あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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カテゴリ:育児( 6 )

親子の関係

 うちの子は、親をとにかく喜ばせたい、褒められたい、そんな思いに溢れた子だ。
それが良いことなのか、悪いことなのか、わたしにはよくわからない。

 それで、親の顔色ばかりうかがうようになったりご機嫌を取るようになったり、また親の期待に応えなくちゃ、というプレッシャーに押しつぶされたりするのは困る、と思うけれど、ある意味では子供が親に褒められたいと思うのはごく普通のことでもある。

 こういう親子の関係って、信仰(神様との関係)にも通じるのではないかと思う。。

 親は、子供が何か良いことをしたから子供を愛するわけではない。
子供が何かをしなければ子供のことを喜ばないわけではない。
すでに、その存在そのものを愛しているし、喜んでいる。
しかし、子供が何か良いことをすればなお嬉しい。
そして子供は親に「よく頑張ったね」と褒められるととても嬉しい。

 これは、神様も同じなのではないかと思う。
 神様は実は、わたしたちが何かをしなければ喜ばない、という方ではない。
その存在だけですでに喜んでくださっている。
何かしたから余計に愛して下さるというわけでもない。
無条件に、そのすべてを受け入れて愛して下さっている。
でも、わたしたちが神様のご栄光を輝かせるとき、より喜んでくださるだろうと思うし、わたしたちは神様の喜ばれることをするのが嬉しい。

 こういう神様との良い関係を築くためにも、良い親子関係って、そのモデルになるものなのではないかと思う。

 牧師家庭に育った、ある若い牧師先生が言っておられた。
自分が子供のころ、たとえばお年玉をもらった時など、その中からたくさん献金をささげると親が褒めてくれた。その親の喜ぶ顔、また親にほめられるのが嬉しくてたくさん献金をささげた。
でも、ささげることを通して、神様の恵みを知るようになっていった時、自分から多くささげたいと思うようになった、と。

 なにも、これがベストの子育てと言うわけではないと思う。たまたまその家庭で成功した事例、と言うだけかもしれない。それでも、この証しから、わたしは子育ての大きなヒントをいただいた。

 いま、エルは、親にたくさんたくさん褒めてもらいたい。毎日、何度でも「愛しているよ」と言って欲しい。
ちょっと叱ると「もうエルちゃんのこと嫌いなの?」と聞かれるのには閉口するけれど、そうして何度も確かめて、いつも同じように受け入れられ、愛されていることを確認している。
子どもにとって、親の愛情も確かめないと不安になるのだと思わせられる。でもきっと、いつでも自分は受け入れられていると確信をもってくれる時が来るのだと思う。
そしてその時、自立が始まるのだと思う。

 信仰も同じ。
初めから、ゆるぎない信仰があればよいけれど、なかなかそうはいかない。
けれども、祈りの中で、信仰生活の中で、より深い神様の愛を知り、確信していくことで、今度はその愛の中で自由に、自立したクリスチャンとして歩むことができる。

 親子関係と、神様との関係が全く同じとはいかないけれど、教えられるところはずいぶん多いなあ、と思う。
子育てって奥が深い。
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by s_soranotori | 2007-06-29 15:13 | 育児

