あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリ:聖書の人物( 3 )

 学生時代に書いたレポートの一部です。
映画「マリア」を見て、このレポートのことを思い出しましたので、懐かしくひっぱりだしました。
書いたのは、1990年の初めごろだと思います。
「福音書」という授業で、マルコの福音書とルカの福音書を学んだところで書いたレポートでしたので、主にこの二つの福音書よりの考察となっています。
(映画についてはこちらにレビューを書きました)
-------------------------------------------------------------------------

1)マリヤは主に明け渡した
 わたしがマリヤのことを考える時の最も印象的な言葉として思い出すのはルカ1:38の御言葉です。
「本当に、わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
 マリヤはメシヤが来られることを知っていました。また神の御言葉に親しむことによって神を知っていました。そして神である主に深い尊敬の念を抱いていました。マリヤは神が、御自身を敬う者に対して恵み深くあられること、そして神が、この世的な権力を持っていない者たち、社会的地位の低い人々を通して働くのを好まれる方であることを知っていました。マリヤは社会的地位を持っていたでしょうか。富を持っていたでしょうか。答えは否です。あるいは神はそのような者であったからこそ、用いるべき器としてマリヤを選ばれたのかもしれないと思います。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」マリヤ自身のこの言葉はこの後、マリヤの生涯を通して証しされていくものとなっていきました。

2)マリヤは犠牲を払った
 マリヤは主の母という素晴らしい特権を受けながら、そうであればこそ、とも言うべき犠牲を払わねばなりませんでした。その中の一つはこの受胎告知の時以来起こったと言えるのではないでしょうか。
 マリヤはまだ婚約中でありながらその胎に子を宿したのです。周囲の人はいつ頃このことに気が付いたかはわかりませんが、おそらく人々が気付いた時、マリヤはその人々の心ない噂に傷ついたこともあったのではないでしょうか。その時マリヤはどうしたのでしょうか。ただ信仰をもって忍耐しているしかなかったのでしょうか。このことを想像すると本当にマリヤの献身的な信仰の姿勢に心を打たれます。またヨセフも聖書の他の個所(マタイ1:19,20)を参考にするなら、このことで思い悩んだことがわかります。たとえ一時ではあっても許婚にさえ疑われなければならないようなことがあったことは事実なのです。結果としてはヨセフも信仰によって、その純潔性において周囲の人々に疑問視されているマリヤをめとるという犠牲を払ったということができるのではないでしょうか。
 おそらくそのようなマリヤにとってエリサベツと共に過ごしたひと時は非常に慰めの多い時となったに違いありません。また、マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)に現れているマリヤの謙遜な信仰こそがマリヤの喜びと平安のすべての基となっているのではないかと思います。

3)母としてのマリヤ
 母としてのマリヤを見ていく時に印象に残る言葉は、
「しかしマリヤはこれらのことをすべて心に収めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)
「母はこれらのことをみな、心にとどめておいた。」(ルカ2:51)
といった言葉です。
 イエス様が、おそらく洞穴であったであろう家畜小屋でお生まれにならなければならないことは、たとえ預言によって知っていたとしても、キリストにふさわしい場所とは考えにくいことなのではないでしょうか。しかしその夜、奇跡は起こり、御使いの賛美は響き、羊飼いたちは礼拝しに来ました。マリヤは改めて自分の産んだ子がメシヤであることを確信し、感謝し、喜んだことでしょう。けれどもこのとき、マリヤは一体どんな気持ちで“心に納め”どんな“思いを巡らしていた“のでしょうか。こののち、エルサレムでシメオンに「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と言われた時、12歳のイエス様に「どうして、わたしをお捜しになったのですか。」と言われた時、どのようなことを感じ、何を思っていたのだろう、と思わずにいられません。
 やがて、メシヤとしての働きと宣教のために、自分の元を離れていくイエス様、それはもはや自分の息子ではないということを、どのように受け止めていったのでしょうか。

