あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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カテゴリ:あの日を忘れない( 4 )

8年前のこと…

 今日は義父の命日でした。

 わたしが結婚したのは2000年11月11日土曜日。
グイドのお父さんとは、11月10日に初めて出会って(結婚前に北海道の親戚に挨拶に行った時は行方不明というか、居場所がわからなかったのです)親戚の皆さんも含めて皆で夕食を食べ、11月11日結婚式のあと別れて、11月12日は礼拝に出席して13日から新婚旅行。
11月21日新婚旅行から帰ってきて、11月22日にグイドのお父さんが亡くなったと連絡があり、23日の早朝札幌に飛んだのでした。
 だからわたしにとって、義父との思い出はたった2日間だけでした。
それも思い出と呼べるほどのものではなく…。

 グイドは、1歳半の時にお母さんが亡くなったのですが、お父さんは子育てや家庭的なことは全く駄目な人だったようで、結局グイドはお兄さんとバラバラに親戚に預けられて育ったのだそうです。
何軒かの親戚のお世話になったようですが、一番長くいたのが広尾の伯父さんのところで、16歳からは自活。
まあ、グイドの生い立ちは紆余曲折があってわたしもよく分かっていない(というか憶えられない)部分はあるのですが、いずれにしてもお父さんと共に過ごした思い出はあまりないようです。
 そんな話を聞いていたわたしは、これからたくさんの親子らしいことを、お義父さんにもグイドにも味わわせてあげたい、と思っていたのに…。もしかしたらいつかはこちらに呼んで一緒に暮らすことになるかも、と思っていたのに…。
 あまりにもあっけなく逝ってしまったお義父さん…。
最初は交通事故だと連絡を受けたのですが、警察に行ってみたら、解剖の結果、運転中に心臓の発作か何かがあったようで、意識不明になった結果、電柱に当たったということで、事故死ではなく病死だったそうです。
恐らくそんなに苦しまずに亡くなられたのでしょう…。
 お義父さんは、結婚式の当日グイドに「ありがとうな…」とぽつりと言葉をかけられたそうです。「結婚式に呼んでくれてありがとう」だったのか、「立派に育ってくれてありがとう」だったのか…。真意はわからないのですが、色んな思いのこもっていた「ありがとう」だったのではないかと思います。

 新婚旅行から帰ってきて、当時私たちが御奉仕していた教会では「11月一杯ゆっくりして良い」と言っていただいていたのですが、結局11月一杯、葬儀と、義父の身辺整理に追われたのでした。
まだ11月でしたが、雪が降って結構つもり、泊まっていた安ホテルの近くにあった、ちょっと大型のスーパーで肌着や短いブーツを買ったっけ。

 そんなことを思い出しながら、ほとんど思い出のないお義父さんのことを思い出したくて、結婚式のビデオを出してきて見ました。
式の時のお義父さんの挨拶は不器用な人らしくしどろもどろで、笑いを誘いながらも心温まるもので、お義父さんに結婚式に出てもらえたことが何よりの思い出になったことを感謝しました。

 今日、デンマークカクタスがほころび始めました。

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by s_soranotori | 2008-11-22 23:59 | あの日を忘れない

63回目の今日

♪ああ ゆるすまじ原爆を
 三たびゆるすまじ原爆を
 世界の 上に

いつだったか、の、ドキュメント番組で、被爆者の方と原爆投下された方との対面、というのがありました。
投下された方は、決して一言も謝りませんでしたね。

戦争は、個人レベルのことではないので、色々と問題はあると思うのですが、その方は、一言「申しわけなかった」と言うことで、相手の心をいやすことができたのに、それをしなかった。
非常に残念でした。

原爆は、そして戦争は、人類の罪です。

この地上のどこにも、正当化されてよい戦いはないのです。

ただ、その一方で思うことは、憎しみは憎しみの連鎖を生むだけだということ。
わたしたちは憎しみの連鎖を断ち切らなければならないのです。

「トラトラトラ、我奇襲に成功せり」の真珠湾攻撃の特攻隊長・淵田美津雄さんや、「炎のランナー」で有名なエリック・リデルさんの生涯を通して、学ぶことは多々あります。

戦争を、そして原爆をゆるしてはならない。

けれど、どこかで憎しみの連鎖を断ち切らなければならない。

矛盾しているようだけれど、人類にとっての課題ではないかと感じています。
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by s_soranotori | 2008-08-06 23:59 | あの日を忘れない

