あんな事、こんな事、日々思う事、etc. …徒然なるままに…。


by s_soranotori
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 掲示板に、なぜカレンダーは日曜始まりが多いのか、という書込みがありましたので、こちらに、書かせて頂きます。
 実は、カレンダーは日曜始まりで正しいのです。日曜日は、週の初めの日です。
神様は、日曜日に創造の業を始められたのです。
 もともと、安息日というのは土曜日でした。ユダヤ教では今でも土曜日が安息日です。
 では、なぜクリスチャンは日曜日に礼拝するかというと、イエス・キリストが復活されたのが日曜日だからです。(マタイの福音書28章1節)(他にも理由がない訳ではないようですが、これが大きな根拠の一つであることに違いないと確信します)
 初代教会(特に初期の頃)の人々は、ユダヤ教徒が多く、もともとは土曜日に安息日を守っていた人々でしたが、イエス様の復活、昇天後、イエス様が復活された日に集まるようになっていきました。ただ、初代教会の人々はほとんど毎日のように集まって祈ったり賛美したり、福音をのべ伝えたり、という集会を持っていたようです。(使徒の働き2章46節、5章42節)。そういう意味では、日曜日しか、礼拝しちゃいけないという訳ではなく、最近都市部では、ニーズに合わせて、月曜礼拝、火曜礼拝など、週日にも礼拝日が設けられている教会もあります。
 また、クリスチャンの守っている礼拝はユダヤ教の「安息日」とは基本的に意味合いが違うので、混同しないように注意する必要があります。

 また、曜日の名前、つまり「日曜」「月曜」といった呼び名は、聖書とは直接関係がありません。もともと、週の始めの日、終わりの日、と言っていただけでした。多分、間の日は、週の第何日、とかだったのかもしれません。これはちょっと分かりませんでした。
 それぞれの曜日に名前を付けた起源は、古バビロニアにあるといわれています。それが、ユダヤ人を通してローマに伝わり、アングロサクソン族に伝わっていきました。細かい経緯は省きますが、曜日の名前はそれぞれ、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の神々の名前にちなんでつけられています。
 当然、キリスト教界は、当初、この占星術的、異教的背景を持つ名称の導入には慎重でした。が、ローマ時代に行われていた「太陽崇拝」がキリスト教の伝播と共に、「真の義の太陽であるキリスト」の礼拝に取って代わられるにつれ、「太陽」にキリスト教的意味づけがなされるようになりました。そして321年には、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世によって日曜日を休日とする法令が発布され、クリスチャンもこの頃から週の始めの日を「日曜日(太陽の日)と呼ぶことが受け入れられていったようです。

 日本にこの七曜の考えが入ってきたのは中国からですが、中国に伝わったのはキリスト教(景教=正統キリスト教会からは異端とされたネストリウス派は東方に伝わり、中国で景教と呼ばれるようになり、日本にも古くから伝えられていました)の影響です。日本にもこの景教を通して伝播したようです。

 ところで、この七曜という考え方は、1000年以上昔に、ヨーロッパと中国・日本に別々に伝わったにもかかわらず、全くずれはなく、ぴったりと合っていたそうです。確かに現在では全世界で同じ曜日が使用されていますが、これは国際化と共にあえてどこかで統一したのではなく、最初から全くずれていなかったということです。
 これも神様の摂理に基づいている故なのかな、と、今回調べている中で、改めて感じました。
 
 ついでにちょっと「西暦」のことについても触れておきましょう。
 現在使用されている「西暦」がはじめて提唱されたのはAD531年、イタリアの修道士ディオニュシウスによってでした。当時のキリスト教世界では、ずっとローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位の年(AD284年)が紀元年とされていました。つまりディオニュシウスがキリスト生誕紀元を提唱したAD531年というのは、当時の数え方では247年でした。ディオクレティアヌスといえば、ローマ帝国全土にわたるキリスト教迫害で非常に有名な皇帝なので、これを嫌って新しい年号を提唱したといわれています。A.D.とは、ラテン語で「我らが主の年」を意味する、Anno Dominiのことです。
 とはいえ、この年号が全世界に広まるには非常に時間がかかり、ヨーロッパやキリスト教国以外の世界にまで広がったのは13世紀頃だそうです。
 また、紀元前を表すB.C.とはBefore Christのことですが、こちらが使われるようになったのは、17世紀頃からだそうです。

