あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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 学生時代に書いたレポートの一部です。
映画「マリア」を見て、このレポートのことを思い出しましたので、懐かしくひっぱりだしました。
書いたのは、1990年の初めごろだと思います。
「福音書」という授業で、マルコの福音書とルカの福音書を学んだところで書いたレポートでしたので、主にこの二つの福音書よりの考察となっています。
(映画についてはこちらにレビューを書きました)
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1)マリヤは主に明け渡した
 わたしがマリヤのことを考える時の最も印象的な言葉として思い出すのはルカ1:38の御言葉です。
「本当に、わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
 マリヤはメシヤが来られることを知っていました。また神の御言葉に親しむことによって神を知っていました。そして神である主に深い尊敬の念を抱いていました。マリヤは神が、御自身を敬う者に対して恵み深くあられること、そして神が、この世的な権力を持っていない者たち、社会的地位の低い人々を通して働くのを好まれる方であることを知っていました。マリヤは社会的地位を持っていたでしょうか。富を持っていたでしょうか。答えは否です。あるいは神はそのような者であったからこそ、用いるべき器としてマリヤを選ばれたのかもしれないと思います。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」マリヤ自身のこの言葉はこの後、マリヤの生涯を通して証しされていくものとなっていきました。

2)マリヤは犠牲を払った
 マリヤは主の母という素晴らしい特権を受けながら、そうであればこそ、とも言うべき犠牲を払わねばなりませんでした。その中の一つはこの受胎告知の時以来起こったと言えるのではないでしょうか。
 マリヤはまだ婚約中でありながらその胎に子を宿したのです。周囲の人はいつ頃このことに気が付いたかはわかりませんが、おそらく人々が気付いた時、マリヤはその人々の心ない噂に傷ついたこともあったのではないでしょうか。その時マリヤはどうしたのでしょうか。ただ信仰をもって忍耐しているしかなかったのでしょうか。このことを想像すると本当にマリヤの献身的な信仰の姿勢に心を打たれます。またヨセフも聖書の他の個所(マタイ1:19,20)を参考にするなら、このことで思い悩んだことがわかります。たとえ一時ではあっても許婚にさえ疑われなければならないようなことがあったことは事実なのです。結果としてはヨセフも信仰によって、その純潔性において周囲の人々に疑問視されているマリヤをめとるという犠牲を払ったということができるのではないでしょうか。
 おそらくそのようなマリヤにとってエリサベツと共に過ごしたひと時は非常に慰めの多い時となったに違いありません。また、マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)に現れているマリヤの謙遜な信仰こそがマリヤの喜びと平安のすべての基となっているのではないかと思います。

3)母としてのマリヤ
 母としてのマリヤを見ていく時に印象に残る言葉は、
「しかしマリヤはこれらのことをすべて心に収めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)
「母はこれらのことをみな、心にとどめておいた。」(ルカ2:51)
といった言葉です。
 イエス様が、おそらく洞穴であったであろう家畜小屋でお生まれにならなければならないことは、たとえ預言によって知っていたとしても、キリストにふさわしい場所とは考えにくいことなのではないでしょうか。しかしその夜、奇跡は起こり、御使いの賛美は響き、羊飼いたちは礼拝しに来ました。マリヤは改めて自分の産んだ子がメシヤであることを確信し、感謝し、喜んだことでしょう。けれどもこのとき、マリヤは一体どんな気持ちで“心に納め”どんな“思いを巡らしていた“のでしょうか。こののち、エルサレムでシメオンに「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と言われた時、12歳のイエス様に「どうして、わたしをお捜しになったのですか。」と言われた時、どのようなことを感じ、何を思っていたのだろう、と思わずにいられません。
 やがて、メシヤとしての働きと宣教のために、自分の元を離れていくイエス様、それはもはや自分の息子ではないということを、どのように受け止めていったのでしょうか。

4)イエス様に従ったマリヤ
 信じる私たちにはとても感謝だけれども、イエス様の母マリヤにとってはとても辛い言葉だったのではないかと思う御言葉が一つあります。それはマルコ3:33-35です。
「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」
もし、私がマリヤなら、きっとつまずいてしまったのではないかと思うのです。けれど、マリヤはこのとき既に信じていたこと、イエス様がメシヤであるというその信仰によって、もはや、自分とイエス様は親子ではなく、メシヤとそれに従う者、という立場をはっきりと確信したのではないでしょうか。マリヤは福音書の後半においてあまり目立つ女性ではありません。その意味ではベタニヤのマリヤやマグダラのマリヤの方が目立つ存在と言えるかもしれません。けれども聖書の他の個所(ヨハネ19:25-27、使徒1:14)を見ると、マリヤはイエス様の十字架まで、また復活の証人として、イエス様の御足の跡に従ったことがわかります。たとえ、どんなに信仰深かったとしても、たとえ他人のようにさえなっていたとしても、御自分の産んだ一人の子が十字架につけられるのを見る母の心はどのようなものか、そこには想像だにできないものがあるのではないでしょうか。その十字架のもといおいて、マリヤの、その名の本当の意味「苦さ」を理解できるのではないでしょうか。
 マリヤは、救い主の母という、ある意味で最も素晴らしい特権に与りながら、最も辛い試練に遭った女性ということができるのではないでしょうか。
マリヤも人の子である以上罪人には違いないのですが、いつもマリヤについて学ぶ時、自分には到達し得ないほどの信仰の姿を教えられます。