人間不信教育

 礼拝後の交わりの中で、人間不信教育の話になった。
「こんな小さな子供のうちから『人間不信教育』をしているようでイヤなんです」と。
きっかけは、Shionがわたしの周りでグズグズ駄々をこねていたこと。
外で遊びたかったのだけれど、いつも一緒に遊ぶ大きいおにいちゃんやお姉ちゃんはお休み。そういう時はよくY太郎君とお父さんがShionと外に出てくださるのだけれど、今日は早く帰られた。「で、一人では外に行っちゃダメ」と言ったのですねていたのだ。
この時点で、話していた方との間には、問題は自動車など、事故ではなく、「人」であると言う共通の認識があった。
その上で、相手の方は「大丈夫なんじゃないですか」とおっしゃった。
ただShionは行動力がありすぎて、放っておくと結構離れたところまで一人で行ってしまうし、そうなると捜すのが大変なこともある。実際、「いなくなった!」と大騒ぎして、グイドと探し回った事がある。
とても親切な高校生の女の子とであって、助けてもらったこともあるし、わたしも迷子の子を助けてあげた事がある。そんな話をしていると、「ほとんどはそういう人なんですよね」と相手の方はおっしゃった。相手の方は「何かあるとすぐに『パトロール』とか言うのもどうかと思う」とおっしゃっていた。
互いに見張りあって、不審者がいるのではないかと、初めからネガティブな予想をしながら行動するのはどうか、もっと信じあうことが大切なのではないか、と。
 その時は、「そうですよねぇ」と同感して話していた。
それは確かにそうなんだけど、後でしみじみ考えると「やっぱりなあ」と思ってしまう。子供が被害に遭う事件が最近あまりにも多いこと。もちろん、ニュースに流れるような大事件は日常茶飯事ではないかもしれないけれど、この辺でも不審者情報は頻繁に伝わってくる。
保育園でも「子供だけでは外へ出ない」と教えられている(と思う)。
 それに、考えてみたら、わたし自身がこの地域で車上荒らしという被害にあっている。あの時は、同じような帽子を見かけるたびに「この人じゃないか?」なんて思ってしまったものだ。
 また、もう20年以上も前のことだし東京という都会でのことだったけれど、夜道で痴漢に襲われたこともある。痴漢に「あった」じゃない、「襲われた」。あの時相手は「レイプ」まで想定していたのかどうかはわからないけれど、とにかく、襲われた。まあわたしの声の大きさで(腹式呼吸で鍛えていたからね)難を逃れたけれど。
 日本は治安のよい国、という安全神話はもう崩れているのではないだろうか。
少なくとも、一度でも何かの被害にあうと、人はそれがトラウマとなる。

 話していた相手の方は、Shionの行動力のことをお話しすると「そういう子は何かあっても大きな声を出すから大丈夫ですよ」と言われた。でも、このあたりは工場や倉庫のような場所も多く、日中人通りが少ないうえに、幹線道路の騒音もあり、大きな声を出しても聞こえないことも多い。そう思うと、気軽に子供を一人で外には出してやれない。
まして可愛い女の子だし。(そう、なんと言っても可愛いのが心配の種!←親バカ)

 それでも、まだたった3歳や4歳の子供に「不審者にどう対応するか」保育園(幼稚園)で教えなければならないと言うのはやっぱり不健全な社会だと感じる。
Shionは車の中から「こども110番」の旗を見るといつも「あれはね、こどもひゃくとーばん、っていうんだよ」と教えてくれる。
保育園(幼稚園)でちゃんと教えてもらっているから。
 そういえば、うちの保育園(幼稚園)、だいぶ前のことだけど、外部から不審者が侵入したと想定しての避難訓練(?)みたいなのをやって、新聞の滋賀版に掲載されたりしていたっけ。
 そんなのをしなくちゃいけない時代なんて…。
なんだか哀しいことだね。
だから、昭和30年代とかがブームになるのかな?
古きよき時代の日本を懐かしんで…。
今の日本を作ってしまったのは誰でもない、自分たちなのだけれど。
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by s_soranotori | 2006-06-12 11:15 | 育児

母の思い

 わたしはガッカリすることが嫌いだ。
本当に、つくづく、ガッカリする事に弱いと思う。
だから、どちらかと言うと、物事を悲観的に判断する傾向がある。
まあ、クリスチャンだし、神様を信頼しているから、悲観的と言うほどではないかもしれないけど、少なくとも、何事につけ、初めから多くを期待しない。
 自分が、ガッカリする事に弱いから、ついつい、子供も同じだと思ってしまう面がある。
だから、子供に期待感を持たせることに対して、かなり慎重だ。
時々夫が不用意に「○○行こうか?」とか、できもしない思い付きを娘の前で口にすると、「やめてよ!」と言うことになる。

