あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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マルタ

栗東キリスト教会月例婦人会
2003年9月4日(木)
≪マルタ≫
ルカ10:38~42
ヨハネ11:1~3,17~32
ヨハネ12:1~2

名前の意味=淑女、女主人

ルカ10:38~42
 この箇所はほとんどの場合、マリヤのことを中心に語られます。
「マリヤはその良いほうを選んだのです」といわれたことで、マリヤはいつも私たちの模範として語られ、マルタはその反対ととらえられがちです。
しかし、果たしてそうでしょうか。
まず、最初に注目していただきたいのは38節です。
「マルタという女が(イエス様の一行を)喜んで家にお迎えした。」
とあります。
これは信仰がなくてはできないことではないでしょうか。少なくともイエス様の一行は13人(イエス様と12弟子)もいたのです。その人たちを受け入れて、もてなすのはそれほど簡単なことではないでしょう。私などは、1、2名のお客様を迎えるのにも、大騒ぎしてしまいます。けれどもマルタは喜んでお迎えしたのです。それだけでも、マルタは賞賛に値する女性ということができるのではないでしょうか。

 ただ、マルタには問題がひとつありました。多分、張り切りすぎる性格だったのでしょう。
一番大切なことを忘れて、主のもてなしに心を奪われていました。
元来、マルタはもてなすこと、他の人々に親切を施すことに秀でていたと思われます。それはマルタの美徳だったといっても良いでしょう。しかしこの場合、本来第一にすべきことを忘れてしまっていたのです。

 マリヤがイエス様の話を聞き続けていたことにいらだっていました。
私もよくこういうことがあります。
主人が教会にいて神様の仕事をしているのに、なかなか帰ってこないといらいらするのです。娘をお風呂に入れるのに、いてくれたほうが楽だし、私だって疲れているのだから、少しは家のことを手伝ってくれたらよいのに、とか、色々考えてしまうのです。
マルタもちょうどそのような状態、いやむしろマルタのほうが、主のために、と考えていた分、わたしより信仰的と言えるかもしれません。いずれにせよ、マルタは、耐えかねて主に言います。
(40節)

ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

このギリシャ語はとても強い言葉です。それは、「彼女は彼に詰め寄って、彼をこの件に引き込んだ」を意味します。これは、彼女が彼を責任者と見なしていたことを暗示します。心中にあるものをすべて話していたなら、彼女はこう言っていたでしょう、「あなたはこの件に責任があり、この件と関係があります。これを正すのはあなたの義務です」。これが原文の意味です――彼はこの件の関係者であり、これを正そうと思えば正すことができるし、またそうすべきです。これは、彼女が怒りをぶちまけたことを意味します。彼女はこのことをこらえていましたが、ついにこれ以上我慢できなくなり、彼に詰め寄って、「主よ、私の妹が私一人にもてなしをさせているのを、何とも思われないのでしょうか?彼女に私を手伝うよう命じて下さい」と怒りをぶちまけました。
 さて、この状況の大変さを理解してほしいと思います。そうすれば、マルタについて助けになるでしょう。私たちはマルタの気持ちと立場を理解しなければなりません。「いろいろともてなしのために気が落ち着かず」は、この状況の真相を私たちに伝えていません。状況が本当にどういうものだったのか、まったく不十分な印象しか訳から得られません。ここのギリシャ語の言葉は、「混乱させられる」「四方八方に引っ張られる」を意味する言葉です。おそらく、彼女の心配が顔に表れていたでしょう。それは何に対する心配だったのでしょう?いろいろな家事、おそらくは様々な料理、いろいろな仕事に対する心配でした。主はマルタに言われました、「マルタよ、あなたはいろいろと二次的なことで思い煩い、自分に扱える以上のものを抱えています。しかし、本当に必要なものは一つしかありません――」
 最も重要なものがその地位を占めるよう、マルタの側で物事の調整が必要だったのです。主はマルタのもてなしに対して思いやりに欠けていたのではありません。彼女がこの料理の仕事をまったく度を越えて手の込んだものにしていたこと、そしてもっと大切なものをそうでないものよりも低い地位に置いていたことを、主はご覧になったのです。
 ただ、ここで覚えておくことがひとつあります。マルタは、問題を感じたとき、それを主のところに持っていったということです。ほかの誰でもない、主にぶちまけたのです。
そのマルタに対して主は穏やかに答えられました。

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。ルカ10:41
この言葉には、多くの意味を含んでいるのではないでしょうか。ある本に書いてあった言葉を一部補足しながら引用させていただきます。
「マルタ、マルタ、どうしてあなたは第一にすべきことと二次的な事柄を混同するのですか。どうしてあなたは、私があなたの家にいるのに、大して重要でない事柄に心を奪われているのですか。マルタよ、あなたは私が仕えられるためではなく、かえって仕えるために来たことを悟らないのですか。私が宿や食物よりもはるかに多くの関心をあなたに寄せていることがわからないのですか。私はあなたの奉仕に感謝しています。しかし私が第一に関心を持っているのは、あなたに対してであってあなたの役割や奉仕に対してではないのです。マルタあなたは非常に有能であり、賢明です。なぜあなたは何から何まで、ほんのちょっとしたことまで、自分でしなければならないのですか。大切なことは、霊的な事柄です。あなたはあなた自身を検討しなさい。あなた自身の心を知りなさい。私の観点から物事を眺めなさい。」
イエス様は、マルタへの愛からこのような意味を込めて語られたのではないでしょうか。

 たしかに料理は大切かもしれません。しかし、適切にバランスをとる必要があります。一時的なものが霊的なものを脇へ追いやってしまわないように注意しましょう。霊的なものが眩まされてしまうほど、過ぎ去って行くものについて心配したり、それに迷わされたりしないようにしましょう。他のすべてのものをあるべき場所に保つべき唯一のものは、主の口から出る御言葉です。

 しかしマルタは賢明な女性でした。イエス様が語られた言葉の意味を十分に受け止めました。
 でもこの結果を見る前に、もう一箇所、ヨハネの11章を開いてみたいと思います。
これらの箇所を読むとき、マルタという女性は本当に興味深いと感じさせられます。
長くなりますので簡単に、マルタの特性が表れているところだけ拾ってみたいと思います。
 まずその行動力です。

マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。ヨハネ11:20

マルタは、イエス様が来られたことを知ると、いち早く出迎えに出てゆきます。マリヤは家で座っていました。
 次にその信仰です。

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。ヨハネ11:21

ここで、マルタは主を非難しているとも取れるのですが(どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか)、それはまた主の御力への信仰・信頼であり、希望の表れでもあります。
それに続く箇所はマルタの信仰を表しています。

今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」ヨハネ11:22-27


27節は信じきっています、と訳すことができるそうです。
見事な信仰です。

 さて、先ほどの続きを見てみましょう。
物語は、ラザロのよみがえりの続きにヨハネの福音書に書かれています。
12章の2節をご覧ください。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