結論
 今まで、マリヤについて、素晴らしい女性だと思いながら、ほとんど完璧な女性、自分にはとても到達できない女性、という思いが強かったのですが、今回学んだことを通して、マリヤの人間的な弱さ、悲しみ、信仰について教えられ、マリヤは決して到達できない女性ではなく、続けてわたしたちが信仰の良き模範とすべき女性と教えられました。
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# by s_soranotori | 2007-12-30 02:49 | 聖書の人物
 2007年12月8日、教会学校クリスマス会でした。
と言っても、日頃教会学校に来ているのはエル一人、ということで、例年、礼拝に保護者の方と集っている子供さんや、よくエルが遊んでいるご近所のYちゃんを誘って細々とやっていました。
 以前は近くの小学校前でチラシを配ったりして、大々的に(?)やっていたようですが、今はスタッフもいなくてほとんどわたし一人でやっているので(当日手伝って下さる方はあるけど)、もう無理はしないでできることをやろう、と規模を思い切って縮小して、続けていたのでした。
 でも、今年はエルが幼児園のお友達を誘うというので、「まず、親御さんに許可をいただかなくては(未就学児のことなので送り迎えの問題もあるので)」と思い、最初に、以前からお母さんと連絡先の交換をしていたWちゃんと、同じクラスで教会の近くに住んでいるAちゃんのお母さんにお手紙を書きました。
そうしたらそこから話が広がって、結局、エルの幼児園から8人のお友達が来てくれ、合計10名の子供達でのクリスマス会となりました。例年来てくれているYちゃんが来られなかったり、教会関係の子供さんが来られなかったりした一方で、幼児園のお友達は、当初予定していなかった子や直前になってくることになった子の弟さん、またお母さんを知らないので直接声をかけていなかった子も来てくれて、感謝でした。
 実は中に、地域の子供クリスマス会とWブッキングしている子もいたようなのですが、お母さんの話では「どっちに行くの?」と聞いたら「エルちゃんの方」と言って、こちらに来てくれた子もあったようです。

 わたしは、見かけによらず(?)社交的でなく、今まで他のお母さんたちと挨拶ぐらいしかしたことがなかったのですが、今の幼児園に行くようになって2年半が過ぎ、ようやく子供を通して少しずついろんなお母さん方とコンタクトが取れるようになってきました。

 なにぶん、今まで(わたしが担当するようになってからは)教会の子供中心に細々とやってきた教会学校クリスマス会でしたので、今年、エルが「お友達を呼ぶ」と言いだして、「○○ちゃんも△△ちゃんも来たいって」と、どんどん話が広がるのを聞いて嬉しい半面「みんなに楽しんでもらうことができるだろうか」と不安もありました。
結局、賛美1曲、DVDでクリスマスストーリーを紹介し、もう1曲賛美し、ビンゴゲーム、ケーキタイム、アイロンビーズというプログラムでした。
本当は他にも予定していたことがあったのですが、さすがに10人の子供たち(8人のお友達に、エルと水曜日に来ているAちゃん)をまとめるのはなかなか難しく、時間がずれ込みそこまで手が回りませんでした。
アイロンビーズはここ3年ぐらい毎年やっていますが、子供達は大好きで、それまでとてもうるさかった子供たちが熱中してやっていました。
教会外からの子供たちにとってはクリスマスのお話などはどうでもよかったようですが、それでも全体的に、楽しんで帰ってもらえたようで、良かったです。

 本当はもっと福音的なことを伝えたいという思いもあるのですが、色々考えて、祈って、今の段階としては「教会は楽しいところ」という印象を持って帰ってもらうことを第一目標にして計画しました。そして今回はある程度その目標をクリアできたのではないかと思っています。
 クリスマスプレゼントの中にイエス様のことや教会のことを紹介する子供向けの小冊子を入れましたので、興味のある子供や親御さんがそれを見て下さればいいなあ、と思っています。
 また、教会とコンタクトができたことで、将来的にも、何かあった時に教会を思い出してもらえればいいなあ、と思っています。

 わたし自身は、期待と不安の中、精一杯準備しましたが、けっこうギリギリになってバタバタしてしまい、残念だったことは、ケーキタイムのケーキや持って帰ってもらうクリスマスプレゼントに入れるお菓子が、どうしても前夜に作ることができなかったことです。結局、朝3時起きして作り、直前まで時間と闘いながら袋詰をしていたのでした。
 でも寝ぼけ眼で作ったせいか、スポンジケーキの粉の配分を間違えて少しスポンジが固くなってしまったこと、ワッフルも何となく硬めの食感になってしまったのが悔やまれます。