 先日、日記の方には書かなかった、小さなエピソードがある。
Shionちゃんが、マク○ナルドのプレイルームに、夫と遊びに行った時のことだ。
わたしはその話を翌日、夫から聞いた。
夫「昨日、実はShionちゃんちょっと可哀想だったんだ」
私「どうしたの?」
夫「プレイルームで、何人かの子供たちが隠れんぼしててね、Shionちゃんも仲間に入りたくて、隠れるんだけど、誰も名前を呼んで捜してくれなかったんだよね」
その話を聞いてわたしは、とってもとっても胸が痛んだ。
その場にいてもきっと、何もできずにおろおろしていただろうけど、見ていられなくて
「Shionちゃん、帰ろうか」と言っていただろう。
一緒に行かなくて良かった、と思った。
 もっと小さい子供なら「仲間に入れてあげてね」と親がいうことも良いだろうけど、もう自分でも言えるはずの言葉を、わたしは多分、代わりに言ってあげることはできないだろう。それ以前にわたし自身が人見知りで引っ込み思案だから、たとえ相手が子供でも、そういう言葉を口にするのは躊躇してしまうだろう。
そして、Shionちゃんと一緒に胸を痛めて帰ってくるだろう。
 でも、と、思う。
きっと子供にはそんな体験も必要なんだ。
自分から「入れて」と言わなければ仲間に入れてもらえない。
そんなことを、子供は経験を通して学んでいくのだろう。
わたしが本当にそれを学んだのは高校生になってからだった。
わたしは双子で、たいていどこへ行っても姉が一緒で淋しい思いをしたことがなかったから。
高校生になって、さすがに姉妹離れをしてやっと、そういう淋しさを体験したのだ。
 そういう意味では、兄弟のいないShionちゃんは、これからも一杯一杯淋しい思いをすることだろう。でも、きっとその中で、たくましく成長して行ってくれるのだと信じたい。

 母としては、自分の子供が、少しでも平坦な道を歩けるようにと願う。
痛い思い、辛い思いをしなくてすむものならしないですませてやりたい。
でも、それではきっと、精神的に痩せっぽっちのひ弱な子に育ってしまうのだろう。
痛い思い、辛い思いを通して、子供は成長していくのだろう。

 マク○ナルドから帰ってきたとき、実はShionちゃんは、ちょっぴり淋しそうな顔をしていた。一瞬「どうしたのかな?」と思ったけれど、「どうだった?楽しかった?」と声をかけた。Shionちゃんは最初は黙っていたけれど、「楽しくなかったの?」と聞くと、小さく首を横に振った。「楽しかった?」と重ねて聞くと小さく頷いた。
わたしはその時は何も知らなかったので「そう、よかったね!お父さんにありがとう、って言ってね!」と屈託なく言って終わった。Shionちゃんは、すぐに「なんか(TVを)見る」と言って気持ちを切り替えていた。
きっと、母親を心配させたくなかったのだろう。他の子が遊んでくれなかった、とは言えなかったのだろう。そんな健気で優しいShionちゃんが、たまらなく愛しい。
どうかどうか、神様、この子を守ってください、と祈らずにはいられない。
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by s_soranotori | 2005-08-12 10:17 | 育児

またまた子育てのこと

 教会の内外で、ちょっと色々あり、子供を育てる、ということについて、少し考える事があった…。
少し前にも、子育てのことを書いたけれど、もう少し、具体的なことを考えさせられた…。

子供を育てるとはどういうことなのか。
最近の子育ては、昔とは随分変わってきていると感じる。
わたしが子供のころは、それなりに罰が伴った。
わたしが育った家庭は、それほど厳しいとは思わないけれど、「お約束」をして、それを破ったら「おしりペンペン」か「やいと(お灸)を据える」か、どちらか自分で選ばなければならなかった。
更に小さい頃、親は危ないことだけは叩いてでも教えてくれたそうだ。

 今は、決して叩いてはいけない、体罰はいけない、どんな事があっても…。と言われている。
 果たしてそうだろうか?
 わたしの母は、決して物で叩かなかった。自分の手のひらの痛みを感じながら、その手で叩いたのだそう。
あとで、優しくおしりを覗いて「赤くなってへんか…」と心配してくれたこともあった。
そんな親に叩かれたからといって、わたしはゆがんだ恐怖感を持ったとは思わない。
むしろ、親が自分のために叱ってくれていることがわかっていたように思う。

 わたしには、一般に体罰を認めないのは虐待への抑止であるように感じられる…。
 今、わたしは、子供を叩いて叱ることはほとんどない。
かといって決してないとも言えない。
ただし、一度だけ、母が、感情的になり、物で叩かれた事があり、それだけは心に、澱のように残っていることを自分でも肝に銘じている。
感情的にカッとしている時は、絶対に手を上げない。
 しかし絶対にいけないことはいけない、危険なことは危険、と教えなくてはならない。
そのための鞭は差し控えてはならないのだ(もちろん文字通り鞭を使うという意味ではないが)。

