自分のいるべき働き場を求め続けていました。
 そしてようやく、昨年、結婚によって世界福音伝道団に導かれ、牧会伝道の働きに携わらせて頂くようになりました。実に私が最初にイエス様に全てをおささげしてから18年近くの歳月が過ぎていました。この長い期間中、何度も「なぜ?」と思いましたが、今、これらの期間は私にとって必要な訓練の期間であったことを知り、神様に感謝しています。
 弱さも醜さもまだまだ持っているこんな私に、多くの方にイエス様の素晴らしさをお伝えするという働きが委ねられていることを、心から感謝しています。そして、信仰を持ってから18年、ここまで真実に導いて下さったイエス様に、全てをお委ねしてこれからも歩んで行きたいと思います。

「それは、偽ることのない神が、
永遠の昔から約束してくださった
永遠のいのちの望みに基づくことです。
…私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、
ゆだねられたのです。」
テトスへの手紙1章3節

[PR]
by s_soranotori | 2001-08-01 00:00 | 信仰・証し