 マルタ――確かにマルタは給仕していました。しかし、それはバランスの取れた奉仕です。彼女は依然として給仕していますが、まったく問題ありません。今や非難はありません。今や、彼女は心配に支配されておらず、気苦労に振り回されていません。彼女は復活の家の中で給仕しています。ここには主によって調整された奉仕があります。主の家の奉仕は、その奉仕が礼拝と関わりがあり、礼拝と正しい関係にある時、主の御心によくかなっていると言えます。ご覧のように、二人の姉妹はバランスが取れています。以前、彼女たちは離れていました。なぜなら、物事のバランスが崩れており、あるべき場所になかったからです。今や調整がなされ、彼女たちはいつも一緒にうまくやります。それは調整された奉仕です。
 私たちはマルタが主に忠実であり続けたという事実に目を留めるべきです。
主は、このときどこに向かっておられたのでしょうか。
エルサレムです。これからほんの1週間のうちに、イエス様は十字架にかかられたのです。
イエス様に従うものもいましたが、イエス様に反対するものも多くいたはずです。
その中で、最後まで主をもてなし続けたマルタの信仰は注目に値するのではないでしょうか。

結論
◎ マルタは信仰があった。
◎ マルタには奉仕の精神があった。
◎ マルタは問題を主のところの持っていった。
◎ マルタは主によって整えられた。
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# by s_soranotori | 2005-07-28 15:16 | 聖書の人物

ハンナとペニンナ

2002年4月4日
栗東キリスト教会婦人会
≪※≫メッセージノート、ほぼそのままで、メッセージの形態になっていません。ご了承ください。

【聖書箇所】サムエル記第1,1章1節~28節

※2人はエフライムの住人 エルカナの妻の1人
 当時の道徳的水準は低くなっていた。
結婚において、1人の夫と1人の妻が結ばれる一夫一婦の制度は、最初から神の意図されたものであった(創2:24)。「ふたりは一体となる」は、3人以上には当てはまらない。この原則が破られる時、必ず家庭は乱れる(例:創16章,29‐30章)。たいていの場合、そこで苦しむのは敬虔な女性である。

≪ペニンナ≫
子供があった。

ハンナをいらだたせた。
  ・高慢
  ・嫉妬深い

≪ハンナ≫
子供がなかった。
  ・夫に愛された
 イスラエルの女性にとって、不妊は恥辱であり悲しみであった。ハンナはシロでの例祭のたびごとにエルカナのもう1人の妻ペニンナから、心の傷口に塩をすり込むようなことを言われ、食事も出来ないほど傷ついた。彼女に対する夫の愛も、その傷をいやせないほどであった。

神に祈った。

  ・謙遜
  ・敬虔
  ・具体的に祈った
 詩篇50:15には「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」と勧められているが、ハンナはその通りにし、涙の祈りを主にささげた。聖書注解者、マシュー・ヘンリーは「万軍の主よ」という呼びかけは聖書の中でハンナが最初といっている。神は、天と地とご自身が造られた全てのものの主であることを認めていた。また、ご自身の元にある天の軍勢の主であられると認めていた。
 ハンナはその信仰の表れとして、もし男の子が与えられたら、生涯の「献身者」として、その子をささげると誓約した(参照民6章のナジル人)
 ハンナの顔はもはや以前のようではなく憂いは去って、平和と喜びをたたえる表情に変っていた。ハンナは信仰を持ち、疑うことのない祈りをささげたのである。
(マタイ21:21イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」)

  ・栄光を主に帰す【献身】サムエル
祈りの答(Ⅰ1:19‐28)
 ハンナの祈りは応えられ、彼女に男の子が生れた。彼女は、この子を「サムエル」〈ヘ〉シェムーエール(神の名)と名付けた。「主に願って」与えられた子だったからである。乳離れするまでこの子を手元に置いて慈しんだハンナは、母親の情を断ち切って、以前神の前に誓約した通り、生涯を通じてのナジル人として神にささげた。こうして、祭司、預言者、士師、キングメーカーという重大な使命を担うサムエルの訓練が、幼い時から始まるのである

・栄光を主に帰す【賛美】2:1~10
 「涙とともに種を蒔く者は,喜び叫びながら刈り取ろう」(詩126:5)。
 今ハンナは、心よりの賛美をもって祈っている。
 祈りの中でハンナは、主が「聖なる方」であり、全幅の信頼に値する「岩」であり、「すべてを知る神」、生殺与奪の権を握り、逆転のみわざを行うさばき主にいますことを告白する。
 5節に歌われているように、彼女は「不妊の女」としてあざけられていたが、現実に多くの子供たちの母となることができた。神の主権を歌うことは、取りも直さず人の傲慢や高ぶりを戒めること。人はみな、ペニンナも含めて、「神の力強い御手の下に」(Ⅰペテ5:6)、おのれを低くしなければならない。
 マグニフィカトと呼ばれるマリヤの賛歌(ルカ1:46-55)は、このハンナの賛美によく似ている、といわれている。マリヤは敬虔な女性であったので、この賛美もよく知っていたのだろう。そして彼女も、ハンナと同様の霊に満たされて歌ったのだろう。10節に「油そそがれた者」(〈ヘ〉マーシーアハ,〈ギ〉クリストス)という言葉が出て来ることも注目に値する。

【結果】  ・祝福があった ≪3人の息子と2人の娘≫2章21節

ハンナへの祝福(2:18‐21)
 ここには,エリの家とは対照的に,敬虔に神に仕えるサムエルと,その両親のことが記されている。
 亜麻布のエポデ(18)は、祭司が身にまとう下着風の衣である。大祭司のために作られる豪華なエポデ(参照・出28:6)とは異なる。サムエルは、幼いなりに、その亜麻布のエポデを身にまとって奉仕していたが、成長の著しい少年のために、母ハンナは、毎年上着を新しく持って来て、彼に着せた(19)。エリの祝福の祈り(20)は応えられた(21)。100%ささげ尽したハンナに、主は500%の祝福をもって報いられたのである。
少年サムエルは主のみもとで成長した(21)。この言葉及び26節は、主イエス・キリストの幼年期の成長を思い起させる(参照ルカ2:52)

【学び】
 わたしたちも、信仰によってサムエルの母となることができる。
 今から子供を産むことはないかもしれないが、伝道によって実を結ぶことができる。
祈りによって実を結ぶことができる。
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# by s_soranotori | 2005-07-28 14:19 | 聖書の人物

聞くこと、見ること

 わたしの友人は、世的にはとてもいい仕事についていた。
しかし、神様から、宣教師になるように語られていた。
でも、彼は拒み続けていた。
そんな中で、突発性難聴という病を与えられた。
「聞こえなくなる」と言う恐怖の中で、ようやく、彼は神様の言葉に耳を傾けることができた。
彼は、伴侶も与えられ、もうすぐカンボジアに宣教師として向かう。

 見えないこと、聞こえないこと、よりも、見ようとしない、聞こうとしないことが
問題なのかもしれない。


人がもし、何かを知っていると思ったら、
その人はまだ知らなければならないほどのことも
知ってはいないのです。
1コリント8: 2

 わたしは、まだ、知らなければならないことのごくわずかしか知らない。
見えていると思っていても見てはいない。
聞こえていると思っていても聞いてはいない。
そんなわたしに、神様は、今日も忍耐してくださっている…。