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上は集会で食べたケーキ、下はプレゼントに持ち帰ってもらったお菓子です(15セット作りました)
クッキーは一つはカラースプレーチョコ、もう一つはドライアップル入りです。
プレゼントは他に小冊子、フェルトのクリスマスツリーなどを入れました。

 また、今年は教会からのスタッフがほとんど参加できなかったのですが、いつも陰で仕える働きをして下さっているI姉が来て下さり感謝でした。また先日、日記に書いたとおり、水曜日に来てくれているAちゃんと一緒にお母さんのM姉が来て下さり、本当に助かりました。
グイドも日曜日の準備で忙しい中、手伝ってくれて、これも本当に助かりました。
背後において祈って下さっていた方々の祈りにも感謝すると共に、その祈りに応えて助けの手を与えて下さった神様に感謝します。
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# by s_soranotori | 2007-12-10 11:44 | 雑感

チェーンメールについて

 今日、携帯に変なチェーンメールが来ていました。
子どもに関する事件についての警告だったのですが、「こんなことが本当に起こっているのならニュースになっているだろう」というような内容でした。
また「できるだけ広めて下さい」というようなメールは、内容の如何にかかわらず、それだけでもうネットマナー違反であることを知ってほしいと思います。
 困ったことに発信者のメールアドレスに心当たりがないのです。
「あなたは誰ですか、こんなことはやめて下さい」と抗議したい気持ちもあるのですが、誰かわからない人にメールを返送する不安もあり、とりあえずは無視しています。
しかし、わたしのアドレスが、「Cc」で複数の人の手元に送られていることにも憤りを感じています。困ったものです。
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# by s_soranotori | 2007-10-01 00:56 | 雑感

「死」と向き合う

 友人がブログで「健康であること」とても感謝していました。「健康であることは一番幸せだ」と。
では、健康でない人、持病やチャレンジ(障害)をもっている人が幸せでないのか、というのは愚問。彼女が言いたいのはそういうことではなく、彼女は3年前に死ぬほどの大病をした、その経験の中から、現在本当に健康と言える状態に回復したことを実感として「幸せだ」と表現したのだと思います。

 また今年も、誕生日が近付いています。
ホスピスで有名な柏木哲夫先生が「誕生日には『死』について考えなさい」と言っておられたのを思い出します。最近も「死」と向き合う出来事があって、「生かされている」ということへの感謝を改めて感じましたし、「だからこそ、生かされている間、精一杯生きよう」との思いも新たにしました。

 「歌声ペトラ南近江」の立ち上げは、わたしにとって大いに体験的な学びの時となりました。
 先日、友人のコメントへのレスにも書きましたが、わたしは、神様の歯車の一つに過ぎませんでした。誰の力でもない、神様の時に「カチッ」という音がして歯車がかみ合い、すべてが回り始めた、そんな感じでした。
「神様の時、神様の御業」だったのです。
 わたし自身の結婚についても、ちょうどそのような摂理があったと、いつも思い返します。
 先日、ある方と話をしていて、いくつかの出来事に話が及んだとき、その姉妹が「わたしが○○こう進言したました」「わたしは△△先生にこうお願いしました」と何度となく言われたのが気になりました。
その方は、「自分が言ったから実現した」とおっしゃるつもりはなかったと思いますが、自分がそれらの出来事の実現にかかわったことを主張したいのだな、と感じました。
もちろん、その方の言葉や祈りが何の影響もなかったとは思いませんが、その時話したいくつかの出来事は、その方の言葉だけで動くような事柄ではなかったと思います。
その背後にはもっと大きな神様の摂理があったと思います。
今回のわたしと同じように、その方もきっとその時、神様の歯車の一つだったのでしょう。

 今、わたし達にはいろいろと思うことがあります。
本当に多くのことを思います。例えばエルの進路一つにとっても、それはエル自身の考えることだと思いつつ、「ああもなって欲しい、こうもなって欲しい」と様々に考えてしまいます。
けれども、その背後にもきっと神様の摂理が働いて下さることと思います。
きっとエルの人生にも歯車が「カチッ」とかみ合う時が来るのだろう、と思うのです。
 またわたし達自身についてもそうです。
自分から何かを動かそうと思わなくても、「その時」が来れば、歯車が回りだす…そんなふうに思えるようになりました。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29章11節


あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇27編5節


神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3章11節


 好きな聖書の言葉はたくさんありますが、中でも、今までに何度となく支えられてきた御言葉です。
わたしは神様のされることのすべてを知ることはできませんが、わたしの主であるイエス・キリストは、すべてのことを最善に導いて下さると信頼しています。
今までもそうして下さいましたし、これからもそうして下さるでしょう。

 そう思いつつも、たびたび思い煩ってしまう愚かな者です。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
マタイの福音書6章34節


 神様の御言葉はいつも真実であることを感謝します。
だから、わたしは生かされている間、ベストを尽くして生きていきたいと思います。
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# by s_soranotori | 2007-09-08 03:31 | 信仰・雑感

夫婦喧嘩(?)