 子供は親をおそれなくてはならない。それは恐怖ではなく、尊敬するということ。
それはすべての「畏れ、敬い」の原型となる。
 わたしは、不思議なことには父に叩かれたことは一度もない。それどころか、叱られた記憶すらほとんどないのに、母よりも、むしろ恐いのは父だった。
家の中で、「師匠」として、厳然と存在していた父を畏れていたのかもしれない。
 今は、全般的に親を親とも思わず(「友達親子」という便利なことばもあり)、縦の関係(上下関係)を嫌い横のつながりばかり大切にする風潮があるのではないか…。
しかしそれでは、神を畏れ敬うということまで、おぼろげになってしまうのではないだろうか、と少し心配になる。

 子供は、親に守られている。
子供は、危険な場所を、あらかじめ教えられる。
確かに、落ちてみればその痛さはわかる、けれども、大怪我をして命取りにならない程度に、親は子どもを守る責任があるだろう。
子供がある程度、意思を持って主張する年代になっても、やはり成人するまでは(単に年齢的な意味ではなく)、やはりその責任は親にあるのだろうと思う。
 なんでも自由にさせる、物分りのよい親を子供は好むだろう。
しかしそれが必ずしも子どものためにはならないだろう。
自由と放縦、規制と拘束は違う。

 最近、どこまで自由にさせてやるべきか、どこまで待ってやるべきか、子供の意思をどこまで尊重すべきか、考える事がある。

 まだまだ、わたしの子育ては始まったばかり。手探りの状態が続く…。
 しかし、結局のところ、自分の受けてきた体験が基礎になるのではないかと思う。
少なくともわたしは、自分の親が、わたし自身を非常によい育て方をしてくれたと思っているので、聖書の概念や、新しい情報も取り入れながら、その体験に基づいて子供を育てていくのだろう、と思う。

 両親は、夫婦で話し合い、相談して、育児の方針を決めたのだそう。
また、両親は、ある意味で非常に強い信念のようなものを持っていたように思う。
 もしかしたら、その信念が、わたしを意志の強い人間に育ててくれたのかもしれない、と思う。(ただし、意志が強いと言っても、自分には甘い人間で、自分を律することに関しては必ずしも意思が強い訳ではなく、自分の夢や希望に対して、意思が強いだけだが…)
そういう意味で、わたし自身も、親が子供に示すことのできる「信念」のようなものを、断固としてもって生きたいと思う。
 わたしの親は、ほとんどのことは何でも自由にさせてくれた。
しかし、それがわたし自身のためにならないと思うことは、断固として許されなかった。
或いは、「待つ」ということを非常に教えられた。
夫でもあるわたしの牧師はこの「待つ」ということの大切さを時々語る。
多くのことを「待つ」忍耐が「待ち望む信仰」を育んでくれるのかもしれない。

 今、子供がどんな学校に行くか、どんな職業につくか、何になるか、そのようなすべてのことに優先して、主、イエス・キリストに導くことが親の最大のつとめであると思う日々の中で、いずれにしても、子供を持つ初めから、イエス・キリスト信仰を持ち、御ことばの土台の上に立っていることは、何よりも心強いことである。
そう感じると共に、だからこそなおさら倒れないように心がけなくては、と思うこの頃ではある。

子どもたちよ。
主にあって両親に従いなさい。
これは正しいことだからです。
「あなたの父と母を敬え。」
これは第一の戒めであり、
約束を伴ったものです。
すなわち、
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」
という約束です。

エペソ人への手紙6:1~3

 従わせられる親、敬われるに値する親にならなければ…(~_~;)。

 先ごろも、ある牧師家庭に育った若い伝道者と話す機会があった。
「自分が子供のとき、両親はいつもいつもそばにいてくれた訳ではなかったが、必要な時にはいつでもそばにいてくれました」
と彼は語っていた。
 いつも子供のそばにいなくても、本当の、子供の必要を見極め、すかさず手を伸べることが出来る親になりたい、とわたしも思わされた。