 どうか、わたしの心の目と耳が開かれますように…。
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# by s_soranotori | 2005-07-06 21:49 | 信仰・雑感

「愛・地球博」リポート

 6月27日、早朝から家を出発、すったもんだの挙句に、やっと駐車場に到着。ほとんど無計画なまま、ようやくここまで来た、という感じ。
 駐車場でシャトルバスに乗るのに並び、やっと万博会場の西ゲートに着いたけれど、そこでまた並ばなければならない。
まだ9時前なのに暑い…。Shionちゃんより小さな子供や赤ちゃんをつれている人もたくさんおられて、小さな子にはかなり厳しいなあ、と感じられた。
並んでいる間にShionちゃんは「おしっこ」え~、と思ったけどこればかりは仕方がない。
とりあえず列を離れて、係の人に一番近いおトイレを聞いて駆け込む。
もう一度夫のところに戻れるか心配だったけど、幸い、丁度前に、団体のグループがいて、おそろいの赤いTシャツを着ておられたので、近くまで戻り、携帯で「手を上げて」と頼んで、見つけることができた。

 中に入って、最初に「トヨタ館」の整理券を取りに行こう、と思っていたのだけれど、間違えて「長久手日本館」の方に出てしまった。そうしたら係の人が「20分待ちです」と呼び込み(?)をしておられたので、「せっかくだから見ていくか」と並ぶことに。あとで聞いたら、日本館は人気があって、90分くらい並ぶのは当たり前だとか。かなりラッキーだったようだ。
360度全天球型映像は迫力があって、なかなか楽しめた。Shionちゃんはちょっと怖かったみたいだけれど。
 その隣にあった「大地の塔」は40分待ちとのことだったけど、思い切って並ぶことに。最初は当日予約機で予約しようかと思ったけれど、それだけでも20分くらいは並ばないといけない、と言うことだった。万華鏡好きなわたしとしては是非見てみたい、と前から言っていたので、夫が「並ぼう」と言ってくれた。
 それにしても、皆、どうしてこう我先に、と追い越そうとするのだろう。ゲート前で並んでいた時もそうだったけど、ひとりでも前に出ようとする人が多いのに驚く。
それも、結構年配の人たちが厚かましい…。中学などの学生も来ていて、あまり強引に追い越していこうとする子には思わず「ちょっと待って、わたしら連れやし並んでるねん~」と、言ってしまった。ディズニーワールドなんかでは、もっと列もちゃんとしていて、こんなふうにはならなかったけどな~、と思いながら並んだ。
 「大地の塔」は、中は万華鏡だけ。年配の訳分からずに並んでいた方は「何や、あんなに並んでこれだけかい!」とちょっと文句を言っておられたけど、まあ、あんなもんでしょう。

 で、いよいよ企業ゾーンに向かおうと思ったけれど、さて、どう行けばいいの…?
トラムに乗るにはまた戻らないといけないし、ま、歩いて行こう…ってことになった。
で、キョロキョロしながら歩いて行くと、結構売店などもある。
入場前に「ペットボトル禁止」と言われて、ペットボトルに入れて行ったお茶を紙コップに移し変えさせられたけど、中ではペットボトルをバンバン売っている。ペットボトル持ち込み禁止の意味がよく分からない。ゴミが増える、ってことなのかな?ま、中でお金を使って欲しいってことなのだろう…と思いながら、とにかく暑いので、水分補給に飲み物は結構買ったけどね。
 で、とにかく、適当に歩いていたので、“企業ゾーン”に行きたかったのに、結局“グローバル・コモン1”に出てしまった。その時点でわたしたちはまだグローバル・ループを利用すれば行きたいところに、もっと自由に行けると言うことが理解できておらず、「あそこはグローバル・トラムの走るところだ」と思い込んでいた。で、とりあえず、夫が「サウジアラビア館」に行きたいと言うので、入ってみた。スパイスの匂いが立ち込めていて、なんかいい感じ。
周囲ぐるりがスクリーンになっている、映像で、サウジアラビアの国と歴史を紹介する映像を見ることができた。このスクリーンは以前徳島に行った時にも見たことがあるので、そう驚きはしなかったけれど。
出口では、サウジアラビアの民俗音楽のCDを家族に1枚と言うことで配っていた。
「さすが豊かな国は違うねえ」と夫と話した。
そのあと、「モンゴル館」に行ったけど、やはり、国の豊かさが違うのだろう。こちらでは砂漠の砂まで販売していた。
その後も幾つかの外国館を見たけれど、やはりパビリオンの充実度と国の豊かさはある程度関連があるのも仕方が無いのだろう…。
 外国館に興味は津々だけど、とりあえず、Shionちゃんがアイス(ソフトクリーム)を食べたいとうるさいし、水分補給も必要だし、あまりにも暑いので、どうせ食欲もないだろう、ということで、ソフトクリームを食べさせる。夫は、丁度始まった大道芸(?)みたいなパフォーマンスを見ていたが、わたしは少し歩き疲れたこともあって、Shionちゃんと座って、朝買った朝食の、残りのヨーグルトを食べた。パフォーマンスを見終わった夫も、売店で中華の点心を買ってきて、少し食べた。Shionちゃんは、朝買った、コンニャクゼリーなども少し食べることができた。とにかく暑さで食欲がなさそう。口に入るものを食べさせてやるしかない、と割り切る。わたし自身も、夫と何か美味しいものを食べたかったけれど、食欲がない。
 そのあと、夫が一人で「トヨタ館」の予約をしてくる、と出かけていったのだけど、結局本人が行って並ばないといけない、とのこと。それも1時間半…。夫は一旦諦める、と言って、合流したのだけど、やっぱり未練がある様子。行くだけ行って、並んでみようと言うことになった。どうせ定員になれば、打ち切られるのだから、並ばせてくれるということは整理券を貰えるのだろう、と。
 で、また歩いて歩いて、北ゲートの方で並んだ。ま、そこは屋根があって一応日陰だったし、しばらくは列も動かないので、とにかく座り込んで待つ。
Shionちゃんも退屈だったと思うけど、ごそごそしながら、泣きもせずによく頑張ったと思う。
 1時間半並んで、列が動き始めて整理券を手にするまでにまた結構時間がかかったけど、とにかく整理券をゲット。わたしたちの前に並んでいた若い女性と、少し情報交換。その時に、「長久手日本館」が結構並ばないとなかなか見られないと聞いた。
 整理券は手にしたものの、「トヨタ館」は、5時からのショーだけど4時40分までに入場しなければならないので、実質、他のパビリオンを見る時間はあと1時間半位しかなかった。で、夫がどうしても「ドイツ館」に行きたいというので、“グローバル・コモン3”まで移動。さすがに歩き疲れてきたので、グローバル・トラムに乗ることにした。Shionちゃんも何かに乗りたそうだし。で、「ドイツ館」に行ってみたけど、なんと100分待ち。その上4歳以上の子供しかライドに乗れないということで断念。仕方がないけど、せっかくこっちまできたので、ということで15分待ちの「イタリア館」へ。ついでに「トルコ館」と「チュニジア館」に。
友達が住んでいる「クロアチア」のパビリオンも見たかったけど、時間切れで、「トヨタ館」に戻ることに。
 「トヨタ館」には4時半過ぎにやっとたどり着き、並んでいると、Shionちゃんが「おしっこ~」
あちゃー、でもやっぱり放っておけない。係の人に聞いたら、まだ外へ出ても大丈夫と言う。一番近いおトイレを聞いて外へ出たけど、気が焦って方向感覚がなくなり、トイレの方向が分からない。ウロウロして、また、係の人をつかまえて聞いてやっと分かり、とにかく駆け込んだ。
 急いで急いで「トヨタ館」に戻ると、列はかなり動き出していた。夫が心配そうにこちらを見ていたので、大急ぎで合流。間に合った~。
ロボットが楽器を演奏するWelcomeショーにはShionちゃんも大満足。そのあとのメインショーは、少しエキサイティングなこともあって、途中Shionちゃんは少し怖がったけど、結構楽しめたようだった。