 ただし、いずれにしても、ディオニシウスが計算していたキリストの誕生年は、3年程のずれがあり、現在では、キリストの誕生年はBC4年というのが定説になっています。
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# by s_soranotori | 2004-01-06 00:00 | 雑学

年越し

 今年も残すところあと2日。
早いな~。信じられない。でも、信じようと信じまいと年は暮れていく。
 父の得意ネタの一つ「宗悦殺し」という怪談噺の中で、今で言うマッサージ師の宗悦がお金を貸していた先に「お金を返してもらわないと年が越せません」ということを言いに行くと先方が「越せねば越すな!その方が越せずとも年のほうで勝手に越していくわ!!」という科白がある(多少違うかもしれないけど、まあそんな科白)。
 確かに、家が散らかっていても、家計簿つけてなくても、車を洗っていなくても、年は勝手に越していく。
 結婚前に通っていた教会の牧師先生(アメリカ人宣教師)がいつも、「日本人はどうして年末になるとみんな車を洗うのですか?」と不思議そうに話しておられたのを思い出す。
 ただ、普通に1日が過ぎていくだけなのに12月31日と1月1日では何か全然違う日という気がするのはなぜだろう・・・。
 そんなことを言ったら誕生日だって、昨日と一日違うだけで、年が一つ増えたからどうってことはない、って思うんだけど、やっぱり特別な日なのだ。
 日付、ってなんだか不思議だ。
クリスマスじゃなくても、いつもイエス様が生まれてくださったことを覚えるべきだし、イースターじゃなくても、いつもイエス様が復活されたことを信じているはずなんだけど、やっぱりその日が来ると特別な思い入れを持って臨む。
本当は1日1日が二度と来ない大切な日なのに。
 今日の決断、今日の選択が明日を左右する。極端に言えば、道を右に曲がるか左に曲がるかで出会う人も変わるのだし、それによってもしかしたら人生を左右する人と出会うかもしれないのだ。
まあ、あんまり考えすぎると道も歩けないけど。
 そんなことを思いながら、2003年という1年が過ぎてゆく。
今年は、暮れ近くになってこのサイトを始めたので、年末になって色んな人と出会えた。両親のバプテスマもあって、年の前半を忘れるほど、充実した下半期だった。
 厚かましいようだけど、来る年もまた、神様の豊かな恵みを期待しつつ、新しい一歩を踏み出したい。
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# by s_soranotori | 2003-12-30 00:00 | 雑感

「ことば」について

 最近、コミュニケーションの道具としてのことばの用い方の難しさについて考えたことで、以前読んだある本に書いてあったことを思い出した。
それは、井上ひさし氏の「自家製文章読本」という本の中に書かれていたことばで、その本のおよそ結論とも言うべきところに書いてあった。易経の総論と言われる「繋辞伝」という書の中の一文だそうだ。
『書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。』
井上氏は大体次のように解説しておられたと思う(井上氏の文章を読んだわたしの解釈であることをご了承いただきたい)。
「文字はいくら詳しく書いても言葉で述べることを完璧に書き尽くすことは不可能だし、言葉はいくら頑張っても心の中に思っているところを完全に述べ尽くすことはできない。」
書いたものはいくら頑張っても話すことばに勝ることはできないし、いくら話したところで思いのすべてを伝えることはできない、ということだと思う。