淋しかったあの頃…

わたしが救われた(クリスチャンになった)教会にはすごく素敵な女性がいた。

綺麗で、頭も良くて、賜物(才能)があって信仰があって、男性にモテモテで、女性からも好かれていて…。
その人は結局、これまたすごく人気の高く、優秀な人と結婚した。

わたしが救われたのは東京のまあ、ちょっとはずれにあった教会だけど、垢抜けた人が多くて、素敵な女性が多かった。
わたしはすぐに郷里に戻ることになって小さな教会に行くようになったけど、救われた教会の人たちはいつまでもわたしの憧れのクリスチャンだった。
素敵な人たちが結婚して行く中で、わたしも結婚したくてしたくてしょうがなかった。

でも自分は、美人でもないし、信仰も未熟だし、人の目を引く賜物なんてないし、頭だって悪いし…。
わたしが努力してもっともっと素敵な女性になったらその時、神様は伴侶を与えてくださるのだろうと思った。

でも、いつまでたっても素敵な女性になんかなれなかった。
 ♪かもめはかもめ 孔雀や鳩や
  ましてや 女にはなれない…(「かもめはかもめ」by中島みゆき)
そんな風に愛されることを諦めたこともあった。

でもね、そのうちに、すっごい素敵だと思っていた人たちも、普通に「人」なんだ、って知るようになっていった。
それでも、それを知ったからといってわたしのことを愛してくれる人が現れたわけじゃないけれど。
淋しくて淋しくて死にたくなるような時もあった。
失恋だってしたし。
何度も実らない恋をして、もう誰も好きになることなんかできないと思ったこともあった。

そしてやっぱり美人が羨ましかったし、頭脳や才能のある人が羨ましかった。
楚々として、男性が思わず支えたくなるような人も羨ましかった。

わたしは仕事や勉強をすることでしか、自分を認めてもらえないような気がしてそれなりに頑張った。
でもそれだけを生きがいにすることもできなくて、色んな楽しみも追い求めた。

それでも自分の居場所が見つけられなくて、淋しかった。

時々、「自分はどうしてまだ生きているんだろう?」なんて考えた。
生きている意味なんかないような気がして。
自分が死んだら何人の人が泣いてくれるだろう、なんて考えた。

本当は、家族や友人たち、たくさんの人に愛されていることは知っていたけど、それでも、一人の人にとって「ただ一人の人」になりたくて、心はいつも泣いていた。

いつまでたってもわたしは素敵な女性にはなれなかった。
いつだって、今より少しはましな人間になりたいと願っていたし、わたしなりに精一杯生きていたのに。
神学校で働いて、「先生」って呼ばれたりもした。
教会で奉仕もした。
それなりに評価もされていたと思う。
でも、わたしの居場所はそこじゃなかった。

教会の牧師にまで「独身主義」だと思われていたらしい。
だって、一人でも平気な顔をしなくちゃやってられなかったんだもの。
 ♪仕事をしていて良かったわ
  愛どころじゃないふりができる(「彼女によろしく」by中島みゆき)
そう、中島みゆきの歌がお友達だった。
もちろん教会に行ったり聖書を読んだり、そして祈ったりして神様に慰められたし、賛美を通して励まされもしたけれど、心の中は中島みゆきの世界だった。

そんな風にして一人が身に染み付いた頃、突然「時」がやってきた。
突然わたしの周りで何かが動き始めた。
気がついたら結婚することになっていた。

全然ドラマチックな出会いなんかじゃなかった。
全然思い描いたような人じゃなかった。
全然好きなタイプじゃなかった。
それでも、気がついたら恋に落ちて、愛する決心をしていた。
神様に「もういいんだよ、頑張らなくて」って、言われた気がして、「ああ、この人なんだ」って素直に思えた。

わたしは今でも全然素敵な女性にはなれなくて、今でも「かもめ」のままだけど、そのままで良いって言ってくれる人がそこにいた。

どうすれば結婚できるかなんて、わからない。
だって自分がどうして結婚できたかもわからないんだから。
「祈っていれば」って多くの人が言ったけれど、祈れない時だっていっぱいあった。
聖書を読めないときもいっぱいあった。
世の楽しみに逃避していた。
もちろん、心静かに「祈っていましょう」って思えた時もあった。
でもそう思えない時も一杯あった。