4)イエス様に従ったマリヤ
 信じる私たちにはとても感謝だけれども、イエス様の母マリヤにとってはとても辛い言葉だったのではないかと思う御言葉が一つあります。それはマルコ3:33-35です。
「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」
もし、私がマリヤなら、きっとつまずいてしまったのではないかと思うのです。けれど、マリヤはこのとき既に信じていたこと、イエス様がメシヤであるというその信仰によって、もはや、自分とイエス様は親子ではなく、メシヤとそれに従う者、という立場をはっきりと確信したのではないでしょうか。マリヤは福音書の後半においてあまり目立つ女性ではありません。その意味ではベタニヤのマリヤやマグダラのマリヤの方が目立つ存在と言えるかもしれません。けれども聖書の他の個所(ヨハネ19:25-27、使徒1:14)を見ると、マリヤはイエス様の十字架まで、また復活の証人として、イエス様の御足の跡に従ったことがわかります。たとえ、どんなに信仰深かったとしても、たとえ他人のようにさえなっていたとしても、御自分の産んだ一人の子が十字架につけられるのを見る母の心はどのようなものか、そこには想像だにできないものがあるのではないでしょうか。その十字架のもといおいて、マリヤの、その名の本当の意味「苦さ」を理解できるのではないでしょうか。
 マリヤは、救い主の母という、ある意味で最も素晴らしい特権に与りながら、最も辛い試練に遭った女性ということができるのではないでしょうか。
マリヤも人の子である以上罪人には違いないのですが、いつもマリヤについて学ぶ時、自分には到達し得ないほどの信仰の姿を教えられます。


結論
 今まで、マリヤについて、素晴らしい女性だと思いながら、ほとんど完璧な女性、自分にはとても到達できない女性、という思いが強かったのですが、今回学んだことを通して、マリヤの人間的な弱さ、悲しみ、信仰について教えられ、マリヤは決して到達できない女性ではなく、続けてわたしたちが信仰の良き模範とすべき女性と教えられました。
[PR]
by s_soranotori | 2007-12-30 02:49 | 聖書の人物

マルタ

栗東キリスト教会月例婦人会
2003年9月4日(木)
≪マルタ≫
ルカ10:38~42
ヨハネ11:1~3,17~32
ヨハネ12:1~2

名前の意味=淑女、女主人

ルカ10:38~42
 この箇所はほとんどの場合、マリヤのことを中心に語られます。
「マリヤはその良いほうを選んだのです」といわれたことで、マリヤはいつも私たちの模範として語られ、マルタはその反対ととらえられがちです。
しかし、果たしてそうでしょうか。
まず、最初に注目していただきたいのは38節です。
「マルタという女が(イエス様の一行を)喜んで家にお迎えした。」
とあります。
これは信仰がなくてはできないことではないでしょうか。少なくともイエス様の一行は13人(イエス様と12弟子)もいたのです。その人たちを受け入れて、もてなすのはそれほど簡単なことではないでしょう。私などは、1、2名のお客様を迎えるのにも、大騒ぎしてしまいます。けれどもマルタは喜んでお迎えしたのです。それだけでも、マルタは賞賛に値する女性ということができるのではないでしょうか。

 ただ、マルタには問題がひとつありました。多分、張り切りすぎる性格だったのでしょう。
一番大切なことを忘れて、主のもてなしに心を奪われていました。
元来、マルタはもてなすこと、他の人々に親切を施すことに秀でていたと思われます。それはマルタの美徳だったといっても良いでしょう。しかしこの場合、本来第一にすべきことを忘れてしまっていたのです。