 ふと中島みゆきさんが、ご本人の「全歌集」の巻頭に書いておられた文章を思い出した。
「これらの詞は、既に私のものではない。
 何故ならばその一語一語は、読まれた途端にその持つ意味がすでに読み手の解釈する、解釈できる、解釈したいetc.…意味へととって変わられるのだから。」
そこにはまた、「言葉は、危険な玩具であり、あてにならない暗号だ。」とも書かかれていた。
 人は、ことばを理解しようとするとき、それが書かれた文章であれ、歌であれ、語られたことばであれ、受け手の知識の範囲、また想像の範囲でしか理解できない。場合によっては、こうであってほしいという願望まで、その意味として取り込まれてしまうことがある。
結局、人が何かのことばを発する時、それを相手にどう理解させるかというところまで、厳密に特定することが、ことばにはできないのだ。ことばというのはそれ程、頼りないものでしかないのだ。
 にもかかわらず、今のところ、人が人に何かを伝える最も有効な手段はことばであると私は思う。ことばだけが伝達の手段ではないにしてもことばには確かに力があると思う。
 しかしまた、ことばが完璧なものではないからこそ、人間関係は面白く、人と人は解り合おうとするのではないかとも思う。極端に言えば“ことばは万能ではない”ということをふまえてこそ、なお、解り合おうという気持ちが育つのではないだろうか。
 確かに、話したってどうせわからないということも沢山あるだろう。しかしだからこそもっと解ろうとしたいと、わたしは思う。
時に、ことばは自分が思っている以上の力を発揮するこことだってあるのだから。
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# by s_soranotori | 2003-12-08 00:00 | 雑感

生い立ちと信仰

 わたしが信仰を持つようになったきっかけを、生い立ちとの関係で少し書いてみようと思う。
 辻谷氏のサイトの「Good news!」でも、少し信仰を持ったきっかけを書いたが、今回はもう少し詳しくというか、別の側面で書いてみたい。
 大体、信仰を持つに至る理由は、一つではなく、色々なことが複雑に絡み合っていて立体的なものなので、これを文章という線状的性質を持つ媒体で表現することは非常に難しい。よって、書く(語る)ごとに違う側面が少しずつ現れたりするので、「前に書いていた(言っていた)ことと違う」のではなく、そういう一面もある、ということだと捕らえていただきたい。
 また、「Good news!」に書いたことと重複する部分もあるが、単独で読んで分かる文章にするためには、仕方がない部分もあるのでご了承いただきたい。

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 皆さんは「落語家」と聞いてどういう人をイメージするだろうか。実は「露の五郎」と聞いてもどんな顔かよくわからない、という方も結構おられるのではないだろうか。TVとか、マスコミに登場することが割に少ないので、そういう方がおられてもわたしはごく当たり前だと思っている。むしろ、父の名前を言っただけで「よく知っています!」と言われる方というのは「なんとまあ、奇特な方だろう」と思ったりする。
落語というのは実は非常に歴史のある伝統芸能だ。しかし、「落語」「落語家」というとどうしても「お笑い」というイメージが強いのではないだろうか。
 余談になるが、関東と関西ではこの「落語」の扱われ方が大きく違う。
 関東では、伝統芸能としての地位が確立しており、落語家といえば厳しい修行をしてきた文化人、というイメージがある。しかし関西において「落語」はあくまでも「お笑い芸」の一つであり、娯楽の対象だ。
 従来、どうも関西において「お笑い芸人」というのは一段低く見られる傾向があるように思う。今でこそ、吉本興業は上場企業で、有名人もたくさんおり、「おまえ、吉本行けるで」というのはある意味で「おまえ、おもろいやっちゃなあ」という誉め言葉になる。しかし、私が子供の頃に「おまえ、吉本行ったらええんちゃうか」というのは人を馬鹿にした言葉で、それぐらいしかなれるもんはないやろ、という意味だった。これは、明石家さんまさんなんかも言われていたことがあるように思う。
 そういう訳で、わたしは、どちらかというと人から一段低く見られるような仕事をしている父を持っていた事になる。
 昨今は、関西の落語家さんの中からも人間国宝や、叙勲を受ける方が出てこられ、関西における落語家の地位もかなり向上したかとは思うが。