 昨日、今日、グイドとたくさん話し合いました。(日付はもう14日になっているけれど、わたしの感覚はまだ13日)
最初、わたしはグイドの言うことに納得いっていなかったのだけれど、お友達のブログを読んでいて、なんとなくだけれど、グイドの言っていたことがわかりかけてきたような気がします。
お友達が書いていた内容は、全然違うことなのですが…。

 グイドには、わたしの消極的な点、それから満足しない心について、随分指摘を受けました。

 とにかく、ありのままのわたしを見て、人がどう思うか、それはまあ、確かに配慮も必要なのかもしれないけど、まず第一に大切なことは、「わたしは神様の喜ばれることをしたいです」ということ。
それを見て、妬んだり裁いたりする人がいるならもしかしたらそれは、わたしの訓練ではなくて、その人の訓練なのかもしれないということ…。
グイドが言っていたことを思い返しながら、今そんな風に思っています。

 …でも、あまりうまく言葉にはなりません。
言葉にする必要はないのかもしれないけど。
とにかく、わたしはわたし。
開き直るのではなく、わたしはわたしとイエス様の関係の中で、悔い改めることを悔い改めて、従うことを従う…そういうことを教えられました。

 わたしたち夫婦はまだまだ未熟なので、ぶつかってぶつかって、なかなか分かり合えなくて辛いこともあるけれど、間にいてくださるイエス様がとりなして下さって、結局落ち着くところに落ち着きます。

 今回の喧嘩(本当は喧嘩でもないのだけれど)を通して、神様が男性に与えられた賜物、女性の特質、そんなことも色々考えました。
わたしは基本的に配偶者のことを「夫」と言いますし、書きます。
「主人」という言葉はほとんど使いません。
それは、人権的に、特にこの日本では男性社会だった時代があり、女性が男性と平等の権利を勝ち取るために闘わなければならなかった、そういう歴史を踏まえての思いからのことです。
 けれども、一方で、聖書は、男性と女性を平等に扱いながらも、やはり男性にはリーダーシップの賜物を与えておられるし、家の中で「主人」として必要な知恵や力を与えてくださっているとつくづく思います。
一般社会ではやっぱり「夫」と呼びますが、実はクリスチャンとしては夫のことを「主人」と呼ぶことに抵抗はないのです。
 歳も、信仰歴も、わたしより若い主人ですが、尊敬に値する人を配偶者として持てたことを感謝しています。
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# by s_soranotori | 2007-08-14 03:23 | 信仰・雑感

神様からの取扱い

 ここ数日、とても落ち込んでいた。
いや、落ち込んでいたというのではないけれど、考え、祈り、考え、祈り…。
深いところをさまよっていた。
それで書いたのが、7月23日の日記だった。

 それを読んだ、ある人から、「神様の働きをバリバリしているのを、羨ましく思ってた」と言われた。
 確かに、日記を読んでいるとそう見えるかもしれない。いや、むしろそう見せていたのかもしれない。
けれども、本当は生ぬるくて、自分でも情けない状態だった。
愛がない。
人を裁いてばかり。
用いられている人を見ては 羨ましくなって…。
昔よく、「牧師同士でもよその教会が大きくなると妬むことがある」と言うような話を聞かされたけど、同じ過ちに陥っていた。大きく用いられている人を見ると羨ましく、いや妬ましく見ていたのだ。
そのくせ、何も努力をしようとせず、ただ人の目を気にして、内にこもって、じっと身をひそめて自分を守っているだけの者だったのだ。

 霊的な状態がいい時にはちゃんと受け止められる。
人にはそれぞれの場所があるのだ、と。
確かに、わたしも、いろんな教会や集会で賛美させてもらったり、よその教会でもメッセージさせてもらったり、 分不相応に用いられていると、畏れ多くなる。

 でも、霊的状態が悪くなると「自分」が前に出て、自分が栄光を受けたくなってしまう。
もともと女優を目指していたぐらいだから、肉の性質としてそういうのが強く残っているのだと思う。

 だから事あるごとに、思い起こして、悔い改めて、ささげなおさなければならないのだ。
自我をささげるというのか…、明け渡す、という方が適切かもしれない。
そういう悔い改めは折に触れて必要なのだと思う。