それでも、神様はわたしの心の願い、いや心の叫びに耳を傾けてくださった。
結局、神様の「時」まで待たなくてはいけなかっただけのことなのかもしれない、と今は思う。

独りならそれも良い、と思った。
それも受け入れようと思った。
神様は最善を成してくださると、ただ信じていようと思った。
そう信じ切れなくて辛いこともあったけれど、今は思う。
やっぱり神様は最善を成してくださると。

それは今、わたしが結婚しているからじゃなく、今、幸せだからじゃなく、あの辛かった時も、わたしにとっての最善だったのだと、今は思える。
あの時があったから、きっと今のわたしがあるのだと。
もちろん、その頃のわたしが真っ暗闇の中にいたわけじゃなく、それなりに楽しいこと、嬉しいこともたくさんあった。
それもこれも全部含めて、今のわたしを構成している訳だ。

結婚していなかったとしても、それが神様の御心ならそこに最善があったのだろう、と思う。

こんな風に書いても「それは今結婚しているからよ」って思われるのかなぁ。

ただね、結婚していても、子供のない人は「祈ったら」と言われ、一人産んだら「二人目はいつ?」って言われる。
子供が成長したら今度は、その子がどんな学校に行くか、どんな会社に行くかで人は、他人の幸せを計るのだろうか…。
幸せなんて、何かの条件を満たすことではないのにね。
わたしの幸せを一番良く知っているのは、わたしよりもきっと神様なんだと、わたしは信じたい。
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by s_soranotori | 2006-06-24 12:00 | あの日を忘れない
2005年01月17日
 今日は、あの阪神淡路大震災10年目だった。
 実は、この「シリーズ あの日を忘れない」は以前から考えていて、第1回は、別の内容を考えていた。
でも、その第1回のために、あるものを探していたのだけど、それが見つかるより先にこの日が来てしまった。
 そう、今日は、あの日から10年目。
「あの日を忘れない」というより「忘れられない」方が、たくさん、たくさんおられることだろう。
 わたしも、未だに震災のことになるととてもナーバスになる面がある。
わたしは、震災の映像を見るのが今でも辛い。
当時も、ニュースとか見られなかったけれど、今でも、やっぱり辛い。
15日、阪神淡路メモリアル集会で、関西CANの皆さんのバックで流れる震災の映像を見て、涙が止まらなかった。
わたし自身は、そう大きな被害があったわけではないのに…。
そう思うと、もっともっと過酷な運命にさらされた皆さんの心中は…と、考える時、ことばもない。
ただ、祈りあるのみ…。
 こんなわたしが震災のことを語るのが憚られる気がするほどだ。
それでも、やっぱり、わたしにとっては忘れられない出来事だった。