 そうは言っても、わたしの育った家庭の中では、父は常にエライ人だった。父親の権威、父権というものが確立していた。父は芸人ではあったが大変真面目な人でまた厳しい面もあった。一時期は、夜の大人向けの番組によく出てたりして、結構遊び人というイメージで売っていたことがあった。しかし実際は、娘が言うのも何だけれども、非常に真面目な勉強家だ。
 しかしまあ、大阪の人というのは、やすし・きよしのやすしさんなどに代表されるように、多少くだけた人間、羽目をはずした人間のほうがオモロイ、という面があるので、うちの父なんかもそういうイメージを前面に出していた時期があったのではないかと思う。もちろん、そういう遊び心がまったくないという訳ではないが。
いずれにしても、家庭の中での父は厳しく、しつけもうるさい人だった。
 わたしは、目標を持って生きる、ということ、人道的に、道徳的に生きることを、小さい時からよく教えられたように思う。いや、改めて教えられたというよりは、家庭の中で自然と身につけさせられたというべきかも知れない。
 小学校から中学に上がる時に、将来何になるか考えて、それで中学を公立に進むか、私学に進むか、決めるように、と言われた。といっても私学に入れるだけのお金があったわけではないので、実際は公立中学に進むように誘導されていたのだけれど、とにかく目標を持つ、ということを教えられた。子供だから、まだ知識の範囲が狭いので、それが広がるにつれて変わってもよいが、とにかく、その時その時、目標を持って進むということが大事、と言われていた。
 実際、父に叱られたことはほとんどないように思う。しかし、うちの中で父は絶対的存在だった。3歳の時から内弟子さんが住み込んでいたので、自分が叱られなくても、お弟子さんが怒鳴られる姿を見て、怒らせたら怖い、ということはよくわかっていた。
しかし、わたしはそういう父のことに関して、自分では意識していなかったけれど、非常にプライドを持っていたようだ。またそれだけに「おまえのおとうちゃん、なんでテレビでえへんのや」などと言われると、非常に傷ついた。