 今回のコトの発端は、ある教会にお招きを受けたことだった。

 最初、その教会にはわたしは一緒に行かないことになっていた。特に奉仕のご依頼もなかったし、父も証しだけのご奉仕ということだったので、わたしが行かなくても大丈夫だと思っていた。
もちろん、証しだけのご奉仕でも、遠方や特別なことがない限りほとんどはサポートのために父と同行している。けれども、その日はわたしの属している教会も特別伝道集会なので、わたしが教会をあけるわけにはいかず、両親だけで行ってもらう予定をしていた。
 ところが、最近になって、先方から
「一緒に来て下さるんですよね」と確認してこられ、
「いや…、その日は行けないんです」というと
「賛美してもらいたかった」と、とても残念がられた。
その言葉を聞くと、わたしの中で「賛美したい」という思いが強くなって、行けないことにすごくがっかりした。
けれども、一番がっかりしたのはその教会に行けなかったことではなく、がっかりした自分自身に対してだった。
わたしはどこに召されているのか、まず一番に仕える場所はどこなのか、それを考えたら、迷ったりがっかりしたりするはずない、と思ったからだ。
わたしは、人前で「賛美」ではなくて「歌」を歌いたかっただけなのだ。そう気付いて自分で自分にがっかりした。
わたしは神の栄光ではなく、自分の栄光を求めていたのだ。

 実は今年の2月に父がご奉仕させて頂いたある集会でも、わたしも一緒にお招きを受けたのだけれど、教会総会と重なっていたのでわたしは一緒にうかがうことができなかった。
その時のことも引きずっていたので、何重にもがっかりしたのだと思う。
つまり、前にも賛美させていただく機会を失ったことに対するがっかり、そしてそれにこだわっていた自分に対するがっかり、そして今回のがっかり…。

 それらのことに気付かされ、がっかりの中から23日24日と、神様を見上げて祈って、ゆだねて、わたしが召されている教会をさらに愛し、そこでしっかり主に仕えさせていただこう、と改めて思い至ることができた。
賛美も、決して自分が前に出て、自分が栄光を受けるためではなく、神様の必要とされる時に、ただ神様のご栄光のためだけにさせていただけるように、わたしが本当の賛美をささげることができるようにと、改めて心から願い、祈った。

 そこから新たな展開が始まった。 
まず24日の夜、ある教会の先生から、「秋の特伝の日に賛美をお願いします」と言われた。
そして今日、件の教会の方が打ち合わせに来られて、どうしてもわたしに一緒に来て賛美してほしいので、それに合わせて日程を変更させてもらえないか、と言って下さった。

 神様のなさることに、畏れを覚えた。
神様は、間違ったところに陥っていたわたしを砕いて下さったのだ。
より深い罪に陥らないように、守り、導き、教えて下さったのだ。
その上で、賛美の機会を与えて下さった…。
わたしが間違った心のまま賛美することがないように、導いて下さったのだ。
そう思うと本当に、こんなわたしを、神様が用いようとして下さることがなお不思議でならない。
本当にわたしは未熟な、あかんたれなのに…。

 わたしは、また繰り返し同じところに陥るだろう。
もちろん、そうしたくはないし、そうならないように努力もしよう。
けれども、わたしの肉の弱さは、きっと同じことを繰り返すだろう。
こんなわたしの弱さを、イエス様はすべて御存じなのだ。
わたしのすべての弱さ、愚かさを知られていることは何とも恥ずかしいことだ。
けれども、それをすべて御存じの上で、なおわたしを愛し、導き、時に矯正して、用いてくださることは、それ以上に大きな喜びであり、神様に感謝せずにはいられない。

 「わたしを用いてください」と願うことは、大それた不遜な祈りなのかもしれない。
自分の中に用いていただける何か良いことがあるとでも思っているかのようだ。
確かに、わたしから生まれるものにはなにも良いものはない。
けれども、主はわたしを「よいもの」として作って下さった。
以前も引用した三浦綾子さんの言葉によれば、神様は役に立たないものをおつくりになられるほど愚かではない、とのことだ。
いや、以前は役に立たないものであったかもしれないわたしは、主にあって新しく生まれ、真に「オネシモ(★)」とならせていただくことができるのだ。


 どうか何度でも、道から迷い出るわたしを主が連れ戻して下さいますように。
同じところをぐるぐる回る愚かな者でも、螺旋階段のように、少しずつ高みへと引き上げてくださいますように。
わたしを、真の賛美へと導いて下さいますように。たとえそれができなくても、少しずつでも真の賛美に近付いていくことができますように。
いつでもわたしが、賛美だけでなく、喜んですべてのものを主の御前に差し出すことができますように。
どうか、主の御栄光のみが輝きますように。
わたしではなく、主の御名が高められますように。



★「オネシモ」
聖書の「ピレモンへの手紙」に出てくる、ピレモンの元奴隷。
ピレモンのものを盗んだか何か、大きな損害を与えてピレモンのところを逃げ出したが、ローマでパウロに出会い、改心し、イエス・キリストを信じる者となった。
「オネシモ」とは「有益な」という意味。
彼は、その書簡の中で、パウロに

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」と書かれている。
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# by s_soranotori | 2007-07-25 23:59 | 信仰・証し

