あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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≪愛から遠く離れて≫



 世の中には色んな人がいる。
中には愛するのが難しいと思われる人もいる。
聖書に「隣人を愛しなさい」と書いてあるから、クリスチャンは誰でも愛しているかと言うとそうではない。
 聖書の中にこんなにも「愛すること」が強調されているのは、人がそれほどまでに愛しにくい存在だからなのだ、とわたしの一番近くにいる牧師が言う。
確かにそうだと思う。
簡単にできないことだからこそ、聖書はそれを繰り返し教えているのだろう。

 世の中には色んな人がいる。
相手に悪意はないのに、どうも相性が悪い、と言う人も居る。
もっと質(たち)が悪いのは、相手が、悪意を持ってこちらを傷つけたり排除しようとしていながら、嵐がおさまると、謝りもしないでケロッとしていたりする場合だ。

 そんな人でも「愛しなさい」と聖書は教える。
ただし、「愛する」ということは、「=相手に優しく接すること」ではないし、「なんでもかんでもゆるすこと」でもないだろう。

 真実に人を愛するということは、どれほど難しいことかと思わされる。

 相手のためを思って、自分が悪者になれるか…。
人に疎まれても、相手のためになら信念を持って行動(発言)できるか…。
子供の為や、自分が心底惚れこんだ人のためにならそれもできるかもしれないけれど、家族以外の隣人の為にそこまでできるか…。

 「神様ごめんなさい」と言わざるを得ない自分が居る。
イエス様は、こんなわたしのために、極悪人と並んで十字架にまでかかって下さったのに。

 わたしほど愛に遠い者はいないと、つくづく思わされる今日この頃だ。
こんなわたしになお近づいて愛してくださる神様にただ感謝あるのみ…。
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# by s_soranotori | 2007-02-17 22:32 | 信仰・雑感

≪ヴィジョン≫

 昨年、最初に教会でメッセージさせていただいたのは1月22日でした。
その時、キング牧師の「I have a dream.」という言葉を引用しました。
一昨年の秋ごろから、一つのヴィジョンを持つようになりました。
キング牧師が最期まで見続けたのと同じヴィジョンを…。
いつの日か、国籍も、人種も、職業も、すべての隔てが取り除かれ、すべての国民が一つになって礼拝する日が来ることを。

 これは、エキュメニカル的な意味(すべての宗派が一つになるとか)ではなく、ただ、キリストにある民が同じ心で礼拝する、公同の教会として礼拝する、と言うような意味です。
ことばで表現するのは難しいのですが。
 そして、これは天国で実現するのではなく、今生きているわたしたちが現実のこととしてその光景を見るのだと…。

 昨年、近畿宣教会議に出席させていただいたり、近放伝での活動に参加させていただいたり、また、草津ちいロバ会のミーティングに参加させていただいたりして、グッと世界が広がりました。
また、幾つかの出会いを通しても、本当に自分の世界が広がりました。
実際に教団教派を超えた交流をさせていただく中で、みなさんがそれぞれに、真剣に、熱く主に仕えておられる姿を拝見し、感動しました。

 わたしは、「地方教会(いわゆる目に見える教会)」を非常に大切にする教会(群れ)で(クリスチャンとして)育ちました。今でも、「地方教会」は大切だと思っています。
けれども、自分自身が様々な超教派の集会に参加することで、「公同の教会」の素晴らしさも昨年、大いに味わわせていただきました。
これは大きな恵みであったと思います。

 昨年のクリスマス(12月17日)に、京都の教会でクリスマスコンサート礼拝のご奉仕をさせていただきました。とても素晴らしい集会でしたが、わたしにとっては緊張する時でもありました。その翌週、自分達の教会で、クリスマスを迎えたときに、「ここは『我が家』だな」と感じました。
我が家はとても大切です。
その一方で、神様の国、全体を見ることも必要だと感じさせられています。
「神様の御国の為に働いている」そんな思いを、昨年は実感として感じられるようになりました。
今年も、我が家(ホームチャーチ)を守り、また我が家の家族が増し加えられることを願いつつ、我が家を含めた、広い意味での神様の御国の拡大のためにベストを尽くして生きたいと願っています。
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# by s_soranotori | 2007-01-05 09:31 | 信仰・雑感