 話はわたし自身のことになるが、わたしは中学1年生の時にいじめにあった。当時のいじめは、まだ今ほど陰湿ではなかったように思う。けれども、わたしは、自分のクラスだけでなく他のクラスの男子からも無視され、だんだんエスカレートすると「臭い、汚い」とあからさまに避けられ、輪ゴムのパチンコで紙礫の標的にされ、ある時は、体育の授業が終わって教室に戻るとクラスでこれまた一番馬鹿にされている男の子の机の上に、わたしの机をさかさまにして接着剤でくっつけてあったりしたこともあった。しかし、同じ学年にいた双子の姉はいじめられていなかったのだから、わたしのほうにも何か問題があったのだろうと、今になって思うこともある。
 ただ、わたしは、そういう経験の中からいつしか、そういうふうに自分をを傷つけたり、いじめたりした奴らを見返してやりたいと思うようになっていった。
 それとは別に、わたしは中学2、3年生の頃から舞台女優を目指すようになった。わたしは、芸能人の家庭に育ったことで、「普通」という感覚が人と少し違っていたのではないかと思う。会社員の家庭に育った方には会社員になることは普通だろうが、わたしには会社は何をするところかわからなかった。OLになるより、芸の道に進む方が「普通」だったのだ。芸能人の家に生まれ、子供の時から、歌舞伎、文楽、宝塚と芸事に親しんできたわたしにとって芸能界を目指すことは、ごく自然なことだったと思う。
 中学の時には、丁度ベルばらブームだった宝塚にどっぷりはまって宝塚通いをした。それと前後して歌舞伎にもはまって、今の片岡仁左衛門(当時・孝夫)さん、それと残念ながら今はもう亡くなられてしまった女形の澤村藤十郎さんの大ファンになり、関西に歌舞伎が来ると大阪、京都にもよく出かけた。
 父が落語家で得したこと、というのはそれほどないのだが、歌舞伎の方には色々と御縁があって、現仁左衛門さん、藤十郎さんを始め、仁左衛門さんのご兄弟、我當さんや秀太郎さん、坂東三津五郎(当時・八十助)さん、市川左団治さん、等といった方々とは何度もお会いさせていただく機会があった。
寄席にも、もちろんよく出入りしていた。子供の頃は父が吉本興業に所属していたこともあって、梅田花月、難波花月、京都花月とよく連れていってもらった。家にも、噺家さんがよく出入りされていて、特にもう20年近く前に亡くなられた林家小染さんと、桂ざこば(当時・朝丸)さんのお二人は、わたしが小さい頃、よく家にみえて、可愛がっていただいた。少し前に亡くなられた枝雀(当時・小米〔こよね〕)さんなんかも若い頃よく来られて、私の叔父の英語の家庭教師などもして下さっていたそうだ。また、数年前に、久しぶりに笑福亭仁鶴さんにお目にかかる機会があって、御挨拶すると懐かしそうに「大きなったなあ」と言われ、30歳をとうに過ぎて、今更大きなったもないなあ、とおかしくなった。
 また、わたしが小学生の頃だったか、間寛平さんが木村進さんと共に「寛平・進」で売り出し中で、よく楽屋口で大勢のファンの女性達が楽屋待ちをしていた。その中を「おはようございます」と、大人ぶって、業界人のような顔をして劇場に入っていくのはちょっとした優越感だった。
 小さい時から何度も、TVに出演した事もあったし、子供の時から、そういうふうに楽屋の雰囲気を味わっていたことも、私を芸能の道に進ませた大きな要因ではないかと思う。
 一時は宝塚に入りたい、とも思ったが、背も低いし、昔バレエを習っていた時に少し腰をいためていたこともあって迷っていた時に、新劇に出会った。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーの子供時代を描いた物語「奇蹟の人」という芝居に感動し、新劇女優になりたいと志すようになった。そして「こういう素晴らしいことを人々に伝えたい!」と思ったのだった。
 高校三年の時わたしは、大学進学する人が塾に通う代わりに大阪の劇団の養成所に通い、卒業後は上京し、演劇の専門学校(舞台芸術学院)に入った。とても楽しかった。毎日好きな芝居のことばかりを考えて、バイトをしたお金で芝居を見たり、ダンスや歌のレッスンに通ったりもした。
 それだけでなく、親元を離れたわたしは友人達とも自由に遊ぶことができた。未成年であったにもかかわらず、お酒を飲んだりタバコを吸ったり、大人の真似事をして、夜遅くまで、いや朝方まで友人たちと語り合った。
 しかし次第に、私は苦しさを覚えるようになってきた。時々自分の中がカラカラの空き瓶のようになっていることに気付いたのだ。
何かを伝えたいと思っているのに、それが何だか良くわからない。
 当時のわたしはヒューマニストであり、人間の愛の力といったようなものを信じていた。反戦運動や、人種差別問題など、様々なことに関心を持ち、社会を良くするのは、1人1人の人が、意識して変えていかなくてはならないのだと信じていた。自分自身、反戦行動に参加したこともあった。