なりたい夢となれる夢


 昔、中島みゆきの「あわせ鏡」という歌の中に出てきた言葉、
   「なりたい夢となれる夢とが本当はちがうことくらい
    わかってるから鏡みるとき芝居してるのよ」
「なりたい夢となれる夢」その言葉が心に残っていた。

 単なるあきらめということではなく、人にはやはり、ふさわしい歩みや可能な歩みと言うものがある。
極端にいえば、わたしが今からディズニーのプリンセスものに出てくるような「お姫様」になりたいと言っても無理な話。
「願っていれば、祈っていれば、すべては可能になる」と思いたいけれど、現実はそうではない。

 わたしはつい、周りを見て、「ああもなりたい、こうもなりたい」と願ってはそうなれないことに落ち込んでしまう。

 そうではなく、神様がわたしに望んでおられることは何なのか、わたしの「なれる夢」「なるべき夢」は何なのか、と思う。

 わたしの居場所は神様のそば。それは分かっているけれど、この社会の中ではどこにいれば良いのか、時として見失ってしまうことがある。
そんなとき、周りを見ないで、静まって、神様と向き合おう。
 わたしは、学歴もない、特別な教育も受けてはいない。知らないこと、できないことだらけだ。
それでも、神様がわたしに与えて下さったものは「充分」なのだ。わたしは十分に充たされているのだ。
そしてそんなわたしを、神様は用いてくださる。

 人前で歌ったり、語ったりした後に限って、コンプレックスにさいなまれ、荒野に退いてしまいたくなる。ちょうど450人のバアルの預言者と対決した後のエリヤのように(もちろんわたしはそんなに大きな器ではないが)。
心弱くなったわたしは、すべてのことから逃げ出してしまいたくなる。
他のすべての人が偉大に見える。
自分は小さくなんの力もない人間に思えてくる。
 けれどもそんなわたしを、主は細き御声をもって再び呼び出される。
主はいったいわたしが何者だというので、わたしを顧みてくださるのでしょう。

 神様を仰ぎ見、信頼するとき、「なれる夢」いや、「ならせてくださる夢」が「なりたい夢」になる。
わたしの願うところではなく、主の御心のままに、と。

 人を見ないで、神を見ることはわたしにとって簡単なことではない。
元来わたしは人に褒められたい、自己表現欲求、自己実現欲求の非常に強い人間だ。
そうして、周りの人を見て、自分にないものを求めて、自分にできないことを追って、落ち込んで弱り果てる。
だからこそ、神様はわたしにすべてをささげるようにと導いておられる。
すべてを明け渡した時に、見えてくるものがあるよ、と。

 主よ、わたしは心の貧しい者です。
 主よ、わたしは愚かな者です。
 それでも、あなたの前に、よりよきものとなりたいのです。
 あなたの御心を、わたしの「夢(Vision)」として下さい。
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# by s_soranotori | 2007-07-05 13:50 | 信仰・雑感

親子の関係

 うちの子は、親をとにかく喜ばせたい、褒められたい、そんな思いに溢れた子だ。
それが良いことなのか、悪いことなのか、わたしにはよくわからない。

 それで、親の顔色ばかりうかがうようになったりご機嫌を取るようになったり、また親の期待に応えなくちゃ、というプレッシャーに押しつぶされたりするのは困る、と思うけれど、ある意味では子供が親に褒められたいと思うのはごく普通のことでもある。

 こういう親子の関係って、信仰(神様との関係)にも通じるのではないかと思う。。

 親は、子供が何か良いことをしたから子供を愛するわけではない。
子供が何かをしなければ子供のことを喜ばないわけではない。
すでに、その存在そのものを愛しているし、喜んでいる。
しかし、子供が何か良いことをすればなお嬉しい。
そして子供は親に「よく頑張ったね」と褒められるととても嬉しい。

 これは、神様も同じなのではないかと思う。
 神様は実は、わたしたちが何かをしなければ喜ばない、という方ではない。
その存在だけですでに喜んでくださっている。
何かしたから余計に愛して下さるというわけでもない。
無条件に、そのすべてを受け入れて愛して下さっている。
でも、わたしたちが神様のご栄光を輝かせるとき、より喜んでくださるだろうと思うし、わたしたちは神様の喜ばれることをするのが嬉しい。

 こういう神様との良い関係を築くためにも、良い親子関係って、そのモデルになるものなのではないかと思う。

 牧師家庭に育った、ある若い牧師先生が言っておられた。
自分が子供のころ、たとえばお年玉をもらった時など、その中からたくさん献金をささげると親が褒めてくれた。その親の喜ぶ顔、また親にほめられるのが嬉しくてたくさん献金をささげた。
でも、ささげることを通して、神様の恵みを知るようになっていった時、自分から多くささげたいと思うようになった、と。

 なにも、これがベストの子育てと言うわけではないと思う。たまたまその家庭で成功した事例、と言うだけかもしれない。それでも、この証しから、わたしは子育ての大きなヒントをいただいた。