 マリヤがイエス様の話を聞き続けていたことにいらだっていました。
私もよくこういうことがあります。
主人が教会にいて神様の仕事をしているのに、なかなか帰ってこないといらいらするのです。娘をお風呂に入れるのに、いてくれたほうが楽だし、私だって疲れているのだから、少しは家のことを手伝ってくれたらよいのに、とか、色々考えてしまうのです。
マルタもちょうどそのような状態、いやむしろマルタのほうが、主のために、と考えていた分、わたしより信仰的と言えるかもしれません。いずれにせよ、マルタは、耐えかねて主に言います。
(40節)

ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

このギリシャ語はとても強い言葉です。それは、「彼女は彼に詰め寄って、彼をこの件に引き込んだ」を意味します。これは、彼女が彼を責任者と見なしていたことを暗示します。心中にあるものをすべて話していたなら、彼女はこう言っていたでしょう、「あなたはこの件に責任があり、この件と関係があります。これを正すのはあなたの義務です」。これが原文の意味です――彼はこの件の関係者であり、これを正そうと思えば正すことができるし、またそうすべきです。これは、彼女が怒りをぶちまけたことを意味します。彼女はこのことをこらえていましたが、ついにこれ以上我慢できなくなり、彼に詰め寄って、「主よ、私の妹が私一人にもてなしをさせているのを、何とも思われないのでしょうか?彼女に私を手伝うよう命じて下さい」と怒りをぶちまけました。
 さて、この状況の大変さを理解してほしいと思います。そうすれば、マルタについて助けになるでしょう。私たちはマルタの気持ちと立場を理解しなければなりません。「いろいろともてなしのために気が落ち着かず」は、この状況の真相を私たちに伝えていません。状況が本当にどういうものだったのか、まったく不十分な印象しか訳から得られません。ここのギリシャ語の言葉は、「混乱させられる」「四方八方に引っ張られる」を意味する言葉です。おそらく、彼女の心配が顔に表れていたでしょう。それは何に対する心配だったのでしょう?いろいろな家事、おそらくは様々な料理、いろいろな仕事に対する心配でした。主はマルタに言われました、「マルタよ、あなたはいろいろと二次的なことで思い煩い、自分に扱える以上のものを抱えています。しかし、本当に必要なものは一つしかありません――」
 最も重要なものがその地位を占めるよう、マルタの側で物事の調整が必要だったのです。主はマルタのもてなしに対して思いやりに欠けていたのではありません。彼女がこの料理の仕事をまったく度を越えて手の込んだものにしていたこと、そしてもっと大切なものをそうでないものよりも低い地位に置いていたことを、主はご覧になったのです。
 ただ、ここで覚えておくことがひとつあります。マルタは、問題を感じたとき、それを主のところに持っていったということです。ほかの誰でもない、主にぶちまけたのです。
そのマルタに対して主は穏やかに答えられました。

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。ルカ10:41
この言葉には、多くの意味を含んでいるのではないでしょうか。ある本に書いてあった言葉を一部補足しながら引用させていただきます。
「マルタ、マルタ、どうしてあなたは第一にすべきことと二次的な事柄を混同するのですか。どうしてあなたは、私があなたの家にいるのに、大して重要でない事柄に心を奪われているのですか。マルタよ、あなたは私が仕えられるためではなく、かえって仕えるために来たことを悟らないのですか。私が宿や食物よりもはるかに多くの関心をあなたに寄せていることがわからないのですか。私はあなたの奉仕に感謝しています。しかし私が第一に関心を持っているのは、あなたに対してであってあなたの役割や奉仕に対してではないのです。マルタあなたは非常に有能であり、賢明です。なぜあなたは何から何まで、ほんのちょっとしたことまで、自分でしなければならないのですか。大切なことは、霊的な事柄です。あなたはあなた自身を検討しなさい。あなた自身の心を知りなさい。私の観点から物事を眺めなさい。」
イエス様は、マルタへの愛からこのような意味を込めて語られたのではないでしょうか。

 たしかに料理は大切かもしれません。しかし、適切にバランスをとる必要があります。一時的なものが霊的なものを脇へ追いやってしまわないように注意しましょう。霊的なものが眩まされてしまうほど、過ぎ去って行くものについて心配したり、それに迷わされたりしないようにしましょう。他のすべてのものをあるべき場所に保つべき唯一のものは、主の口から出る御言葉です。

