あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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 学生時代に書いたレポートの一部です。
映画「マリア」を見て、このレポートのことを思い出しましたので、懐かしくひっぱりだしました。
書いたのは、1990年の初めごろだと思います。
「福音書」という授業で、マルコの福音書とルカの福音書を学んだところで書いたレポートでしたので、主にこの二つの福音書よりの考察となっています。
(映画についてはこちらにレビューを書きました)
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1)マリヤは主に明け渡した
 わたしがマリヤのことを考える時の最も印象的な言葉として思い出すのはルカ1:38の御言葉です。
「本当に、わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
 マリヤはメシヤが来られることを知っていました。また神の御言葉に親しむことによって神を知っていました。そして神である主に深い尊敬の念を抱いていました。マリヤは神が、御自身を敬う者に対して恵み深くあられること、そして神が、この世的な権力を持っていない者たち、社会的地位の低い人々を通して働くのを好まれる方であることを知っていました。マリヤは社会的地位を持っていたでしょうか。富を持っていたでしょうか。答えは否です。あるいは神はそのような者であったからこそ、用いるべき器としてマリヤを選ばれたのかもしれないと思います。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」マリヤ自身のこの言葉はこの後、マリヤの生涯を通して証しされていくものとなっていきました。

2)マリヤは犠牲を払った
 マリヤは主の母という素晴らしい特権を受けながら、そうであればこそ、とも言うべき犠牲を払わねばなりませんでした。その中の一つはこの受胎告知の時以来起こったと言えるのではないでしょうか。
 マリヤはまだ婚約中でありながらその胎に子を宿したのです。周囲の人はいつ頃このことに気が付いたかはわかりませんが、おそらく人々が気付いた時、マリヤはその人々の心ない噂に傷ついたこともあったのではないでしょうか。その時マリヤはどうしたのでしょうか。ただ信仰をもって忍耐しているしかなかったのでしょうか。このことを想像すると本当にマリヤの献身的な信仰の姿勢に心を打たれます。またヨセフも聖書の他の個所(マタイ1:19,20)を参考にするなら、このことで思い悩んだことがわかります。たとえ一時ではあっても許婚にさえ疑われなければならないようなことがあったことは事実なのです。結果としてはヨセフも信仰によって、その純潔性において周囲の人々に疑問視されているマリヤをめとるという犠牲を払ったということができるのではないでしょうか。
 おそらくそのようなマリヤにとってエリサベツと共に過ごしたひと時は非常に慰めの多い時となったに違いありません。また、マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)に現れているマリヤの謙遜な信仰こそがマリヤの喜びと平安のすべての基となっているのではないかと思います。

3)母としてのマリヤ
 母としてのマリヤを見ていく時に印象に残る言葉は、
「しかしマリヤはこれらのことをすべて心に収めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)
「母はこれらのことをみな、心にとどめておいた。」(ルカ2:51)
といった言葉です。
 イエス様が、おそらく洞穴であったであろう家畜小屋でお生まれにならなければならないことは、たとえ預言によって知っていたとしても、キリストにふさわしい場所とは考えにくいことなのではないでしょうか。しかしその夜、奇跡は起こり、御使いの賛美は響き、羊飼いたちは礼拝しに来ました。マリヤは改めて自分の産んだ子がメシヤであることを確信し、感謝し、喜んだことでしょう。けれどもこのとき、マリヤは一体どんな気持ちで“心に納め”どんな“思いを巡らしていた“のでしょうか。こののち、エルサレムでシメオンに「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と言われた時、12歳のイエス様に「どうして、わたしをお捜しになったのですか。」と言われた時、どのようなことを感じ、何を思っていたのだろう、と思わずにいられません。
 やがて、メシヤとしての働きと宣教のために、自分の元を離れていくイエス様、それはもはや自分の息子ではないということを、どのように受け止めていったのでしょうか。

4)イエス様に従ったマリヤ
 信じる私たちにはとても感謝だけれども、イエス様の母マリヤにとってはとても辛い言葉だったのではないかと思う御言葉が一つあります。それはマルコ3:33-35です。
「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」
もし、私がマリヤなら、きっとつまずいてしまったのではないかと思うのです。けれど、マリヤはこのとき既に信じていたこと、イエス様がメシヤであるというその信仰によって、もはや、自分とイエス様は親子ではなく、メシヤとそれに従う者、という立場をはっきりと確信したのではないでしょうか。マリヤは福音書の後半においてあまり目立つ女性ではありません。その意味ではベタニヤのマリヤやマグダラのマリヤの方が目立つ存在と言えるかもしれません。けれども聖書の他の個所(ヨハネ19:25-27、使徒1:14)を見ると、マリヤはイエス様の十字架まで、また復活の証人として、イエス様の御足の跡に従ったことがわかります。たとえ、どんなに信仰深かったとしても、たとえ他人のようにさえなっていたとしても、御自分の産んだ一人の子が十字架につけられるのを見る母の心はどのようなものか、そこには想像だにできないものがあるのではないでしょうか。その十字架のもといおいて、マリヤの、その名の本当の意味「苦さ」を理解できるのではないでしょうか。
 マリヤは、救い主の母という、ある意味で最も素晴らしい特権に与りながら、最も辛い試練に遭った女性ということができるのではないでしょうか。
マリヤも人の子である以上罪人には違いないのですが、いつもマリヤについて学ぶ時、自分には到達し得ないほどの信仰の姿を教えられます。