 いま、エルは、親にたくさんたくさん褒めてもらいたい。毎日、何度でも「愛しているよ」と言って欲しい。
ちょっと叱ると「もうエルちゃんのこと嫌いなの?」と聞かれるのには閉口するけれど、そうして何度も確かめて、いつも同じように受け入れられ、愛されていることを確認している。
子どもにとって、親の愛情も確かめないと不安になるのだと思わせられる。でもきっと、いつでも自分は受け入れられていると確信をもってくれる時が来るのだと思う。
そしてその時、自立が始まるのだと思う。

 信仰も同じ。
初めから、ゆるぎない信仰があればよいけれど、なかなかそうはいかない。
けれども、祈りの中で、信仰生活の中で、より深い神様の愛を知り、確信していくことで、今度はその愛の中で自由に、自立したクリスチャンとして歩むことができる。

 親子関係と、神様との関係が全く同じとはいかないけれど、教えられるところはずいぶん多いなあ、と思う。
子育てって奥が深い。
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# by s_soranotori | 2007-06-29 15:13 | 育児

本質

 物事で大切なものは「本質」だなあ、と思う。
形式や、形、名前などではない。

 先日買ったセンティッドゼラニウム、そのお店のインターネットショップに出ていた名前と商品についてきたラベルの名前とが違っていた。
お店に問い合わせたところ、文献によって色々な名前が付けられており、どれが正しい、ということはないのだそう。

 その返事を見た時、ちょっとがっかりした。
わたしは正しい名前が知りたかったのに。
でもそれからハタと気がついた。名前が何であれ、ここにその花があるという事実は変わらない。名前が、「アンダーソニー」だろうが「アンダーソニア」だろうが、花の色は変わらない。
名前は人がつけたものだけど、花は神様が作られたものなのだ(人が多少改良を加えたとしても)。
 「名は体を表す」「名前は大事」確かに一面ではそれ正しい。
だからわたしたちは「イエス・キリストの名によって」祈る。
ただの「神様」ではなくて、「イエス・キリスト」という名前にこだわる。
けれど、大切なことは名前ではなく、「本質」なのだ。
いたずらに名を呼んでも、そこに信仰がなければ無意味だ。

 人は「本物」という言葉に弱い。
「本当の」「正しい」ものを求めている。
けれども、大切なことはその本質なのだと思う。

 「教会」や「礼拝」についても同じ。
世の中にはいろんな教会があって、いろんなスタイルの礼拝があって、「我こそは正統派だ」と人それぞれに信じている。
 でも、形式は人が作り出したもの。
聖書に書いてある本当の礼拝は「霊とまことによる礼拝」ただそれだけ(ヨハネ4章)。
そしてそれは自分自身を生きた供え物としてささげる礼拝(ローマ書12章)。
 イエス様の時代、礼拝は大聖堂ではなく、家から始まった。
もちろん、会堂でも人々は集まったけれど、むしろ、人々は家で集まっていたようだ。
人は、「教会」と言うとつい建物を想像してしまうけれど、当時の人々は今よりもっとシンプルに、神様を賛美し、聖餐式を行い、御言葉に耳を傾けていた。
それも土曜日(安息日)や日曜日(主の復活日)だけではなく、人々は毎日のように集まり、聖餐を分かち合っていた。
そこには本当の礼拝があった。

 わたしも、初代教会の人々のような、本当の礼拝がささげたいなあ、といつも思う。
頭では分かっていても、マリヤのようではなく、マルタのように、今日のスケジュールや、今週のスケジュールをあれこれ考えながらメッセージを聞いていたりする。
あるいは、「○○さんがお休みだけれど、体調崩されたかな?」なんて、(人のことを思いやるのは悪いことではないけれど)礼拝中に考えなくてもよいことを考えていたりする。

 美しい言葉で「日々主はそばにいまし」と賛美しているけれど、本当にわたしは、今日、神のそば近く歩んでいるか。今日、真の礼拝をささげているか。
今日、本当に神様に信頼して歩いているか。

matt: 7:21
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」

先日聞いた講義で、岸先生が、この個所を引用されて、「あなたは父のみこころを行っていると断言できますか?天国に入れますか?」と聞かれた。
 もちろんここで問われている、天国に入るために行わなければならない「みこころ」はただ一つ、「イエス・キリストを信じること(どう信じるかはここでは省略)」なのだけれど、広い意味で「神のみこころ」と言われると、わたし自身は「わたしはいつも神様のみこころを行っています」とはとても答えられない。
怠慢、高慢、怒り、妬み、リストアップすればきりがないほどに日々罪を犯しているわたしだ。
だからこそ、日々の悔い改めと、神様のみ声を聞くことが必要なのだ。
日曜日だけの礼拝者ではなく、日々の歩みの中で、イエス・キリストの真の礼拝者として、砕かれた心で歩む者となりたいと切に願う。