 途中からShionちゃんは観覧車に載りたくて仕方がなかったので、とにかく観覧車に乗せてやろうと“遊びと参加ゾーン”に向かった。
「ワンダーホイール展・覧・車」の方が近かったけれど、Shionちゃんは大きいほうに乗りたいと言うし、「展・覧・車」は40分待ちだったので。
途中、やはり、友達が今度宣教に出かける「カンボジア館」にどうしても寄りたくて、寄り道。
そのあと、夫とは別行動にして、夫はその付近の外国館を少し見て、わたしはShionちゃんと観覧車に。西ゲートで最後は待ち合わせ、ということで。
 途中観覧車のチケットを買おうと思ってびっくり。何と700円もすると言う。しかも3歳から1人分のチケットが必要とのことで、夫を残して二人で来てよかった、と思った。
結構時間が遅くなったので、途中その日留めていただく予定だった方のところに連絡を入れたかったけれど、電話番号を車においてきてしまったので、連絡できずにいたら、丁度この観覧車に乗っている時に先方から御連絡を下さった。

 さて、やっと当日の予定を修了して、西ゲートへ。
は~、疲れた~。以前痛めて、時々水のたまる膝がとにかく痛い。股関節も痛い。ま、日頃の運動不足がたたっているということか。
Shionちゃんは、途中、時々おんぶしたり抱っこしたり、イタリア館あたりで30分ほど、夫に抱かれて寝たりしたけど、とにかく最後まで元気で、まだ走ったりスキップしたりしていた。子供はすごい。
 多分、わたしたちはすごく効率の悪いまわり方をしたと思う。早くからガイドマップを買ったり、知人も案内MAPを送って下さったりしていたものの、結局ゆっくり夫と話す時間がなくて、最後までほとんど無計画だったので、仕方ないと言えば仕方がない。北へ行ったり南へ行ったり、時間的にも、体力的にもロスが多かった。もっと効率よくまわれればよかったのだけど…。
 後になってみれば、「モンゴル館」まで行って何で隣の「中国館」に行かなかったのだろう、とか、グローバル・コモン2,4,5のパビリオンには全然行けなかった、とか、色々反省点も残った。
 それにしても万博は、アメリカのディズニーワールドのEPCOTととても似ていると思うのだけど、はるかに効率が悪い。
夫はしきりに「ディズニーワールドとどこが違うんだろう」を繰り返した。ディズニーワールドでもアトラクションによっては並んだけど、もっと当日予約の取り方もスムーズだったし、先ほども書いたように並んだとしてももっと並び方、列の整理も行き届いているし、待っている間も退屈しないような仕掛けやモニターなど、行き届いている。
もちろんお金のかけ方も違うのだろうけれど、外国館も、もっと回りやすく配置されていたように思う。
 まあ、そういう訳で、EPCOTでも外国館のような所は幾つか行ったし、そういう意味では、今回は人気の「長久手日本館」「大地の塔」「トヨタ館」を見られただけでも、よし、と言うところだろうか。これであと、ドイツ館とマンモスを見られたら最高だったのだけど、それは贅沢と言うものね。
とにかく楽しかったのだから満足満足。
お金と時間に余裕があればもう1回行けたら良い、と思うくらい、楽しかった。
午後のある時間帯はものすごく人が多く感じられて、うんざりしたけど、翌日の新聞を見たら当日の入場者は10万人足らずで、まだ少ないほうだったのだそう。
夏休みなんかになったらすごいんだろうな…。
 とにかく、暑さ対策だけはしっかりしていかないと、これからの季節、絶対に病人が出ることは避けられないような感じ。
最後まで、この万博が無事に終わり、国際社会の相互理解と平和のために用いられますように…。
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# by s_soranotori | 2005-06-30 15:01 | 雑感

富山といえば薬

 先日、富山に行ってきた。
富山と言うと「薬売り」のイメージ。
どうして富山=薬、なんだろう?
そんな話をしながら富山に行くと、わたしたちが泊まった宿舎の隣には「薬業会館」と言うのがあった。
やっぱり、富山=薬、なんだ~。

 帰りに、娘にお土産を買うって約束していたしな~、と思って高速道路のSAに立ち寄った。
どこでもそうなのだけど、最近ご当地限定キティちゃんなるものが色々でまわっている。
なんと、滋賀にも「馬(栗東バージョン)」だの「魚(鮎?鯰?忘れたけど、なんだか変だった)」だのあまり可愛いとも思えないキティちゃんが存在する。
 で、富山はと言うと、まずチューリップキティちゃん。これは、キティちゃんに似合っていて可愛い。次にほたるいかキティちゃん。うーん、これは琵琶湖キティちゃん(魚バージョン)とタイマンをはるようなもので、イマイチ可愛いんだかなんだか…。メモパッドも他のは売り切れていたけど、これだけ残っていたっけ。
そして、あった!あった!!「富山の薬売りバージョン」

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どうしても欲しくて、ついつい買ってしまった。
それだけのことなんだけど…。
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# by s_soranotori | 2005-06-16 13:23 | 雑感

