あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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献身について

 ICFの「使徒的神学」のスレッドに書き込んだ記事ですが、他のサイトが転載してくださっているのだから、自分のサイトに来てくださった方にも読んでもらっても良いかな、とUPすることにしました。
 単独で掲載するため、一部訂正していますが、わかりにくい点もあるかもしれません。ご了承ください。
 元記事、また全体の流れが気になる方は、ICFのBBSでご確認ください。

 現在多くの教会、クリスチャンが「献身」という言葉を特別な人の、特別な召命、つまり牧師や、宣教師といった職業としての伝道者になることと考えておられる気がします。
 しかし、ローマ書に12章1節を見るなら、パウロは、教会の「兄弟たち」みんなに向かって語っていると思います。
「からだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる」ことが「霊的な礼拝」だと語っています。
それならば、現在、霊において主を礼拝する全ての者は、「献身」すべきなのではないかと思います。

 また、牧師の召命ですが、Ⅰテモテ3章1節を見るなら
「人がもし監督の職につきたいと思うなら」
とあります。
この場合の「監督」は現在の「牧師」と同じような働きを意味しますから、人が牧師になりたいと思う、つまり召命がなくても、意思によって目指すことは、よいことだと言われています。
 わたしは、特別な召命を受けて牧師になった人を否定するものではありませんし、Ⅰコリント12章を見るなら、神が、教会の中でそれぞれの奉仕に任命された、とありますから、それを受けた方が「特別の召命」と言われるのもわかります。
 ただ、いずれにしても、人が、どの奉仕をするか、またどのような職業に就くかは賜物と関係しているということはできると思います。

 しかし、弟子となることは誰にでもできます。
 わたしは、以前読んだある本の中に「使徒の働き29章を知っていますか」という文章を見たことがあります。
 それは、今、わたしたちがしている働きだ、とその本には書かれてありました。逆に言うと「あなたは今、使徒の働き28章に連なる働きをしているか?」と問われている気がします。
 また、マタイの28章、いわゆる宣教大命令には「いって、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とあります。
 特別な人を弟子として教育しなさい、といわれたのではないのです。
その意味で、全てのクリスチャンは主の弟子となるべきだと思います。

 わたしは救われて、バプテスマを受けるより先に献身しました(バプテスマの決心はしていました)。
 以前ある方にその話をすると、「それは、信徒献身ですね、伝道者としての献身はいつですか」
と聞かれたことがありますが、私は献身は1回だけしかしていません。
すべてをささげたのですから、1回しかささげられません。
 ただ、ささげたものを、その時、その時、神様が最善な方法で用いてくださっていると思っています。
また用いていただけるように、通りよき管でありたいと願っています。
 それまでの信徒としての歩みから、伝道者となるように、導かれた転機はあります。
神様は御言葉を通して、導き、背中を押してくださいました。
それを「召命」と呼ぶ方もあるのかもしれません。

 わたしは、救われた時に、多くの鎖から解き放たれました。
 わたしもクリスチャンになって最初の頃は、「こうあらねばならない」という鎖になお、縛られていましたが、今は、本当に自由にされました。

 聖書には色々な教えがありますから、色々な面で、バランスは必要だと思います。
 そのバランスの中で、人がもっと自由になって、もっと喜んで、もっとイエス様の似姿になっていけるといいな、と率直に感じます。

追加

 確かに、愛を、具体的な形で実践することはとても難しいです。
 自分が、どれほどのことをしているか、と省みるならわたしもまた、不肖の弟子、と言わざるを得ません。

 わたしは、あの人はこれだけのことをしている、とか、周りの同労者を見ると、自分が情けなくなりますし、反省もします。
落ち込むことさえあります。
 それでも、わたし自身、持病を持ちながら家庭と伝道の働きをしていると、その中で、「神様がわたしに期待されていることは何か」「今の私にできることは何か」と祈りつつ、何とかして、イエス様の似姿となりたいと願っています。