 前回、子育てのことを書いたのと重複するけれども、わたしが、クリスチャンとして育った土壌では、牧師たちの子供の多くが伝道者になっている。多分5割以上の確率、もしかしたら8割位にのぼるかもしれない。
わたしはそういう世界しか知らなかったとき、伝道者の家庭に育てば、子供は自然に神様の素晴らしさを知るかのように思っていた。しかし、その群れを離れ、外へ出たとき、伝道者の子供が教会にさえつながっていないケースが多々あることを知った。
それはわたしにとって大きなショックだった。
 わたしは、上手く子供を神様に導くことが出来るのだろうか。
自分自身が、家庭の中で神様の素晴らしさを信じ、語り続けることが何より大切だと思いながら、ともすると呟きが多くなる。こんなわたしではいけない。もっともっと…。
 いや、そうじゃない。
神様に委ねること、そして、自分自身が恵みの中に留まること、そして、何が正しいことなのか、基準と信念を持って教えること、そしてヴィジョンを見ること。
やはりそこにたどりつく。
 子供に愛されたい、子供に好かれたいと子供の顔色を見て機嫌を取ることはたやすいけれど、それが子どものためになるとは限らない。いやむしろ子どものためにならないことのほうが多い。
 人は「子供は純粋だ」という。確かに神様を純粋に信じやすいものだろう。その半面で、世の影響もそれだけ受けやすいということ。わたしは、偶像と闘った時のように、身を持って、正面切ってぶつかっていかなければならないのだ、と最近思わされている。

 偶像問題、結婚問題、妥協との闘いだった。長い闘いだった。その末に見た祝福を思うとき、子供のことも、どんなに辛くても、子どものために闘っていかなくてはならないと思うことがある。
 偶像問題、結婚問題も、自分ひとりの力で闘ってきたわけじゃない。主が闘ってくださったのだ。
今また、子供の心のうちにある罪と、そして世の力と、主に力を頂いて闘っていきたいと思う。
その背後にある祝福を信じて。
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by s_soranotori | 2004-08-18 00:00 | 育児
2004年03月06日
 今、一番の関心、といっても過言ではない、子育て。
 わたしの卒業した神学校の先輩たち、どうやって子供を育てたのかと思うくらい、上手に(外側から見ているだけだからもちろん悩みや葛藤はあったと思うけど)子育てをされていて、どうやったらあんなふうに子供が育つのだろう、と思ってしまう。
 神学校の先輩の牧師家庭の子供さんで、献身して伝道者になっている人が非常に多いのだ。もちろん、伝道者になっていない人もいるし、伝道者になることだけが素晴らしいわけじゃないけど…。それでも、少なくとも、クリスチャンにとって幸いな道だとは思う。
 わたしがとても影響を受けているK教会では、伝道者家庭ではなくても、クリスチャンホーム育ちの伝道者が本当にたくさんおられて、その人たちが結婚されて、親戚関係がすごく広がってる…。
 どうやったら、あんなふうに育てられるのだろう、って、子供を持ってから、思うことが多くなった。職業柄、プレッシャーもある。
 また、むしろ、子供さんが教会に行っておられない伝道者家庭もたくさんあることを知ってから(以前は、前述の通り、自分の周りではほとんど皆、二世が熱心なクリスチャンなのであまり考えたことがなかった)、「はて、うちはどうなるのだろう」と考えることが多くなった。そして、先ほど書いたように、どうやったら、あんなふうに、子供が育つのだろう、と思ってしまうわけである。
 でも、大切なことは、人まねじゃなくて、自分自身がイエス様と向き合って、語り合って、導かれて子育てをしていくことなんだろうなぁと、つくづく思う。わたしは、わたしで、人と同じようになることはできないし、そんなこと、神様は望んでおられないのだから。
 でもね、でもね、理想は一杯あっても、現実を目の前にすると、どうしていいのかわからなくなることがある。娘がわんわん泣いてる横で、わたしもわんわん泣きたくなる。「お母さんも一生懸命頑張ってるんだよー!!」って。
 だけど、子育てはまだまだ始まったばかり。あせってもしかたがないんだよね。