愛・地球博

 愛・地球博に行くことにした。日程はまだ未定だけど。
姉の家族はこういうのには興味ないらしい。勿論他にも興味のない人はたくさんいるだろう。
でも、我が家はこういうの、大好きなんだよね。
日本にとっての大きなイベントだものね。
大阪万博、神戸ポートピア、花博、と関西圏であったものはとりあえず行った。その中でもやっぱり万博といえば35年ぶりとのことだし、やっぱり是非行っておきたいと思った。詩音ちゃんの記憶には残らないかもしれないけど、写真やビデオを残してあげたい。
 わたしたち家族がこういうのを好きなのはきっと「歴史」が好きだからだと思う。夫の秘蔵品は以前NHKで放送された「映像の世紀」のDVD-BOX。20世紀の歴史が映像によって残されている貴重な資料だと思う。
そういう意味で、世間の関心度がどの程度の物であれ、とりあえず世界的行事である万博が日本で開催される数少ない機会に居合わせたのも一つの摂理かと思うと、是非行っておきたい、と思ってしまう。
 映画「となりのトトロ」に出てくる「サツキとメイの家」は是非行きたいと思っていたのだけど、チケットが取れない。チケットといっても無料なのだけど、コンビニエンスストア“ローソン”でだけ、発券されるというのだけどこれがものすごく入手困難なのだ。翌月分が前月の1日午前10時から予約できるのだけど、わたしが行った時には、10時から端末を操作しているけど、一向に繋がらない、という子連れの女性が、12時過ぎても頑張っておられた。あとでもう一度挑戦したら、11時台ですでにチケットは完売していたらしい。
まあ、有名歌手のコンサートでもチケットの入手は困難で、電話や端末の繋がりにくい状態になるから、ある程度仕方がないとは思うけど、残念なのは、その日のうちにすでにネットオークションに出回っていることだ。コンサートのチケットはもともと有料の物だから、本当に行きたかったけど行けなくなった人が行きたい人に定価で譲るのならまだゆるせるだろう。わたしも実際、ネットオークションではなく、特定の歌手のチケット掲示板を利用したことがある。そこでは定価以外の取引は許されない。有名歌手のコンサートなど、抽選の場合はどれが当たってどれが外れるかわからないので、友人と協力して複数応募して、結果全部当たってしまったので譲るというケースもある。
 しかし、今回の場合は、もともと無料のチケットが、1枚5000円ほどもする値段で取引されているのだ。発売日当日なのに、「是非行きたくてローソンで粘ったのですが、その日行けなくなったのでお譲りします」と言うもっともらしいコメントのついているものもある。嘘だと決め付けては失礼かもしれないけど、本当だろうか、と思うのはわたしだけではないだろう。憤懣やるかたない。本来は、そういう高値でチケットを買えるセレブな人に見て欲しいのではなく、古きよき時代を知らない子供たちに見て欲しいのだろうに。いや、子供に見せてやりたくて、親がそういう高値のチケットを買ってしまうのかもしれないけれど。そう、残念なことには、チケットを出品する人がいるだけでなく、入札する人が多数いる、という事実だ。
 わたしは、そういうチケットは絶対に買いたくないと思う。のどから手が出るほど、欲しくても、やっぱり不正と分かっている行為には関わりたくない。どうしても手に入らなかったのなら、それもまた摂理と言うほかはない、と思っている。
 幸い、わたしたち夫婦は、「サツキとメイの家」だけが目的ではない。色々な国のパビリオンを是非見てみたい。フロリダのディズニーワールドに行った時も、敢えて、人気のマジックキングダムやアニマルキングダムよりエプコットに行ったわたしたち。そう、エプコットは、まさしくリトル万博だと思う。そのエプコットが大好きなわたしたちには、万博は充分楽しめるイベントだと思う。
 色々な国の文化に触れたり、最先端の科学技術に触れたり、万博本来の楽しみを満喫してきたいと思っている。そして、歴史の狭間に生かされていることを実感したいと思う。
ま、理屈より何より、楽しめればいいんだけどね!
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# by s_soranotori | 2005-04-03 15:46 | 雑感
2005年01月17日
 今日は、あの阪神淡路大震災10年目だった。
 実は、この「シリーズ あの日を忘れない」は以前から考えていて、第1回は、別の内容を考えていた。
でも、その第1回のために、あるものを探していたのだけど、それが見つかるより先にこの日が来てしまった。
 そう、今日は、あの日から10年目。
「あの日を忘れない」というより「忘れられない」方が、たくさん、たくさんおられることだろう。
 わたしも、未だに震災のことになるととてもナーバスになる面がある。
わたしは、震災の映像を見るのが今でも辛い。
当時も、ニュースとか見られなかったけれど、今でも、やっぱり辛い。
15日、阪神淡路メモリアル集会で、関西CANの皆さんのバックで流れる震災の映像を見て、涙が止まらなかった。
わたし自身は、そう大きな被害があったわけではないのに…。
そう思うと、もっともっと過酷な運命にさらされた皆さんの心中は…と、考える時、ことばもない。
ただ、祈りあるのみ…。
 こんなわたしが震災のことを語るのが憚られる気がするほどだ。
それでも、やっぱり、わたしにとっては忘れられない出来事だった。

 その日、西宮の自宅にいたわたしは、ドーン、と何かわからないショックと共に飛び起きた。
後にも先にも、あんなに素早く、布団から起き上がったことはないし、再現しようとしてもできない。縦揺れの瞬間とほぼ同時に起き上がっていた。そうでなければ、横揺れがきてからでは立ち上がることは不可能だっただろう。
 わたしは床に布団を敷いて寝ていた。立ち上がってすぐ、姉が寝ているはずのハイベッドにつかまり、姉を起こそうと手を伸ばしたが、姉はすでにベッドにいなかった。その日は早朝から用があって出かける予定だったので、5時過ぎに起きていたらしい。
 わたしは、ベッドにつかまっていたので何とか立っていることができた。
揺れがおさまって改めて部屋の中を見ると、わたしが寝ていた布団の上には、TVがごろんと転がっていた。クローゼットの扉も外れていたかもしれない。外はまだ暗かったし電気もつかなかったので、よく覚えていない。
 正直に言うと地震直後のことは良く覚えていないのだ。気が動転していたからだろう。
 姉は洗面所にいたらしいけれど、当時まだ神棚のあった我が家の、神棚に蝋燭やライターがあるのを思い出した姉が明かりをつけてくれて、祖母の部屋に集まった。後で考えたら、ガス漏れがなくてつくづく良かった。さすがの姉もそこまでは気が回らなかったので。その日、父と母は、東京の寄席に出演中で留守だった。
 わたしは神学校に仕事で向かうはずだったが、それどころではなかった。日が昇るにつれ、少し離れたところで火事らしき煙が立ち上っているのが見えた。
 とても寒かった。
わたしは、熱が出てきた。38度5分くらいまで上がっただろうか。
わたしたちは3人、電気の入らない祖母の部屋のコタツで震えていた。
家は無事だったけれど、家の中はメチャクチャだった。
 いつも、何かあるとかけてつけてくれる、父のお弟子さんがいた。少し距離はあるけれど、同じ西宮市内に住んでいるので、自転車で見に来てくれた。自分の家も大変だったので、とりあえずわたしたちの無事を確かめて、反射式のストーブを倉庫から出して行ってくれた。
 熱があったわたしは、とにかくショックと熱でぐったりだった。祖母もショックを受けていた。姉一人が気丈に頑張って、あちこちでかけて様子を見てきてくれた。近くの171号線の陸橋が落ちていると言う。
教会に行く途中では電信柱が倒れて車は通れなくなっていると言う。あちこちで家も崩れているとの事だった。
 しばらくして、友人の家と連絡が取れたら、友人のところは電気が使えるという。家にあったパックご飯をレンジで温めさせてもらうために車で出かけた。普段15分の距離、1時間もかかった。
 どこに行けば水をもらえるのかもわからなかった。
やっと給水車が来るらしいという情報を得た時には遅くて、後の方に並んだ姉の前で、水もおにぎりもなくなってしまった。
姉が教会の様子を見に行ってくれた時に、教会の近くの畑で、水を汲ませてくださることがわかったので、そこまで車で水を汲みに行った。どんな容器を持っていったのか、それは忘れてしまった。ただ、反射式のストーブで水を沸かしたお鍋の底に砂が溜まっていたことは覚えている。
飲料水でないことはわかっていたけれど、そのお湯でわたしたちはカップ麺を作って食べた。