≪応答≫

 ブログを幾つか持っている。掲示板も持っている。
そんな中で、コメントを書いていただいたり、書込みしていただいたりするととても嬉しい。
コメントや書き込みはなくてもよい、と思いながら運営しているつもりだけれど、やはり反応、応答があると嬉しい。
反対に、書いても書いてもコメントや書込みがないとちょっと淋しかったりする。

 ある時、ふと「神様も同じかなあ」と思った。
神様は反応を「必要」とはしておられない。
けれども、わたしたちがその語りかけに耳を傾ける時、反応し、行動することを喜ばれるのではないか、そんなことを感じていた。

 今年、いただいた年賀状を見ていてもうひとつ別のことを感じた。
ある友達はいつも、わたしのHPを見てくれている。
そして、書き込みはしないけれど、わたしたちの事を覚えて、祝福を祈り続けてくれている。
祈られて、支えられていることを、心から感謝している。
わたしたちは、わたしたちの知らないところで祈られていることに、どれほど支えられていることか、と思う。

 わたしはついつい、「書き込み」「コメント」と言う目に見える反応を求めてしまうけれど、目に見えない応答=「背後での祈り」という応答をしてくれている友人もいる。
それもまた、貴重なことなのだ、と感じた。

 見えるところに捉われないで、わたしはわたしに委ねられたことをしていこう。
わたしはわたしに求められている「応答」をしていこう。

ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ヨハネの福音書21:21,22

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# by s_soranotori | 2007-01-05 09:29 | 信仰・雑感

≪自己分析≫

 わたしは、自分で自分の事を「嫌な性格だな~」と思う事があります。
典型的に、自分に甘く他人に厳しいのです。
すごくいい加減で大雑把なくせに、他の人がいい加減であることをゆるせなかったりします。
だから、ついこまごまと、人の揚げ足を取ってしまったりします。
特に言葉の使い方に関してはすごくうるさいです。

 また、グイド(夫)にはよく、「デジタル人間」と言われます。
わたしの母もそうなのですが、グイドは「アナログ人間です」
人のことばや行動を感覚的に捉えます。
 独身時代、よく言ったのは、母は言葉を「意味」として聞く、ということ。
わたしや父は言葉を、一旦「記号」として受け取った後、「解釈」するのですが、母は、初めから「解釈して聞く」と言うのでしょうか。言い換えれば受け止め方が非常に主観的です。わたしや父は、なるべく客観的に聞こうとする為に、まず相手が言った言葉をできるだけそのまま聞き、記憶し、それから解釈します。
ですから、独身時代はよく母ともめました。
母が「○○さんがこう言っていた」と言った時に、わたしが「そんなことは言っていなかった、こうこうこういうふうに言っていた」と言うと、母は「イヤ、その意味はこういうことやねん」と反論してきます。
「わたしにはそうは聞こえなかったけれども」と思うときでも、母の主観は絶対です。
 グイドも、どちらかと言うと、母のような受け止め方をするので、わたしの解釈とずれる事があると、時々言い争いになってしまいます。
 逆にわたしは、自分自身のことばが、自分自身の意図したように伝わらないことに対して、ものすごく憤りを感じてしまう事があって、ムキになって説明してしまう事があります。特に書く時はニュアンスを伝えることが難しいので、文章が長くなってしまう傾向が強いのです。