 娘が素敵なクリスチャンになる姿を思い描いて祈っていこう。

信仰は望んでいる事がらを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。
ヘブル11:1

 ヴィジョンとは、願ったことをすでに見たように信じること。
だから、わたしも、娘が、素敵なクリスチャンになる姿を信じて、その姿を見つめて育てさせてもらおう。
 わたしたちは娘が生まれたとき献児式をしなかった。この子供ははじめからイエス様のものだ、わたしたちは預けられているだけ。だから、「献児」はしなかった。わたしたちは、この可愛い子供を育てさせてもらってるのだ、と思う。
 神様に、素敵な子供を委ねていただいたことを感謝しなくては、と思う。責任もある。プレッシャーもある。でも、まずは、わたしの信条の通り、生きることを楽しみ、子育ても楽しまなくちゃね。苦しみ、悩んで子育てしたって、子供も苦しくなっちゃうだけだよね。
 まずは、わたし自身がもっともっとイエス様を愛して、イエス様の近くを歩むところから始めなければ…と思うこの頃だ。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって
神があなたがたに望んでおられることです。
Ⅰテサロニケ5:16-18
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by s_soranotori | 2004-03-06 00:00 | 育児
 今日はShionの初めての音楽会だった。
去年の12月からの入園だったので、多くのことは今年初体験。
 最初は、観客に驚いたようだったけれど、すぐになれたのか、いつもの詩音ちゃん(^^)。
 最初は端っこの方に座ったけれど、だんだん移動して、ついにセンターポジション。スターの片鱗、なんてね(親バカ(*^_^*))。
 最初はお遊戯付きの歌で「どんぐりころころ」可愛い!!(^◇^)
しぐさの一つ一つに詩音ちゃんの癖が出ていて可笑しい。
 次はミルク缶で作った太鼓を首から提げて「おもちゃのチャチャチャ」に合わせてトコトコと合奏。赤ちゃんは、ジュースの空き缶のマラカスを振り振りしていました。

 それにしても最近の母親たちというのは、まったくしょうがない。まあ、わたしも最近の母親なんだけど。
 とにかく開演前から、おしゃべりのしっぱなし。
それも、ひそひそ声ではなく、普通声で。
園長先生の挨拶を聞いている人は何人いたか・・・。
 子供が入場してきてもおしゃべりは止まらず。演奏(歌)が始まると、少しは減ったけれど、それでも、静まりかえるということはなかった。子どもの演奏を聞きにきているのか、○○ちゃんのお母さんとのおしゃべりに来ているのか。
 もうちょっとで立ち上がって「あんたらちょっと静かにしたらどないやねん!」と啖呵をきるところだった。恥ずかしさが勝って、立ち上がれなかった。
 最近の親はこんな風だと、前に聞いたことはあったけど、目の当たりにして、本当に残念な気持ちでいっぱいになってしまった。

 そういえば、先日、姉と高槻の方の温泉に行ったとき、「浴槽内にタオルをつけないで下さい」と書いてあるにもかからわらず、腰に、タオルを巻いたまま、赤ちゃんを抱っこしたお母さんと小学生の女の子が湯船に入ってきた。
 わたしはこういうのが大嫌い。
書いたものが掲示されていなければまだいいのだけど、書いて貼ってあるのに平気でしているのが、どうも気になって仕方がない。
 でも、いきなり言うのも・・・、と思って、最初は我慢していた。姉に「あんた言うたら?」などと、ちょっと押し付けてみたり。
 しばらくして、露天風呂に移動したら、そこにも同じ親子が、さっきと同じように腰にタオルを巻いて入ってきて、キョロキョロしていたので、掲示に気が付くかと様子を見ていたけど、温泉の効能だけ読んで、その上の掲示には気付かずのんびりお湯に浸かっている。ついに堪りかねて『「タオルをつけないように」って書いてあるんですけど・・・。子供が真似をしますので』と言った。スッとした。
 悪気はないんだろうけど、公衆浴場でタオルをお湯につけないというのは最低限のマナーだ。TVの旅番組で、レポーターがタオルを巻いてお湯に浸かるのは、公序良俗と放送コードの問題。現実にお風呂屋さんでは、みんなが裸なんだから、恥ずかしがる必要なんかないのに。
 長い髪を結わないで、湯船につけている人も気になる。髪のことはいちいち書いて貼ってないので、あからさまに言うのも憚られて、なかなか言えないのだけど・・・。

 親がしていると子供もする。
 こうやって何もかもがナアナアになってしまう。ア~、ヤダヤダ!
 でもきっとわたしも、色々気付かないところがあるんだろうな。
人の振り見てわが振り直せ。わたしも気をつけなくちゃね。
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by s_soranotori | 2003-11-27 00:00 | 育児