あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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親子の関係

 うちの子は、親をとにかく喜ばせたい、褒められたい、そんな思いに溢れた子だ。
それが良いことなのか、悪いことなのか、わたしにはよくわからない。

 それで、親の顔色ばかりうかがうようになったりご機嫌を取るようになったり、また親の期待に応えなくちゃ、というプレッシャーに押しつぶされたりするのは困る、と思うけれど、ある意味では子供が親に褒められたいと思うのはごく普通のことでもある。

 こういう親子の関係って、信仰(神様との関係)にも通じるのではないかと思う。。

 親は、子供が何か良いことをしたから子供を愛するわけではない。
子供が何かをしなければ子供のことを喜ばないわけではない。
すでに、その存在そのものを愛しているし、喜んでいる。
しかし、子供が何か良いことをすればなお嬉しい。
そして子供は親に「よく頑張ったね」と褒められるととても嬉しい。

 これは、神様も同じなのではないかと思う。
 神様は実は、わたしたちが何かをしなければ喜ばない、という方ではない。
その存在だけですでに喜んでくださっている。
何かしたから余計に愛して下さるというわけでもない。
無条件に、そのすべてを受け入れて愛して下さっている。
でも、わたしたちが神様のご栄光を輝かせるとき、より喜んでくださるだろうと思うし、わたしたちは神様の喜ばれることをするのが嬉しい。

 こういう神様との良い関係を築くためにも、良い親子関係って、そのモデルになるものなのではないかと思う。

 牧師家庭に育った、ある若い牧師先生が言っておられた。
自分が子供のころ、たとえばお年玉をもらった時など、その中からたくさん献金をささげると親が褒めてくれた。その親の喜ぶ顔、また親にほめられるのが嬉しくてたくさん献金をささげた。
でも、ささげることを通して、神様の恵みを知るようになっていった時、自分から多くささげたいと思うようになった、と。

 なにも、これがベストの子育てと言うわけではないと思う。たまたまその家庭で成功した事例、と言うだけかもしれない。それでも、この証しから、わたしは子育ての大きなヒントをいただいた。

 いま、エルは、親にたくさんたくさん褒めてもらいたい。毎日、何度でも「愛しているよ」と言って欲しい。
ちょっと叱ると「もうエルちゃんのこと嫌いなの?」と聞かれるのには閉口するけれど、そうして何度も確かめて、いつも同じように受け入れられ、愛されていることを確認している。
子どもにとって、親の愛情も確かめないと不安になるのだと思わせられる。でもきっと、いつでも自分は受け入れられていると確信をもってくれる時が来るのだと思う。
そしてその時、自立が始まるのだと思う。

 信仰も同じ。
初めから、ゆるぎない信仰があればよいけれど、なかなかそうはいかない。
けれども、祈りの中で、信仰生活の中で、より深い神様の愛を知り、確信していくことで、今度はその愛の中で自由に、自立したクリスチャンとして歩むことができる。

 親子関係と、神様との関係が全く同じとはいかないけれど、教えられるところはずいぶん多いなあ、と思う。
子育てって奥が深い。
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by s_soranotori | 2007-06-29 15:13 | 育児

本質

 物事で大切なものは「本質」だなあ、と思う。
形式や、形、名前などではない。

 先日買ったセンティッドゼラニウム、そのお店のインターネットショップに出ていた名前と商品についてきたラベルの名前とが違っていた。
お店に問い合わせたところ、文献によって色々な名前が付けられており、どれが正しい、ということはないのだそう。

 その返事を見た時、ちょっとがっかりした。
わたしは正しい名前が知りたかったのに。
でもそれからハタと気がついた。名前が何であれ、ここにその花があるという事実は変わらない。名前が、「アンダーソニー」だろうが「アンダーソニア」だろうが、花の色は変わらない。
名前は人がつけたものだけど、花は神様が作られたものなのだ(人が多少改良を加えたとしても)。
 「名は体を表す」「名前は大事」確かに一面ではそれ正しい。
だからわたしたちは「イエス・キリストの名によって」祈る。
ただの「神様」ではなくて、「イエス・キリスト」という名前にこだわる。
けれど、大切なことは名前ではなく、「本質」なのだ。
いたずらに名を呼んでも、そこに信仰がなければ無意味だ。

 人は「本物」という言葉に弱い。
「本当の」「正しい」ものを求めている。
けれども、大切なことはその本質なのだと思う。

 「教会」や「礼拝」についても同じ。
世の中にはいろんな教会があって、いろんなスタイルの礼拝があって、「我こそは正統派だ」と人それぞれに信じている。
 でも、形式は人が作り出したもの。
聖書に書いてある本当の礼拝は「霊とまことによる礼拝」ただそれだけ(ヨハネ4章)。
そしてそれは自分自身を生きた供え物としてささげる礼拝(ローマ書12章)。
 イエス様の時代、礼拝は大聖堂ではなく、家から始まった。
もちろん、会堂でも人々は集まったけれど、むしろ、人々は家で集まっていたようだ。
人は、「教会」と言うとつい建物を想像してしまうけれど、当時の人々は今よりもっとシンプルに、神様を賛美し、聖餐式を行い、御言葉に耳を傾けていた。
それも土曜日(安息日)や日曜日(主の復活日)だけではなく、人々は毎日のように集まり、聖餐を分かち合っていた。
そこには本当の礼拝があった。

 わたしも、初代教会の人々のような、本当の礼拝がささげたいなあ、といつも思う。
頭では分かっていても、マリヤのようではなく、マルタのように、今日のスケジュールや、今週のスケジュールをあれこれ考えながらメッセージを聞いていたりする。
あるいは、「○○さんがお休みだけれど、体調崩されたかな?」なんて、(人のことを思いやるのは悪いことではないけれど)礼拝中に考えなくてもよいことを考えていたりする。

 美しい言葉で「日々主はそばにいまし」と賛美しているけれど、本当にわたしは、今日、神のそば近く歩んでいるか。今日、真の礼拝をささげているか。
今日、本当に神様に信頼して歩いているか。

matt: 7:21
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」

先日聞いた講義で、岸先生が、この個所を引用されて、「あなたは父のみこころを行っていると断言できますか?天国に入れますか?」と聞かれた。
 もちろんここで問われている、天国に入るために行わなければならない「みこころ」はただ一つ、「イエス・キリストを信じること(どう信じるかはここでは省略)」なのだけれど、広い意味で「神のみこころ」と言われると、わたし自身は「わたしはいつも神様のみこころを行っています」とはとても答えられない。
怠慢、高慢、怒り、妬み、リストアップすればきりがないほどに日々罪を犯しているわたしだ。
だからこそ、日々の悔い改めと、神様のみ声を聞くことが必要なのだ。
日曜日だけの礼拝者ではなく、日々の歩みの中で、イエス・キリストの真の礼拝者として、砕かれた心で歩む者となりたいと切に願う。

※この文章は、特定の教団・教派・教会およびその礼拝を否定、批判するものではなく、あくまでもわたし自身の個人的な思いであり内省であることをお断りしておきます。
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by s_soranotori | 2007-06-16 15:11 | 信仰・雑感