 別の一面では、いつも自信がなくて、ビクビクしています。
だから自分が知っていることやできることはかえって前に出て言ってしまったり、やってしまったりします。いわゆる「でしゃばり」と言うのでしょうか…。
だから、ある人はわたしの事を「いつも自信があって堂々としている」と思っておられたりします。良く思わない人は「自信満々」「でしゃばり」と思っておられると思います。
でも、本当は、自信のなさの裏返しなんだと、自分では思っています。
 また、これと通じるところで「人に認めてもらいたい欲」があるので、ついつい、自分が知っていることなどをひけらかす傾向があります。

 あー、よくもこんな嫌な女を、グイドは妻にしてくれたものだと思います。

 以前にも書いた事があるかもしれませんが、中学時代、自分が友達にどう思われていると思うか、と言うアンケートで、「はじめはよいけれど、だんだんイヤになってくるタイプ」というようなことを書いた記憶があります。
今でも、なんとなく、自分に対してそんなイメージをもってしまう事があります。

 今年はこんな自分の性格を、少しでも改善したいものです。
今年のテーマは「謙遜」です。
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# by s_soranotori | 2007-01-05 09:29 | 雑感

わたしの賛美

 新しいポータブルMDを買ったのを機に、自分の、過去のいくつかの賛美のMDを聞きなおした。今までに何度も書いたけれど、技術的には本当にガッカリだ。あまりに不十分なできに情けなくなる。
こんな者が前に立って賛美してきたのかと思うと恥ずかしくなる。

 いつも同じことの繰り返し。
しかし、どうしても、「賛美」というご奉仕を自分の働きから取り去る事は考えられない。
もし、自分に「賛美」の賜物があるのならそれはどういうことなのか、どんな賜物なのか、どう用いるべきなのか、最近、祈りの中でずっと考えていた。
そんな中で、たどりついたのは「ことば」だった。
わたしは「ことば」を語る者であり、「ことば」を伝える者であるということ。
そしてわたしは「ことばなる神(=イエス・キリスト)の福音」を伝える者だということ…。
「歌う者」ではなく「語る者」…。それはわたしが天の父と、肉の父から受け継いだもの。
わたしの賛美は、「歌い手」としての賛美ではなく「語り部」としての賛美。そんな風にわたしの中にストンと落ちるように入ってきた思いがあった。
これからも、主の福音を伝える者として、語る者として、主を賛美し続けたい。今、そんな願いを持っている。

 こんなことを、書くのもおこがましい、恥ずかしい、と思ってしまう自分がいる。
しかし、今はあえて書くことで自分を押し出そう、と思う。
そして、決して歌手のように上手ではなくても、これからも「語り部」として主を賛美し、主のご栄光を伝え、主の福音を伝えて生きたい。今、そんな願いが与えられている。
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# by s_soranotori | 2006-12-02 21:05 | 信仰・証し

基本

 「簡単」ってすごいことだと思う。

 わたしはケーキ作りが好きだ。
もちろん食べることも。
中でも、シンプルな焼きっぱなしのケーキが、作るのも食べるのも好きだ。
そんなシンプルなケーキを焼いていてふと思ったこと…。

 学生時代、飲食店でアルバイトをしていた事がある。
そこの板前さんが、フランス料理だったかな?その勉強が「プレーンオムレツに始まってプレーンオムレツに終わる」って言っておられた記憶がある。
「プレーンオムレツなんて、何にも入っていないオムレツでしょ?」
と思う。でも、シンプルだからこそ、簡単だからこそ難しいのだと言っておられた。

 ケーキ作りも、基本のスポンジケーキは簡単。
だからこそ極めるのは難しい。
手作りのものは1回1回、デキが違う。
その日の気温によってオーブンでの焼け具合も微妙に変わる。
プロじゃないから、わたしはそこまでこだわっている訳じゃないけれど、プロの方は、毎回ベスト(ベターじゃなく)に仕上げるのはとてもデリケートな作業なんだろうと思う。