結論
 今まで、マリヤについて、素晴らしい女性だと思いながら、ほとんど完璧な女性、自分にはとても到達できない女性、という思いが強かったのですが、今回学んだことを通して、マリヤの人間的な弱さ、悲しみ、信仰について教えられ、マリヤは決して到達できない女性ではなく、続けてわたしたちが信仰の良き模範とすべき女性と教えられました。
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by s_soranotori | 2007-12-30 02:49 | 聖書の人物
 2007年12月8日、教会学校クリスマス会でした。
と言っても、日頃教会学校に来ているのはエル一人、ということで、例年、礼拝に保護者の方と集っている子供さんや、よくエルが遊んでいるご近所のYちゃんを誘って細々とやっていました。
 以前は近くの小学校前でチラシを配ったりして、大々的に(?)やっていたようですが、今はスタッフもいなくてほとんどわたし一人でやっているので(当日手伝って下さる方はあるけど)、もう無理はしないでできることをやろう、と規模を思い切って縮小して、続けていたのでした。
 でも、今年はエルが幼児園のお友達を誘うというので、「まず、親御さんに許可をいただかなくては(未就学児のことなので送り迎えの問題もあるので)」と思い、最初に、以前からお母さんと連絡先の交換をしていたWちゃんと、同じクラスで教会の近くに住んでいるAちゃんのお母さんにお手紙を書きました。
そうしたらそこから話が広がって、結局、エルの幼児園から8人のお友達が来てくれ、合計10名の子供達でのクリスマス会となりました。例年来てくれているYちゃんが来られなかったり、教会関係の子供さんが来られなかったりした一方で、幼児園のお友達は、当初予定していなかった子や直前になってくることになった子の弟さん、またお母さんを知らないので直接声をかけていなかった子も来てくれて、感謝でした。
 実は中に、地域の子供クリスマス会とWブッキングしている子もいたようなのですが、お母さんの話では「どっちに行くの?」と聞いたら「エルちゃんの方」と言って、こちらに来てくれた子もあったようです。

 わたしは、見かけによらず(?)社交的でなく、今まで他のお母さんたちと挨拶ぐらいしかしたことがなかったのですが、今の幼児園に行くようになって2年半が過ぎ、ようやく子供を通して少しずついろんなお母さん方とコンタクトが取れるようになってきました。

 なにぶん、今まで(わたしが担当するようになってからは)教会の子供中心に細々とやってきた教会学校クリスマス会でしたので、今年、エルが「お友達を呼ぶ」と言いだして、「○○ちゃんも△△ちゃんも来たいって」と、どんどん話が広がるのを聞いて嬉しい半面「みんなに楽しんでもらうことができるだろうか」と不安もありました。
結局、賛美1曲、DVDでクリスマスストーリーを紹介し、もう1曲賛美し、ビンゴゲーム、ケーキタイム、アイロンビーズというプログラムでした。
本当は他にも予定していたことがあったのですが、さすがに10人の子供たち(8人のお友達に、エルと水曜日に来ているAちゃん)をまとめるのはなかなか難しく、時間がずれ込みそこまで手が回りませんでした。
アイロンビーズはここ3年ぐらい毎年やっていますが、子供達は大好きで、それまでとてもうるさかった子供たちが熱中してやっていました。
教会外からの子供たちにとってはクリスマスのお話などはどうでもよかったようですが、それでも全体的に、楽しんで帰ってもらえたようで、良かったです。

 本当はもっと福音的なことを伝えたいという思いもあるのですが、色々考えて、祈って、今の段階としては「教会は楽しいところ」という印象を持って帰ってもらうことを第一目標にして計画しました。そして今回はある程度その目標をクリアできたのではないかと思っています。
 クリスマスプレゼントの中にイエス様のことや教会のことを紹介する子供向けの小冊子を入れましたので、興味のある子供や親御さんがそれを見て下さればいいなあ、と思っています。
 また、教会とコンタクトができたことで、将来的にも、何かあった時に教会を思い出してもらえればいいなあ、と思っています。

 わたし自身は、期待と不安の中、精一杯準備しましたが、けっこうギリギリになってバタバタしてしまい、残念だったことは、ケーキタイムのケーキや持って帰ってもらうクリスマスプレゼントに入れるお菓子が、どうしても前夜に作ることができなかったことです。結局、朝3時起きして作り、直前まで時間と闘いながら袋詰をしていたのでした。
 でも寝ぼけ眼で作ったせいか、スポンジケーキの粉の配分を間違えて少しスポンジが固くなってしまったこと、ワッフルも何となく硬めの食感になってしまったのが悔やまれます。

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上は集会で食べたケーキ、下はプレゼントに持ち帰ってもらったお菓子です(15セット作りました)
クッキーは一つはカラースプレーチョコ、もう一つはドライアップル入りです。
プレゼントは他に小冊子、フェルトのクリスマスツリーなどを入れました。

 また、今年は教会からのスタッフがほとんど参加できなかったのですが、いつも陰で仕える働きをして下さっているI姉が来て下さり感謝でした。また先日、日記に書いたとおり、水曜日に来てくれているAちゃんと一緒にお母さんのM姉が来て下さり、本当に助かりました。
グイドも日曜日の準備で忙しい中、手伝ってくれて、これも本当に助かりました。
背後において祈って下さっていた方々の祈りにも感謝すると共に、その祈りに応えて助けの手を与えて下さった神様に感謝します。
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by s_soranotori | 2007-12-10 11:44 | 雑感