 その日、西宮の自宅にいたわたしは、ドーン、と何かわからないショックと共に飛び起きた。
後にも先にも、あんなに素早く、布団から起き上がったことはないし、再現しようとしてもできない。縦揺れの瞬間とほぼ同時に起き上がっていた。そうでなければ、横揺れがきてからでは立ち上がることは不可能だっただろう。
 わたしは床に布団を敷いて寝ていた。立ち上がってすぐ、姉が寝ているはずのハイベッドにつかまり、姉を起こそうと手を伸ばしたが、姉はすでにベッドにいなかった。その日は早朝から用があって出かける予定だったので、5時過ぎに起きていたらしい。
 わたしは、ベッドにつかまっていたので何とか立っていることができた。
揺れがおさまって改めて部屋の中を見ると、わたしが寝ていた布団の上には、TVがごろんと転がっていた。クローゼットの扉も外れていたかもしれない。外はまだ暗かったし電気もつかなかったので、よく覚えていない。
 正直に言うと地震直後のことは良く覚えていないのだ。気が動転していたからだろう。
 姉は洗面所にいたらしいけれど、当時まだ神棚のあった我が家の、神棚に蝋燭やライターがあるのを思い出した姉が明かりをつけてくれて、祖母の部屋に集まった。後で考えたら、ガス漏れがなくてつくづく良かった。さすがの姉もそこまでは気が回らなかったので。その日、父と母は、東京の寄席に出演中で留守だった。
 わたしは神学校に仕事で向かうはずだったが、それどころではなかった。日が昇るにつれ、少し離れたところで火事らしき煙が立ち上っているのが見えた。
 とても寒かった。
わたしは、熱が出てきた。38度5分くらいまで上がっただろうか。
わたしたちは3人、電気の入らない祖母の部屋のコタツで震えていた。
家は無事だったけれど、家の中はメチャクチャだった。
 いつも、何かあるとかけてつけてくれる、父のお弟子さんがいた。少し距離はあるけれど、同じ西宮市内に住んでいるので、自転車で見に来てくれた。自分の家も大変だったので、とりあえずわたしたちの無事を確かめて、反射式のストーブを倉庫から出して行ってくれた。
 熱があったわたしは、とにかくショックと熱でぐったりだった。祖母もショックを受けていた。姉一人が気丈に頑張って、あちこちでかけて様子を見てきてくれた。近くの171号線の陸橋が落ちていると言う。
教会に行く途中では電信柱が倒れて車は通れなくなっていると言う。あちこちで家も崩れているとの事だった。
 しばらくして、友人の家と連絡が取れたら、友人のところは電気が使えるという。家にあったパックご飯をレンジで温めさせてもらうために車で出かけた。普段15分の距離、1時間もかかった。
 どこに行けば水をもらえるのかもわからなかった。
やっと給水車が来るらしいという情報を得た時には遅くて、後の方に並んだ姉の前で、水もおにぎりもなくなってしまった。
姉が教会の様子を見に行ってくれた時に、教会の近くの畑で、水を汲ませてくださることがわかったので、そこまで車で水を汲みに行った。どんな容器を持っていったのか、それは忘れてしまった。ただ、反射式のストーブで水を沸かしたお鍋の底に砂が溜まっていたことは覚えている。
飲料水でないことはわかっていたけれど、そのお湯でわたしたちはカップ麺を作って食べた。

 それでも、わたしたちはとても恵まれていた。
住んでいたところが西宮北口まで徒歩圏内だったし、家も建物は無事だった。
不便ではあったけれど、そのままそこで生活することができたし、梅田から西宮北口まで、確か翌日くらいから、阪急電車の徐行運転が再開したので、大阪の親戚やお弟子さんが、次々と訪れて、食べ物や水を持ってきてくれた。

 数日後、だっただろうか。尾篭な話だけれど、ある時、わたしは、どうしても、普通のお手洗いで用が足したくなった。水洗トイレは、いくら汲み置きの水があっても、不用意に流したら、もし下水が分断されていたら、大変なことになると聞かされていたので、バケツなどを利用していた。それがどうにも辛くなってしまったのだ。
それで、わざわざ電車に乗って大阪まで出かけた。
 梅田駅に着いた瞬間、わたしはめまいを覚えた。そこには、震災前となんら変わりのない世界が広がっていた。
シャンデリアのようなキラキラした照明。17番街はふかふかとした絨毯が敷き詰められていて、お手洗いはとても綺麗だった。そこで顔を洗っていた女性もいた。
 こんな世界があったんだ…と、とても不思議な気持ちがした。
西宮北口までの道は、家が崩れて通れなくなっているところが何ヶ所もあった。
自分の周りでは目に入る景色が今までとは何もかも変わってしまったというのに…。

 それでも、わたしは、辛いとは言えなかった。
周りの、もっともっと大変な状況を見ていたし、亡くなられた方も大勢いた。神戸の叔母の家が全壊だったし、父の友人にも亡くなられた方があり、父もショックを受けていた。
それより何より、毎日毎日、生きることに精一杯だった。

 しばらくして、ライフラインが復旧し始めた。
少しずつ、日常を取り戻す中で、やっと自分のなすべきことを思い出し始めた。
 2号線や43号線などの幹線道路は使えなかった。それでも、月末には明石の神学校までどうしても行かなければならなかった。神学校の仕事もさることながら、宣教事務局の仕事は、どうしてもしなければならなかった。宣教献金を取りまとめて、計算し、国内外の10組の宣教師に送らなければ、宣教の働きが続けられない。どの宣教師も、1ヶ月でも送金が滞れば大変な状況だった。
 それまでわたしは火曜日の朝に神学校に行き、水曜の夜の集会に西宮に戻り、木曜にまた神学校に行き、金曜日に戻ってくるという生活だった。
しかし、明石と西宮を頻繁に行き来するのはとても大変だった。
そこで、火曜日に出かけ、水曜日は神学校の近くの教会の祈祷会に出席させていただき、金曜日に家に帰る、という、神学生時代と同じペースになった。
 神学校も、半壊で、かなりの部分が使えなくなっていた。
当時神学校の1年生だった夫は(もちろんその頃は、その人が将来の夫になる人だとは夢にも思っていなかったけれど)結局、神学校の3年間のかなりの部分を神学校の復興工事に費やすことになってしまった。当時の神学生は本当に気の毒だったと思う。