 ふとナアマンの話を思い出した。(聖書・列王記第二5章)
アラムのナアマンと言う将軍は、ツァラアト(皮膚病の一種で当時は不治の病だった)になったとき、イスラエルに病を癒すことのできる預言者がいると聞いて、はるばる、高価な金銀を携えて訪ねていった。
ナアマンがたずねて行くと、出てきた弟子に「ヨルダン川で七回身をきよめなさい」と言われた。
高名な預言者が、さぞかし大層に手を置いて癒してくれるだろうと期待していたナアマンは期待が外れて怒って帰ろうとする。
しかし、彼のしもべが言う。
「ナアマン将軍、あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
ナアマンはヨルダン川で七回身をきよめ、癒された。
簡単なことを命令されて怒ったナアマン。
でも、そこに彼の癒しの道があった。

 人は、難しいことが素晴らしいことだと思う。
でも、簡単なところに、素晴らしさがある。
人が、「簡単だ」と思って軽く見てしまうところに奥義がある。

 昔、親戚の家によくケーキを焼いていった。
子供さんが好きなので作り方を教えて欲しいといわれたので、分量と作り方を書いて渡した。
それからしばらくして、「Sちゃんが作ったのは(子供が)よく食べるのにわたしが作ったのは食べてくれないのよ」と叔母が言った。
よく聞いてみると、自分流にアレンジして作ったと言う。
叔母は、料理学校のアシスタントをしていたこともある人で、料理には自信があったようだ。
こうしたほうがもっとおいしい、と思って手を加えられたのだろう。

 わたしは、特別にケーキ作りが上手い訳ではないけれど、しょっちゅう作っているせいか、時々人に「教えてください」と言われる。
その時に、お伝えするのは、
「最初はレシピどおりに、(本に)書いてある通りに作ってください」ということ。
レシピを見ただけで、味がわかるようになるのはプロの域。
作ったことがないものは、まず、基本に忠実に作ってみて、基本を味わって、そこから学ぶことが大切。
お菓子のレシピには、それなりに意味がある。
お砂糖には増粘作用があるので、玉子などを泡立てたときにきめ細かに、また安定させる作用がある。それだけでなく、しっとり感や舌触りとの関係がある。甘いからと言ってお砂糖を減らせば良い訳ではない。また、塩には塩の、バターにはバターの役割がある。
長年かけて作り上げられたレシピにはそれなりの経験と知恵が詰め込まれている。
だから、レシピを守ることは、それはレシピを作った人への礼儀でもあると、わたしは思う。
とは言え、家庭で作るものはプロが作るのとは違うよさがある。好みもあるので、慣れればアレンジすることも悪くはないと思う。
ただ、基本はきちんと身につけておきたいものだと思う。

 絵の勉強をした人なら、デッサンの大切さを知っているだろう。
カッコイイからといって、いきなりピカソのような絵を描こうとする人がいるけれど、有名なピカソの絵は、緻密なデッサンの時代を経て、描かれたものだということを、少しでも絵に造詣のある人なら誰でも知っている。

 落語でも、前座なのにいきなり真打のネタをやる人がいるらしい。
しかし、前座ネタには前座ネタの意味があり、そこに落語の基礎が凝縮されていたりする。
また、「古典は面白くない」と新作ばかりやりたがる人がいるらしいけれど、それは古典の面白さを理解していないからだし、落語の基礎ができていないために、本来面白いネタを面白くできない、つまり実力がない、と言う場合も往々にしてあるようだ。
もちろん、確かに文化的背景の違いで、古典落語の言葉が理解しにくいなどの問題はあるのだけれど。

 基本は、あまり面白いものではない。
簡単で馬鹿らしいとさえ思われる事がある。
しかし、それができているかどうかによって、後々の成果が大きく変わってくる。
それはスポーツでも芸術でも、どんな世界でも同じなのではないだろうか。