 それでも、わたしたちはとても恵まれていた。
住んでいたところが西宮北口まで徒歩圏内だったし、家も建物は無事だった。
不便ではあったけれど、そのままそこで生活することができたし、梅田から西宮北口まで、確か翌日くらいから、阪急電車の徐行運転が再開したので、大阪の親戚やお弟子さんが、次々と訪れて、食べ物や水を持ってきてくれた。

 数日後、だっただろうか。尾篭な話だけれど、ある時、わたしは、どうしても、普通のお手洗いで用が足したくなった。水洗トイレは、いくら汲み置きの水があっても、不用意に流したら、もし下水が分断されていたら、大変なことになると聞かされていたので、バケツなどを利用していた。それがどうにも辛くなってしまったのだ。
それで、わざわざ電車に乗って大阪まで出かけた。
 梅田駅に着いた瞬間、わたしはめまいを覚えた。そこには、震災前となんら変わりのない世界が広がっていた。
シャンデリアのようなキラキラした照明。17番街はふかふかとした絨毯が敷き詰められていて、お手洗いはとても綺麗だった。そこで顔を洗っていた女性もいた。
 こんな世界があったんだ…と、とても不思議な気持ちがした。
西宮北口までの道は、家が崩れて通れなくなっているところが何ヶ所もあった。
自分の周りでは目に入る景色が今までとは何もかも変わってしまったというのに…。

 それでも、わたしは、辛いとは言えなかった。
周りの、もっともっと大変な状況を見ていたし、亡くなられた方も大勢いた。神戸の叔母の家が全壊だったし、父の友人にも亡くなられた方があり、父もショックを受けていた。
それより何より、毎日毎日、生きることに精一杯だった。

 しばらくして、ライフラインが復旧し始めた。
少しずつ、日常を取り戻す中で、やっと自分のなすべきことを思い出し始めた。
 2号線や43号線などの幹線道路は使えなかった。それでも、月末には明石の神学校までどうしても行かなければならなかった。神学校の仕事もさることながら、宣教事務局の仕事は、どうしてもしなければならなかった。宣教献金を取りまとめて、計算し、国内外の10組の宣教師に送らなければ、宣教の働きが続けられない。どの宣教師も、1ヶ月でも送金が滞れば大変な状況だった。
 それまでわたしは火曜日の朝に神学校に行き、水曜の夜の集会に西宮に戻り、木曜にまた神学校に行き、金曜日に戻ってくるという生活だった。
しかし、明石と西宮を頻繁に行き来するのはとても大変だった。
そこで、火曜日に出かけ、水曜日は神学校の近くの教会の祈祷会に出席させていただき、金曜日に家に帰る、という、神学生時代と同じペースになった。
 神学校も、半壊で、かなりの部分が使えなくなっていた。
当時神学校の1年生だった夫は(もちろんその頃は、その人が将来の夫になる人だとは夢にも思っていなかったけれど)結局、神学校の3年間のかなりの部分を神学校の復興工事に費やすことになってしまった。当時の神学生は本当に気の毒だったと思う。

 わたしは、水曜日に祈祷会にいっていた教会の方々と一緒に避難所におぜんざいを持って出かけさせていただいたこともあった。
何もかもが貴重な経験だった。

 先ほども書いたけれど、わたしは、ずっと震災の経験を、「辛い」と言うことができなかった。もっともっと大変な状況の人たちがあまりにも多かったから。
 友人のご主人は、震災の直接の被害ではなかったけれど、震災後の仕事上の過労によるストレスから震災後数ヶ月して突然に召されてしまった。別の友人は家が全壊して仮設住宅に入っていた。
 春休みには、家が全壊した従妹たちを、親戚たちでお金を出し合ってディズニーランドに連れて行ってあげた。
でも、その数日前に、東京では地下鉄サリン事件が起きていた。
 なんだか異様な空気が日本を覆っていた時期だったような気がする。

 わたしは、数年たって、ある時、東京の友人宅で、たまたま震災の話になったとき、涙が止まらなくなった。
あの時、とても「辛い」なんて言える状況ではなかった。家が無事だった人は被災者とは呼んで貰えなかった。でも、やっぱり震災の「辛さ」を味わったのだと思う。
「辛い」と言えないことが辛かった。
そんなことを話して嗚咽した。

 今回、新潟の大震災の後、新潟で出会った一人の姉妹に、「家は無事でも、あの揺れを経験しただけで『被災者』ですよね」と声をかけさせていただいたら、涙ぐんで「怖かったんです」と言っておられた。同じ思いをしておられる人が、他にもおられることだろう。

 わたしは、今でも「遠き国や」(関東大震災の時に作られた曲で、「揺れ動く地に立ちてなお十字架は輝けり」という歌詞が印象に残る歌)を賛美する時、涙があふれることがある。
それでも、昨年、新潟の教会で特別賛美させていただいた時は、やっと泣かずに歌うことができた。(個人的には「新聖歌」に「遠き国や」が取り上げられなかったのは残念でならない。あの曲ほど、震災の時に励ましとなった曲はないほど…と、思うのに…)

 わたしは、あの震災を経験できたことは、個人的には幸いなことだったのだと思っている。
確かに辛い経験ではあったけれど、生きることだけに必死になれた日があったこと、ただ生かされていることに感謝できたこと、それらの経験は、したくてもできるものではない貴重な経験だったと思う。
 ただ、あの震災であまりにも多くのものを失われた人々のことを思う時、「震災に遭ったことは幸いでした」と、声に出して言えないものがある。

 それでもあの震災は、日本に、随分大きな影響を与えたのではないかと思う。
多くの人が、愛、勇気、助け合いについて学んだ。
そしてクリスチャンたちは何よりも、イエス様の癒しが必要であること、イエス様の救いが必要であることを痛感した。生き残ったわたしたちは、イエス様の愛を宣べ伝える責任があると…。

 わたしは、あの日を忘れない。
かみさまが、大地を揺り動かされた。
わたしの心を揺り動かされた。
そして、心のうちの揺り動かされないものを確信することができた。

 今、全世界で同じ痛みを味わっている人たちがいる。
もっともっと、耐え難い苦痛を味わっている人たちがいる。
自然災害もあれば、戦争やテロなどの人災もある。
それらの人のために、祈り続ける者でありたい。

 読み返してみると、書いていることはばらばらだ。
震災を通して教えられたことでさえない。ただ、記憶の断片を書き留めただけだ。
風化していきそうな、あの日の記憶…。
だからこそ、今書いておきたかったのでもあるけれど。
 わたしはあの日から何をしてきたか。
何を祈ってきたか。
もう一度、問い直すことから、始めたいと思う。
 誰かに読んでいただきたいと言うよりも、わたし自身の記録として、震災10年目の2005年1月17日に記す。
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# by s_soranotori | 2005-01-17 00:00 | あの日を忘れない
 一番好きな詩人は、子供のころからずっと新川和江さんなのだけれど、もう1人、気になる方が居て、先日、その方の詩集をぱらぱらとめくっていたら、心にずしりと感じる詩があった。
 その方、というのは茨木のり子さんなのだけど、茨木のり子さんの詩は、心地のよい響きの中に、時折手厳しいことばがスパッと心に入ってくる。
 「自分の感受性くらい」という詩では、