 わたしは、水曜日に祈祷会にいっていた教会の方々と一緒に避難所におぜんざいを持って出かけさせていただいたこともあった。
何もかもが貴重な経験だった。

 先ほども書いたけれど、わたしは、ずっと震災の経験を、「辛い」と言うことができなかった。もっともっと大変な状況の人たちがあまりにも多かったから。
 友人のご主人は、震災の直接の被害ではなかったけれど、震災後の仕事上の過労によるストレスから震災後数ヶ月して突然に召されてしまった。別の友人は家が全壊して仮設住宅に入っていた。
 春休みには、家が全壊した従妹たちを、親戚たちでお金を出し合ってディズニーランドに連れて行ってあげた。
でも、その数日前に、東京では地下鉄サリン事件が起きていた。
 なんだか異様な空気が日本を覆っていた時期だったような気がする。

 わたしは、数年たって、ある時、東京の友人宅で、たまたま震災の話になったとき、涙が止まらなくなった。
あの時、とても「辛い」なんて言える状況ではなかった。家が無事だった人は被災者とは呼んで貰えなかった。でも、やっぱり震災の「辛さ」を味わったのだと思う。
「辛い」と言えないことが辛かった。
そんなことを話して嗚咽した。

 今回、新潟の大震災の後、新潟で出会った一人の姉妹に、「家は無事でも、あの揺れを経験しただけで『被災者』ですよね」と声をかけさせていただいたら、涙ぐんで「怖かったんです」と言っておられた。同じ思いをしておられる人が、他にもおられることだろう。

 わたしは、今でも「遠き国や」(関東大震災の時に作られた曲で、「揺れ動く地に立ちてなお十字架は輝けり」という歌詞が印象に残る歌)を賛美する時、涙があふれることがある。
それでも、昨年、新潟の教会で特別賛美させていただいた時は、やっと泣かずに歌うことができた。(個人的には「新聖歌」に「遠き国や」が取り上げられなかったのは残念でならない。あの曲ほど、震災の時に励ましとなった曲はないほど…と、思うのに…)

 わたしは、あの震災を経験できたことは、個人的には幸いなことだったのだと思っている。
確かに辛い経験ではあったけれど、生きることだけに必死になれた日があったこと、ただ生かされていることに感謝できたこと、それらの経験は、したくてもできるものではない貴重な経験だったと思う。
 ただ、あの震災であまりにも多くのものを失われた人々のことを思う時、「震災に遭ったことは幸いでした」と、声に出して言えないものがある。

 それでもあの震災は、日本に、随分大きな影響を与えたのではないかと思う。
多くの人が、愛、勇気、助け合いについて学んだ。
そしてクリスチャンたちは何よりも、イエス様の癒しが必要であること、イエス様の救いが必要であることを痛感した。生き残ったわたしたちは、イエス様の愛を宣べ伝える責任があると…。

 わたしは、あの日を忘れない。
かみさまが、大地を揺り動かされた。
わたしの心を揺り動かされた。
そして、心のうちの揺り動かされないものを確信することができた。

 今、全世界で同じ痛みを味わっている人たちがいる。
もっともっと、耐え難い苦痛を味わっている人たちがいる。
自然災害もあれば、戦争やテロなどの人災もある。
それらの人のために、祈り続ける者でありたい。

 読み返してみると、書いていることはばらばらだ。
震災を通して教えられたことでさえない。ただ、記憶の断片を書き留めただけだ。
風化していきそうな、あの日の記憶…。
だからこそ、今書いておきたかったのでもあるけれど。
 わたしはあの日から何をしてきたか。
何を祈ってきたか。
もう一度、問い直すことから、始めたいと思う。
 誰かに読んでいただきたいと言うよりも、わたし自身の記録として、震災10年目の2005年1月17日に記す。
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by s_soranotori | 2005-01-17 00:00 | あの日を忘れない