 先般、ハーベスト・タイムに出演した時、中川先生が「牧師たちに言いたいことは」と聞かれたときに父は、「世の牧師たちは、簡単なことをことさらに難しく言う」と答えた。
難しく語ったほうが、ありがたいこと、素晴らしいことのように感じるからかもしれない。
聞いたほうも、案外難しい言葉で語られる言葉に満足感を覚えるのかもしれない。
でも、実は救いの道はとてもシンプル。
簡単。そこに奥義がある。
必要なことは「福音を信じること」だけ。
でも、人はついついそこに何かを付け加えたがる。
行いや、理屈を。
ケーキをついついクリームや果物で飾り立てるように…。
焼いた肉に、複雑な味のソースをかけるように。
多くの人は、簡単なことを命じられて怒って帰ろうとしたナアマンのように、「信じるだけ」と言う簡単なことができないで、教会を去っていく…。
でも、シンプルに、福音を味わうこと。
そこにクリスチャン生活の奥義があるように思う。

 基本は簡単、でも奥が深い。
簡単だから難しい。
だからこそ基本に忠実でありたい。
物事が複雑でややこしくなる時、このシンプルな基本に戻ることを忘れないでいたい…と、最近つくづく思わされている。
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# by s_soranotori | 2006-10-25 14:49 | 信仰・雑感

エンジョイしよう!

 前にもどこかに書いた気がするのだけれど…。
謙遜とか、神様に仕えるとか、そういうこと…、育児をしながらいろいろ考える。

 エル(娘)はわたしが台所に立っていると「わたしもおてつだいするわ」と言っていそいそとエプロンをしてやってくる。
わたしはいつも時間に追われて家事をやっているので、正直に言えば「こんとって!(来ないで)」と思うことが多い。来ても足手まといになるばかり。
でも、せっかくの「お手伝いしよう」と言う気持ちを尊重したいと思って、「じゃあお母さんがやって、っていうことだけやってね」と言うのだけれど、結局はあれこれやりたがる。
で、少しやらせてみるのだけれど、絶対と言っていいほど上手く行かない。
失敗してはシッチャカメッチャカになり、わたしがぶちきれて「もうー!あっちいっててー!!」となる。
そして怒ってから、あとで反省(後悔)する。せっかく手伝ってくれていたのに…。

 たまにはエルとクッキングを楽しむ時間を作らなくちゃ、と思う。

 それはさておき、神様とわたしたちの関係も同じようなものだといつも思う。
神様は、わたしたちの助けが必要なのか?
答えは否。神様はぜったいに一人で全部やったほうが速いし上手くいく。
それなのに、あえてわたしたちに色んなことを任せてくださる。
 だったらわたしたちはそれを喜び楽しまなくちゃ、って思う。
台所に立ったわたしは一人でやったほうが速やかに、上手く事が運ぶ。
それでも、子供が喜んで、楽しみにしているなら一緒にやろう、って思う。
だからわたしも、子供が、お母さんやお父さんのお手伝いを喜んでいるように、神様のお手伝い(足手まとい?)を喜んでやろう。

 それと、昨日、日記の方に「大きなうねりの中にいて愕然とする事がある」と書いたけれど、それは、有名なクリスチャンと出会ったり、たくさんの人の前で歌ったり語ったり、キリスト教番組に出たりするからではない、と言うことを補足しておきたい。
 神様の前に大きな働きも小さな働きもない、と思う。
100人の前に遣わされるのも1人の前に遣わされるのも神様の目には同じ事だと思う。
大きな集会やTVの前で語るから大きなうねりの中にいるのじゃない。
1人の人に伝えるところから大きなうねりは始まっている。