※この文章は、特定の教団・教派・教会およびその礼拝を否定、批判するものではなく、あくまでもわたし自身の個人的な思いであり内省であることをお断りしておきます。
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# by s_soranotori | 2007-06-16 15:11 | 信仰・雑感

イースターに思うこと


 この春、わたしには心に一つの思いが与えられた。
道が開かれれば神様の御心、と思いながら祈っていた。
最初はグイド(夫)にだけ話して、それから祈りつつ計画を進めて行った。
かなりの困難が予想されたけれど、グイドはわたしの気持ちを理解して協力すると言ってくれた。
途中からはすっかりその気になって、もう道は開かれたとばかりに姉と母にも話した。
けれども、あとは一歩を踏み出すばかり、という時になって、心の中にストップがかかった。
今、わたしが一番大切にすべきことはそれではない、と…。
そして、もしわたしがその計画を推し進めると、わたしは今よりもっともっと高慢の罪に陥ると(今でさえ高慢の罪に悩まされているのに)示された。
結局、計画は断念した。
少なくとも「時は今ではない」と。

 実は、その前にもう一つ砕かれた思いがあった。
自分のことではなかったが、「実現したら素敵だな」と言う思いがあった。
初めから無理だとわかっていたのに、それに反して「実現して欲しい」という願望があった。
でも結局、それはやはり無謀な思いだった。
わたしの思いは打ち砕かれた。

 この2つの事を通して、何度も泣いた。
それだけではなく、とても苦しい時期があった。
一つ目のことはエル(娘)に関することで、この思いが打ち砕かれた為に、一時期エルの事を愛し難くなってしまったのだ。
いつも、イライラして叱ることはあっても、すぐに忘れ、朝な夕なに「可愛い、可愛い」と思って過ごしていたのに、それができなくなってしまったのだ。
自分でも苦しかった。エルへの愛情がその程度のものだということが自分でも悲しかった。
 その後、2つ目の、自分に関する思いが与えられ、また希望が与えられたことで、娘に対する思いも回復した。
けれども結局、この2つ目の思いも砕かれた。
 しかし今では、この2つの事柄が無関係ではなかったこと、2つともが神様の摂理の内に起こったことを感謝している。
今は神様の御心の時ではなかったのだと。
なぜだか、絶対に道が閉ざされたと言う思いはない。
「時」ではなかった、と言うこと、そして今は道を閉ざされたことが時にかなって麗しいことなのだと感じている。
そしてまたいつか時が来れば、そしてそれが本当に私に相応しいことなら道は開かれていくだろうと。

 少し前にも書いたけれど、「謙遜」と言うのがずっと、最近のわたしの課題。
ずっと自覚していることだけれど、わたしはとても高慢な人間だ。
今回、神様は、わたしが高慢になる前に「高慢の芽」を摘み取ってくださったのだと思っている。
そして、それらのことは決して「ダメ」と言う絶望ではなく、「いつか時が来る」という希望が与えられている。
それで今はこの事を感謝している。

 さてその一方で、やっぱり心はどこかで静かに戸惑い、停滞していた。
「それならばわたしは何をすればいいのですか?」と。
いや、すべきことは目の前にたくさんあるのに、それらに対する意欲が湧いてこない。
このままではいけない、という焦りを感じることもあった。

 こんな時に限って、神様からのチャレンジはどんどん押し寄せてくる。
いや、むしろ自分が蒔いた種の刈り取りと言うべきか。
 元来わたしは、まったくと言っていいほどリーダーシップのない人間だ。
自分が中心になって何かを進めるのは大嫌い。
それなのに、でしゃばり精神みたいなものもどこかに潜んでいてついつい色んなことに口を出してしまい、自分が動かなくてはならなかったりする。
こんな時に限ってそういう事柄が押し寄せてくるのだ。

 思いと思いとの狭間に押し潰されそうになってどうしていいかわからなくなっているときに、あるブログで「勝ちに行く」という言葉を見た。
受難週であるその時期に、敢えて「勝ちに行く」と宣言されたそのことばにハッとした。
わたしが信じている神、イエス・キリストは勝利の主、この神を信じているわたしが何をフラフラしているのだろう…。

 まだ、完全に回復したという訳ではない。
でも、イースターのこのとき、わたしはもう一度原点に戻る事を教えられた。
あの、イエス・キリストを信じ、十字架の血潮に与り、罪の贖いの為の死と葬りと復活を信じて救われたあのときの喜びと力をもう一度思い起こして、力強く、一歩を踏み出そうと…。

 とは言え、心は熱していても肉体は弱いわたしだ(それを言い訳にしているところがさらに情けない)。
まだまだ、エンジンがかかるまでに時間がかかりそうだけれど、ここにこうして書き記すことで、また新たな種を蒔こうと思う。
神様の力により頼みつつ…。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
ピリピ人への手紙2章3節~11節

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# by s_soranotori | 2007-04-09 13:38 | 信仰・証し