  自分の感受性くらい
  自分で守れ
  ばかものよ

と、ばっさりやられた。
もちろんこの1連だけを読んでも、この詩の味わいは伝わらないのだけれど。
 今回心に「ずしり」ときた詩は、「倚りかからず」と言う詩集の中にある。
 この詩集の表題になっている「倚りかからず」という詩は、自立した女性のりんとした強さを感じさせる詩で、これはこれで背筋がビシッと伸びる思いのする詩ではある。
この詩に惹かれてこの詩集を買ったのだけれど、今回、今まで読み過ごしていた一篇に目が留まった。
 タイトルは「マザー・テレサの瞳」
クリスチャンでない茨木さんが、どのように、マザー・テレサを見ておられたのか、とふと気になって読み返してみた。
そのなかで心にとまった一節

   外科手術の必要な者に
   ただ繃帯を巻いて歩いただけと批判する人は
   知らないのだ
   瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
   慰藉(いしゃ)の意味を
   死にゆく人のかたわらにただ寄り添って
   手を握りつづけることの意味を

   ――――言葉が多すぎます
   といって一九九七年
   その人は去った

 この詩を読んで、改めて、マザー・テレサのした偉業に思いを馳せた。
 わたしは、愛を表したいと、神様の御心を行いたいと願っていながら、何と偽りの多いものか。
悪戯に言葉を並べていながら、わたしの内には、何も、愛のひとかけらもないことを示されている。
 わたしは高慢で自己中心、いじわるで心が狭く、薄情で冷淡、短気で人を責めやすく、自分の心は僻み、人を嫉み、口では立派なことばかり言う者だ。これほどまでに愛がないか、と思い知らされることばかりだ。
 本当に苦労した人は、「わたしは苦労しました」などとは言わない(それを敢えて言わなければならない状況でない限り)。本当に愛のある人は「わたしは多くの犠牲を払いました」とは言わない。「忍耐しました」とも「わたしは寛容です」とも言わない。ただ、黙ってそうするのだろう。そして、マザー・テレサは正にそのような人だっただろう。
クリスチャンではない多くの人の心を動かした、マザー・テレサの無言の行い、無言の愛の瞳は、どんなにか、深い色をしていたことだろう。
わたしとは程遠いことだけは、間違いない。

 わたしも、マザー・テレサのようにはなれなくても、せめて、わたしに神様が与えてくださった道を、まっすぐに歩むものとされたい。
 神様、わたしに愛を与えてください。


引用:
「自分の感受性くらい」:茨木のり子、花神社刊、「自分の感受性くらい」より
「マザーテレサの瞳」:茨木のり子、筑摩書房刊、「倚りかからず」より
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# by s_soranotori | 2005-01-08 00:00 | 雑感

プロジェリアの少女

 先日、遺伝子だか、DNAだかがどうとかいうTVを夫が見ていた。
わたしは家事をしていたり、詩音ちゃんとお風呂に入ったりで、一番最後のパート(?)を、それも途中から見た。
 カナダに住んでいる一人の少女、人の7,8倍のスピードで、細胞が老化していってしまう難病の少女のことが紹介されていた。つまり、13歳にして、すでに肉体年齢が100歳程度に達しているという。プロジェリアと言う、難しい名前のその病を負った子供たちは世界で30人ほどだと言う。その子供達の平均寿命は13歳…。
 神様はどうしてこのような病気も作られたのだろう…。
見ていて涙が溢れて溢れて仕方がなかった。
 例えば、肢体にハンディキャップを持っている人を、「かわいそう」だと思ってはいけないと思う。わたしも、難病と言われる持病を持っていても「かわいそう」と思われたくはない。
そう考えれば、この少女も、「かわいそう」ではないのかもしれない。神様に与えられた誰よりも濃い時間を歩んでいるのだろう。それでも、13歳の少女の口から「I prepare to die.(字幕では「わたしは死の覚悟ができています」)」という言葉が出るのは、普通のことではないと思う。
 それでも、その母親は、その少女に兄弟を与えてやりたいと、第2子の出産を決意し、出産する。たとえ、次の子供もプロジェリアであったとしても、また他のどんなハンディキャップがあっても、産む以外の選択はないと言う覚悟で…。すごいお母さんだなあ、と思った。見ればまだ若そうな女性だったけれど…。
 見ていて、途中で気がついたのは、この親子がクリスチャンであるということ。母親は、教会で出会った人と再婚した、と紹介され、就寝前に、その女の子とお母さんはお祈りをしていた。
 だからこそ、お母さんは、たとえ、どのようなハンディを持つ子供でも生む、と言い、少女は「死の備えができている」と、言うことができたのだろうか…。
 いや、そんな簡単なものではないのだろう…。そこには想像もできない、心の葛藤も、苦しみもあった上での決断であり、言葉なのだろうと思う。
 その親子を見ていながら、わたし自身は、日々の歩みを、日々の命を、どれだけ大切にしているだろうか、と改めて、考えさせられた。
 いつも言っていることだけど、わたしは明日、天に召されても良いと思っている。
人は、多かれ少なかれ、死と隣り合わせの日々を送っている。
その少女は、肉体年齢も100歳かもしれないけれど、きっと、内面的にも、普通の13歳よりもずっとずっと濃い命の日々を送っていることだろう。
 わたしも、そして詩音ちゃんも夫も、人は皆、明日をも知れない命なのだから、もっともっと、今日の命に感謝して、今日の命を大切に生きなければいけないのではないか、と深く心に思わされた。

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。
これは、もはや自分自身を頼まず、
死者をよみがえらせてくださる神に
より頼む者となるためでした。
コリント人への手紙第2、1章9節


今、少しネットで検索してみたら、この少女のことは、2003年の3月、2004年3月にも、TVで紹介されたらしい。今回で3度目なのだと初めて知った…。本も出版されているとのこと。
自分は、世の中で起こっていることに疎いものだと、改めて感じた…。
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# by s_soranotori | 2004-12-22 00:00 | 雑感

またまた子育てのこと

 教会の内外で、ちょっと色々あり、子供を育てる、ということについて、少し考える事があった…。
少し前にも、子育てのことを書いたけれど、もう少し、具体的なことを考えさせられた…。

子供を育てるとはどういうことなのか。
最近の子育ては、昔とは随分変わってきていると感じる。
わたしが子供のころは、それなりに罰が伴った。
わたしが育った家庭は、それほど厳しいとは思わないけれど、「お約束」をして、それを破ったら「おしりペンペン」か「やいと(お灸)を据える」か、どちらか自分で選ばなければならなかった。
更に小さい頃、親は危ないことだけは叩いてでも教えてくれたそうだ。