 そう…もう何年前になるだろうか。
演劇関係の先輩から「(演劇を通して)もっと、とてつもなく大きなことができると思っていたんだよ(けれどもそうではなかった)」という言葉を聞いた。多分もう15年近く前…。
その時わたしは何も答えられなかったけれど、あとで手紙を書いた。
「わたしはすでにとてつもなく大きな働きの中にいるのかもしれません」と。
そう、もうずっと以前から、わたしは神様のプロジェクトの中にいたのだ。
このプロジェクトは世界を動かすプロジェクト。
とてつもなく大きなプロジェクト。
 わたしも、そして多くの先輩や友人もすでにその中にいる。
日本で、中国で、タイで、ウクライナで、ペルーで、インドネシアで、セネガルで…世界の各地で…。
皆この大きなプロジェクトの中にいる。皆大きなうねりの中にいる。
それぞれが前に置かれた働きに精一杯取り組んでいる。

 もっと必死にならないといけないのかな?
確かにパウロは「奮闘している」って表現を使っていた。
だけど、やっぱり、最初に書いたように、わたしはこの働きを、喜び楽しんでできたら良いな、と思う。
何をやったって下手くそに決まってる。上手く行かないに決まっている。みんな初めはそんなものだ。
でも、それを喜んで、へこたれないで、やり続けるなら少しずつでも上手になるし、それで周りの人も喜んでくれたり助かったりするようになることもあるだろう。
何よりも神様が喜んでくださるだろう。
 昨日も書いたけれど、「自分の中に何一つとして良いものがない」と言うのは本当の謙遜ではないと思う。確かに、罪はあるし、ではどんな良いものがあるのか、と聞かれると真直ぐに差し出せるものがあるという自信はないけれど、素晴らしい神様がわたしを作ってくださった。神様には失敗作はない。
 もっと神様を信じて、もっと喜んで、わたしはわたしの人生をエンジョイしよう!
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# by s_soranotori | 2006-10-05 15:42 | 信仰・雑感

越境行為

 自分に負い切れない荷は負ってはならないと改めて痛感することがあった。
わたしは、ある方への対応を間違えてしまったのだ。
相手の方をとても傷つけてしまった。
 クリスチャンサイトを運営していると、時々、ネット上で色々な相談を持ちかけられる。
何か自分にできることを、と思って、ついつい、一生懸命になってしまう。
でも、わたしは専門のカウンセラーでもないし、その人の牧師でもない。その人の背景も充分に知らない。
ましてや、相手もわたしの事をよく知っているわけではない。
「この人なら、何か(自分にとって)良い事を言ってくれるだろう」と期待されても、必ずしもそうはいかない。むしろ、わたしの場合、「どう思いますか」と聞かれると自分の意見をはっきり書いてしまう傾向がある。わたしは、文字だと自分の気持ちや考えを表しやすいので、面と向かってはなかなか言えない事も、ついつい書いてしまう。
これはわたしの弱点だと思うし、軽率な部分で、反省しなくてはならない。
しかし、時々、いや往々にして、人は、他人に相談を持ちかけるとき、暗に自分の思いを肯定して欲しいと言う願いを既に持っている場合が多い。
しかし、それがわたし自身の意見と大きく食い違う場合、対応に苦慮する。
 以前にも、掲示板の対応で色々学んだつもりだったのに、同類の失敗を繰り返してしまった。
こちらは「失敗」「反省」で済むけれど、相手の方にはそんな言葉で簡単に済ませることはできない重大な傷を与えてしまう場合がある。今回もそうだった(と思う)。
 相手の方は、教会にも行っておられるし、カウンセリングも受けておられる。わたしが余計なことを書いてはいけなかったのだ。相手の方の心を傷つけただけでなく、わたしが口を挟むことで、その牧師先生やカウンセラーの方の働きをも邪魔してしまった、と思う。
本当に申し訳ないことをしてしまった。
わたしのしたことは越境行為だった。

 「自分に負い切れない荷は負わない」
心に刻み込んでおかなくては。
あとはイエス様にお委ねして、祈るしかない…。
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# by s_soranotori | 2006-09-22 23:59 | 信仰・雑感