 しかしマルタは賢明な女性でした。イエス様が語られた言葉の意味を十分に受け止めました。
 でもこの結果を見る前に、もう一箇所、ヨハネの11章を開いてみたいと思います。
これらの箇所を読むとき、マルタという女性は本当に興味深いと感じさせられます。
長くなりますので簡単に、マルタの特性が表れているところだけ拾ってみたいと思います。
 まずその行動力です。

マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。ヨハネ11:20

マルタは、イエス様が来られたことを知ると、いち早く出迎えに出てゆきます。マリヤは家で座っていました。
 次にその信仰です。

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。ヨハネ11:21

ここで、マルタは主を非難しているとも取れるのですが(どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか)、それはまた主の御力への信仰・信頼であり、希望の表れでもあります。
それに続く箇所はマルタの信仰を表しています。

今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」ヨハネ11:22-27


27節は信じきっています、と訳すことができるそうです。
見事な信仰です。

 さて、先ほどの続きを見てみましょう。
物語は、ラザロのよみがえりの続きにヨハネの福音書に書かれています。
12章の2節をご覧ください。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

 マルタ――確かにマルタは給仕していました。しかし、それはバランスの取れた奉仕です。彼女は依然として給仕していますが、まったく問題ありません。今や非難はありません。今や、彼女は心配に支配されておらず、気苦労に振り回されていません。彼女は復活の家の中で給仕しています。ここには主によって調整された奉仕があります。主の家の奉仕は、その奉仕が礼拝と関わりがあり、礼拝と正しい関係にある時、主の御心によくかなっていると言えます。ご覧のように、二人の姉妹はバランスが取れています。以前、彼女たちは離れていました。なぜなら、物事のバランスが崩れており、あるべき場所になかったからです。今や調整がなされ、彼女たちはいつも一緒にうまくやります。それは調整された奉仕です。
 私たちはマルタが主に忠実であり続けたという事実に目を留めるべきです。
主は、このときどこに向かっておられたのでしょうか。
エルサレムです。これからほんの1週間のうちに、イエス様は十字架にかかられたのです。
イエス様に従うものもいましたが、イエス様に反対するものも多くいたはずです。
その中で、最後まで主をもてなし続けたマルタの信仰は注目に値するのではないでしょうか。

結論
◎ マルタは信仰があった。
◎ マルタには奉仕の精神があった。
◎ マルタは問題を主のところの持っていった。
◎ マルタは主によって整えられた。
[PR]
by s_soranotori | 2005-07-28 15:16 | 聖書の人物

ハンナとペニンナ

2002年4月4日
栗東キリスト教会婦人会
≪※≫メッセージノート、ほぼそのままで、メッセージの形態になっていません。ご了承ください。

【聖書箇所】サムエル記第1,1章1節~28節

※2人はエフライムの住人 エルカナの妻の1人
 当時の道徳的水準は低くなっていた。
結婚において、1人の夫と1人の妻が結ばれる一夫一婦の制度は、最初から神の意図されたものであった(創2:24)。「ふたりは一体となる」は、3人以上には当てはまらない。この原則が破られる時、必ず家庭は乱れる(例:創16章,29‐30章)。たいていの場合、そこで苦しむのは敬虔な女性である。

≪ペニンナ≫
子供があった。

ハンナをいらだたせた。
  ・高慢
  ・嫉妬深い

≪ハンナ≫
子供がなかった。
  ・夫に愛された
 イスラエルの女性にとって、不妊は恥辱であり悲しみであった。ハンナはシロでの例祭のたびごとにエルカナのもう1人の妻ペニンナから、心の傷口に塩をすり込むようなことを言われ、食事も出来ないほど傷ついた。彼女に対する夫の愛も、その傷をいやせないほどであった。