 やはり以前聞いたことですが、「不特定多数の『みんな』のために働くことは難しい。自分にゆだねられている特定の人のために、祈り働くことが必要だ」と。
 わたし自身も、わたしにゆだねられている人たちのために、しっかりと働いてゆきたいです。
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by s_soranotori | 2004-01-19 00:00 | 信仰・証し
 掲示板に、なぜカレンダーは日曜始まりが多いのか、という書込みがありましたので、こちらに、書かせて頂きます。
 実は、カレンダーは日曜始まりで正しいのです。日曜日は、週の初めの日です。
神様は、日曜日に創造の業を始められたのです。
 もともと、安息日というのは土曜日でした。ユダヤ教では今でも土曜日が安息日です。
 では、なぜクリスチャンは日曜日に礼拝するかというと、イエス・キリストが復活されたのが日曜日だからです。(マタイの福音書28章1節)(他にも理由がない訳ではないようですが、これが大きな根拠の一つであることに違いないと確信します)
 初代教会(特に初期の頃)の人々は、ユダヤ教徒が多く、もともとは土曜日に安息日を守っていた人々でしたが、イエス様の復活、昇天後、イエス様が復活された日に集まるようになっていきました。ただ、初代教会の人々はほとんど毎日のように集まって祈ったり賛美したり、福音をのべ伝えたり、という集会を持っていたようです。(使徒の働き2章46節、5章42節)。そういう意味では、日曜日しか、礼拝しちゃいけないという訳ではなく、最近都市部では、ニーズに合わせて、月曜礼拝、火曜礼拝など、週日にも礼拝日が設けられている教会もあります。
 また、クリスチャンの守っている礼拝はユダヤ教の「安息日」とは基本的に意味合いが違うので、混同しないように注意する必要があります。

 また、曜日の名前、つまり「日曜」「月曜」といった呼び名は、聖書とは直接関係がありません。もともと、週の始めの日、終わりの日、と言っていただけでした。多分、間の日は、週の第何日、とかだったのかもしれません。これはちょっと分かりませんでした。
 それぞれの曜日に名前を付けた起源は、古バビロニアにあるといわれています。それが、ユダヤ人を通してローマに伝わり、アングロサクソン族に伝わっていきました。細かい経緯は省きますが、曜日の名前はそれぞれ、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の神々の名前にちなんでつけられています。
 当然、キリスト教界は、当初、この占星術的、異教的背景を持つ名称の導入には慎重でした。が、ローマ時代に行われていた「太陽崇拝」がキリスト教の伝播と共に、「真の義の太陽であるキリスト」の礼拝に取って代わられるにつれ、「太陽」にキリスト教的意味づけがなされるようになりました。そして321年には、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世によって日曜日を休日とする法令が発布され、クリスチャンもこの頃から週の始めの日を「日曜日(太陽の日)と呼ぶことが受け入れられていったようです。

 日本にこの七曜の考えが入ってきたのは中国からですが、中国に伝わったのはキリスト教(景教=正統キリスト教会からは異端とされたネストリウス派は東方に伝わり、中国で景教と呼ばれるようになり、日本にも古くから伝えられていました)の影響です。日本にもこの景教を通して伝播したようです。

 ところで、この七曜という考え方は、1000年以上昔に、ヨーロッパと中国・日本に別々に伝わったにもかかわらず、全くずれはなく、ぴったりと合っていたそうです。確かに現在では全世界で同じ曜日が使用されていますが、これは国際化と共にあえてどこかで統一したのではなく、最初から全くずれていなかったということです。
 これも神様の摂理に基づいている故なのかな、と、今回調べている中で、改めて感じました。
 
 ついでにちょっと「西暦」のことについても触れておきましょう。
 現在使用されている「西暦」がはじめて提唱されたのはAD531年、イタリアの修道士ディオニュシウスによってでした。当時のキリスト教世界では、ずっとローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位の年(AD284年)が紀元年とされていました。つまりディオニュシウスがキリスト生誕紀元を提唱したAD531年というのは、当時の数え方では247年でした。ディオクレティアヌスといえば、ローマ帝国全土にわたるキリスト教迫害で非常に有名な皇帝なので、これを嫌って新しい年号を提唱したといわれています。A.D.とは、ラテン語で「我らが主の年」を意味する、Anno Dominiのことです。
 とはいえ、この年号が全世界に広まるには非常に時間がかかり、ヨーロッパやキリスト教国以外の世界にまで広がったのは13世紀頃だそうです。
 また、紀元前を表すB.C.とはBefore Christのことですが、こちらが使われるようになったのは、17世紀頃からだそうです。

 ただし、いずれにしても、ディオニシウスが計算していたキリストの誕生年は、3年程のずれがあり、現在では、キリストの誕生年はBC4年というのが定説になっています。
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by s_soranotori | 2004-01-06 00:00 | 雑学