エルのお祈り

 エルはお祈りの力を信じている。
昨日、わたしがしんどかった時、エルはまだ食事中だったけれどおかゆを食べ終わったわたしは2階へ上がって横になることにした。
「エルが食べ終わったら、お祈りしにきてね」と言うと「いまおいのりしてあげる」と言ってお祈りしてくれた。
食べ終わったら「どうげんきになった?」と言ってベッドにやってきた。「まだ」と言うと「ちゃんとおいのりしたのにー」と文句を言っていた。
 今朝、朝ご飯を食べて着替えた後、部屋の隅で、ボソボソ一人でお祈りしていた。何をお祈りしたの?と聞くと「おてんきのこと」と言っていた。
そういえば昨日も、登園時に少し曇っていたので「今日はプールじゃなくてどろんこ遊びかもね」と言うと、「おいのりしよう!」と言って「どうかきょうもピカピカのおてんきにしてください」とお祈りしていた。
そして、「おいのりしたからだいじょうぶ!」って。
きっと今日も同じようにお祈りしていたのだろう。
 わたしも、子供のように素直に信じて祈ろう。
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# by s_soranotori | 2006-08-29 15:59 | 信仰・雑感

ガリラヤ丸艇庫跡

 世界福音伝道団のキャンプ場が、琵琶湖の小豆が浜と言うところにある。
と言っても、琵琶湖近辺の人以外は小豆が浜、ってどこ?という感じかもしれない。
イヤ、琵琶湖近辺の人でも、よくわからないかも。
近江八幡の国民休暇村の近く、「長命寺」の近くといった方が通りがよいかもしれない。
で、このキャンプ場で開かれる小学生キャンプに行くグイドの送迎のために通りかかった道端に「ガリラヤ」という文字を発見し、気になって立ち寄ってみた。
そこにあったのは「ガリラヤ丸艇庫跡」と言うものだった。
キャンプ場の近くにこんなものがあったとは、ここに通い始めて6年になるけれど、初めて知った。

 看板に書いてあった紹介文(この看板の責任所在が書いていなかったので、許可を得ていませんが・・・)
「ウイリアム・メレル・ヴォーリズは1905年滋賀県立商業学校の英語教師として近江八幡に赴任した。しかし2年後キリスト教伝道活動を理由に解雇されたため、建築の仕事に着手する。
1910年にはヴォーリス合名会社を設立し、建築設計で経済的基盤を確立する。
翌年、近江キリスト教伝道団を結成。
14年には米国メンソレータム社創業者ハイド氏の寄付により、ガリラヤ丸を進水させ、船による伝道活動を開始した。

当所に伝道船ガリラヤ丸艇庫があり、ここを基地として近江各地に伝道したが、僻地の重病人を病院のある所まで運送することも多かった。艇庫の骨格・基礎は土地所有者により、現状のまま保存されている。」


 また看板には東郷正二郎という人が1960年頃に描いたその場所の風景画や、船上のヴォーリズ氏の写真なども掲載されていた。
場所は琵琶湖畔長命寺のすぐ近く。
その看板が誰によって作成されたものかはわからないけれど、こんな伝道船があったなんて、と感心。

 琵琶湖は日本一大きな湖。この湖のお陰で滋賀県では水不足はまずおこらない。
近年かなり水位が下がっているという時期もあったけれど、他府県のような深刻さはなかった。
しかしその反面で、霊的渇水は深刻なのではないか。
日曜学校の子供は減り続け、教会も高齢化など、問題が山積。
物質的な水は豊かだけれど、魂をうるおす命の水に渇いている人々。
ヴォーリズの精神を通してそんなことを思い、またわたしも、ヴォーリズのようにもっと愛と熱意を持ってキリストを伝えたいと思わされた。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
ヨハネの福音書4章13、14節


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現在の様子

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東郷正二郎氏の絵(複製の複製ですが無断掲載なので小さめにしています)

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船上のヴォーリズ氏など

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# by s_soranotori | 2006-07-27 17:12 | 信仰・雑感