神に祈った。

  ・謙遜
  ・敬虔
  ・具体的に祈った
 詩篇50:15には「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」と勧められているが、ハンナはその通りにし、涙の祈りを主にささげた。聖書注解者、マシュー・ヘンリーは「万軍の主よ」という呼びかけは聖書の中でハンナが最初といっている。神は、天と地とご自身が造られた全てのものの主であることを認めていた。また、ご自身の元にある天の軍勢の主であられると認めていた。
 ハンナはその信仰の表れとして、もし男の子が与えられたら、生涯の「献身者」として、その子をささげると誓約した(参照民6章のナジル人)
 ハンナの顔はもはや以前のようではなく憂いは去って、平和と喜びをたたえる表情に変っていた。ハンナは信仰を持ち、疑うことのない祈りをささげたのである。
(マタイ21:21イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」)

  ・栄光を主に帰す【献身】サムエル
祈りの答(Ⅰ1:19‐28)
 ハンナの祈りは応えられ、彼女に男の子が生れた。彼女は、この子を「サムエル」〈ヘ〉シェムーエール(神の名)と名付けた。「主に願って」与えられた子だったからである。乳離れするまでこの子を手元に置いて慈しんだハンナは、母親の情を断ち切って、以前神の前に誓約した通り、生涯を通じてのナジル人として神にささげた。こうして、祭司、預言者、士師、キングメーカーという重大な使命を担うサムエルの訓練が、幼い時から始まるのである

・栄光を主に帰す【賛美】2:1~10
 「涙とともに種を蒔く者は,喜び叫びながら刈り取ろう」(詩126:5)。
 今ハンナは、心よりの賛美をもって祈っている。
 祈りの中でハンナは、主が「聖なる方」であり、全幅の信頼に値する「岩」であり、「すべてを知る神」、生殺与奪の権を握り、逆転のみわざを行うさばき主にいますことを告白する。
 5節に歌われているように、彼女は「不妊の女」としてあざけられていたが、現実に多くの子供たちの母となることができた。神の主権を歌うことは、取りも直さず人の傲慢や高ぶりを戒めること。人はみな、ペニンナも含めて、「神の力強い御手の下に」(Ⅰペテ5:6)、おのれを低くしなければならない。
 マグニフィカトと呼ばれるマリヤの賛歌(ルカ1:46-55)は、このハンナの賛美によく似ている、といわれている。マリヤは敬虔な女性であったので、この賛美もよく知っていたのだろう。そして彼女も、ハンナと同様の霊に満たされて歌ったのだろう。10節に「油そそがれた者」(〈ヘ〉マーシーアハ,〈ギ〉クリストス)という言葉が出て来ることも注目に値する。

【結果】  ・祝福があった ≪3人の息子と2人の娘≫2章21節

ハンナへの祝福(2:18‐21)
 ここには,エリの家とは対照的に,敬虔に神に仕えるサムエルと,その両親のことが記されている。
 亜麻布のエポデ(18)は、祭司が身にまとう下着風の衣である。大祭司のために作られる豪華なエポデ(参照・出28:6)とは異なる。サムエルは、幼いなりに、その亜麻布のエポデを身にまとって奉仕していたが、成長の著しい少年のために、母ハンナは、毎年上着を新しく持って来て、彼に着せた(19)。エリの祝福の祈り(20)は応えられた(21)。100%ささげ尽したハンナに、主は500%の祝福をもって報いられたのである。
少年サムエルは主のみもとで成長した(21)。この言葉及び26節は、主イエス・キリストの幼年期の成長を思い起させる(参照ルカ2:52)

【学び】
 わたしたちも、信仰によってサムエルの母となることができる。
 今から子供を産むことはないかもしれないが、伝道によって実を結ぶことができる。
祈りによって実を結ぶことができる。
[PR]
by s_soranotori | 2005-07-28 14:19 | 聖書の人物