 今は、決して叩いてはいけない、体罰はいけない、どんな事があっても…。と言われている。
 果たしてそうだろうか?
 わたしの母は、決して物で叩かなかった。自分の手のひらの痛みを感じながら、その手で叩いたのだそう。
あとで、優しくおしりを覗いて「赤くなってへんか…」と心配してくれたこともあった。
そんな親に叩かれたからといって、わたしはゆがんだ恐怖感を持ったとは思わない。
むしろ、親が自分のために叱ってくれていることがわかっていたように思う。

 わたしには、一般に体罰を認めないのは虐待への抑止であるように感じられる…。
 今、わたしは、子供を叩いて叱ることはほとんどない。
かといって決してないとも言えない。
ただし、一度だけ、母が、感情的になり、物で叩かれた事があり、それだけは心に、澱のように残っていることを自分でも肝に銘じている。
感情的にカッとしている時は、絶対に手を上げない。
 しかし絶対にいけないことはいけない、危険なことは危険、と教えなくてはならない。
そのための鞭は差し控えてはならないのだ(もちろん文字通り鞭を使うという意味ではないが)。

 子供は親をおそれなくてはならない。それは恐怖ではなく、尊敬するということ。
それはすべての「畏れ、敬い」の原型となる。
 わたしは、不思議なことには父に叩かれたことは一度もない。それどころか、叱られた記憶すらほとんどないのに、母よりも、むしろ恐いのは父だった。
家の中で、「師匠」として、厳然と存在していた父を畏れていたのかもしれない。
 今は、全般的に親を親とも思わず(「友達親子」という便利なことばもあり)、縦の関係(上下関係)を嫌い横のつながりばかり大切にする風潮があるのではないか…。
しかしそれでは、神を畏れ敬うということまで、おぼろげになってしまうのではないだろうか、と少し心配になる。

 子供は、親に守られている。
子供は、危険な場所を、あらかじめ教えられる。
確かに、落ちてみればその痛さはわかる、けれども、大怪我をして命取りにならない程度に、親は子どもを守る責任があるだろう。
子供がある程度、意思を持って主張する年代になっても、やはり成人するまでは(単に年齢的な意味ではなく)、やはりその責任は親にあるのだろうと思う。
 なんでも自由にさせる、物分りのよい親を子供は好むだろう。
しかしそれが必ずしも子どものためにはならないだろう。
自由と放縦、規制と拘束は違う。

 最近、どこまで自由にさせてやるべきか、どこまで待ってやるべきか、子供の意思をどこまで尊重すべきか、考える事がある。

 まだまだ、わたしの子育ては始まったばかり。手探りの状態が続く…。
 しかし、結局のところ、自分の受けてきた体験が基礎になるのではないかと思う。
少なくともわたしは、自分の親が、わたし自身を非常によい育て方をしてくれたと思っているので、聖書の概念や、新しい情報も取り入れながら、その体験に基づいて子供を育てていくのだろう、と思う。

 両親は、夫婦で話し合い、相談して、育児の方針を決めたのだそう。
また、両親は、ある意味で非常に強い信念のようなものを持っていたように思う。
 もしかしたら、その信念が、わたしを意志の強い人間に育ててくれたのかもしれない、と思う。(ただし、意志が強いと言っても、自分には甘い人間で、自分を律することに関しては必ずしも意思が強い訳ではなく、自分の夢や希望に対して、意思が強いだけだが…)
そういう意味で、わたし自身も、親が子供に示すことのできる「信念」のようなものを、断固としてもって生きたいと思う。
 わたしの親は、ほとんどのことは何でも自由にさせてくれた。
しかし、それがわたし自身のためにならないと思うことは、断固として許されなかった。
或いは、「待つ」ということを非常に教えられた。
夫でもあるわたしの牧師はこの「待つ」ということの大切さを時々語る。
多くのことを「待つ」忍耐が「待ち望む信仰」を育んでくれるのかもしれない。

 今、子供がどんな学校に行くか、どんな職業につくか、何になるか、そのようなすべてのことに優先して、主、イエス・キリストに導くことが親の最大のつとめであると思う日々の中で、いずれにしても、子供を持つ初めから、イエス・キリスト信仰を持ち、御ことばの土台の上に立っていることは、何よりも心強いことである。
そう感じると共に、だからこそなおさら倒れないように心がけなくては、と思うこの頃ではある。

子どもたちよ。
主にあって両親に従いなさい。
これは正しいことだからです。
「あなたの父と母を敬え。」
これは第一の戒めであり、
約束を伴ったものです。
すなわち、
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」
という約束です。

エペソ人への手紙6:1~3

 従わせられる親、敬われるに値する親にならなければ…(~_~;)。

 先ごろも、ある牧師家庭に育った若い伝道者と話す機会があった。
「自分が子供のとき、両親はいつもいつもそばにいてくれた訳ではなかったが、必要な時にはいつでもそばにいてくれました」
と彼は語っていた。
 いつも子供のそばにいなくても、本当の、子供の必要を見極め、すかさず手を伸べることが出来る親になりたい、とわたしも思わされた。

 前回、子育てのことを書いたのと重複するけれども、わたしが、クリスチャンとして育った土壌では、牧師たちの子供の多くが伝道者になっている。多分5割以上の確率、もしかしたら8割位にのぼるかもしれない。
わたしはそういう世界しか知らなかったとき、伝道者の家庭に育てば、子供は自然に神様の素晴らしさを知るかのように思っていた。しかし、その群れを離れ、外へ出たとき、伝道者の子供が教会にさえつながっていないケースが多々あることを知った。
それはわたしにとって大きなショックだった。
 わたしは、上手く子供を神様に導くことが出来るのだろうか。
自分自身が、家庭の中で神様の素晴らしさを信じ、語り続けることが何より大切だと思いながら、ともすると呟きが多くなる。こんなわたしではいけない。もっともっと…。
 いや、そうじゃない。
神様に委ねること、そして、自分自身が恵みの中に留まること、そして、何が正しいことなのか、基準と信念を持って教えること、そしてヴィジョンを見ること。
やはりそこにたどりつく。
 子供に愛されたい、子供に好かれたいと子供の顔色を見て機嫌を取ることはたやすいけれど、それが子どものためになるとは限らない。いやむしろ子どものためにならないことのほうが多い。
 人は「子供は純粋だ」という。確かに神様を純粋に信じやすいものだろう。その半面で、世の影響もそれだけ受けやすいということ。わたしは、偶像と闘った時のように、身を持って、正面切ってぶつかっていかなければならないのだ、と最近思わされている。

 偶像問題、結婚問題、妥協との闘いだった。長い闘いだった。その末に見た祝福を思うとき、子供のことも、どんなに辛くても、子どものために闘っていかなくてはならないと思うことがある。
 偶像問題、結婚問題も、自分ひとりの力で闘ってきたわけじゃない。主が闘ってくださったのだ。
今また、子供の心のうちにある罪と、そして世の力と、主に力を頂いて闘っていきたいと思う。
その背後にある祝福を信じて。
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# by s_soranotori | 2004-08-18 00:00 | 育児