 しかし、そのわりには自分は醜い、ちっぽけな人間だ。
 実は、わたしはそれまで、自分が結構きちんとした人間だと思っていた。高校は決して進学校という訳ではなかったけれど、大して勉強しなくてもいつもそこそこの成績を取れ、親にも厳しく躾られ、大人の中で育ったわたしは、一般常識をも備えていると自負していた。
 しかし、東京で1人暮しをしているうちにだんだん、自分のアラが、わたし自身にも見えてきた。本当の自分がさらけ出されてきたのだ。自分はいい加減で、嫉妬深く、少しも成熟した人間ではない。お酒を飲んでは友人たちと、他の仲間達のこきおろし大会をしていた。こんなくだらない人間であるわたしにいったい何ができるというのだろうか。
 わたしは人を信じたいのに信じられず、自分自身さえも信じられなくなっていった。
 そういう時に、以前友人の付き合いで行った教会のことを思い出した。なぜか、わたしは教会に行かなければならないと感じたのだ。私は、いつも電話をかける度に私を教会に誘って下さっていた一人の婦人に電話をした。
 その婦人は、教会に行く電車の中で、イエス・キリストがわたしの醜い心を知っておられ、そういう罪深いわたしのために、十字架にかかり、3日目によみがえってくださったという事実、そしてそれを信じるだけで罪が赦され永遠の命が与えられるということを教えて下った。
 その婦人は、一通り語られた後、「信じますか」と聞かれた。頭で考えるより先に、口が「信じます」と答えていた。その時わたしは、理想はあっても汚い競争社会に生きることに限界を感じており、自分の心の醜さを十分理解していた。そして人間にはそこから抜け出す力がないことを嫌と言うほど感じていた。ちょうどその時が神様の時だったのだと思う。1983年2月9日、水曜日のことだった。
 わたしは、その日以来、自分の人生がキリストによって変えられたことを、はっきりと自覚した。
以前は、何を伝えるべきか、それは曖昧なものだった。何か良いことを人に伝えたい、と思っているのに、それが何かを知っている訳ではなかった。お芝居をやるということを通して、台本を読んで、その作品が伝えようとしていることを学びながら、自分自身も成長していこう、という堂々巡りのようなものだった。
 しかし、今はイエス・キリストにゆだねられた福音という、伝えるべき真理を知っている。
 わたしは、有名になること、人に褒められることばかりを求めていた。有名になることで、自分を見下げた人たちを見返してやりたいと思っていた。
 しかし、それらのものを捨てて、イエス・キリストをのべ伝えること、それも舞台の上から大勢に語るのではなく、日々の生活の中で出会う一人一人の人に伝えていこうと思った。
 そして、「神様に、自分のこれからの一切をお任せします」と決心した時、自分をいじめた人々に対する恨みの執念も消えた。自分が握り締めていた「演劇」というものに、むしろ自分自身が縛られていたことに、その鎖から開放されて初めて気付いた。
 両親も初めは反対していた。東京からも連れ戻された。わたしも、親を裏切ったという思いがなかった訳ではない。しかし、わたしが、この道に進んでどんなにか幸せであること、喜びがあること、それを見せることしか、親を納得させる方法はないと信じて歩んできた。
とは言え、わたしの弱さを誰よりもよく知っている親を納得させるのは、口で言うほど簡単なことではなく、「クリスチャンのくせに」と何度も言われてきた。「あんたがクリスチャンになって良かったことなんか一つもない」と言われたこともある。
 しかし、今はその親も、わたし達夫婦の働きを、今の時代にとても大切なこととして応援してくれている。
 そしてすでに書いたように、わたしがイエス・キリストを信じて20年目の今年、クリスチャンとなりバプテスマ(洗礼)を受けた。これは、わたしの力でできたことではなく、ただ神様が与えて下さった恵みだ。わたしはただ感謝するほかはない。
 確かに、弱さも醜さもまだ持っている。しかしイエスさまによって赦された喜びが心にあふれている。
 今わたしは、日々、わたしなりにベストを尽くして精一杯生きている。このわたしをイエス・キリストが用いてくださるようにと願いながら。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3章11節
 わたしが、この時代のこの両親のもとに生れたことがなぜであるのか、私には分からない。けれども、これも神様の御計画の時であったのだということを感謝している。
 いつもどんな時でも、わたしたちの周りに溢れている一つ一つの出来事もまた、神様のなさったことであり、時にかなって美しいと、わたしは確信している。

(ずいぶん長くなってしまったけれど、これでもずいぶん端折って短くしたつもりなのだ。微に入り細に入り、何もかも一度に書こうとすると、長くなって仕方がないので、抜けてるところはまた、おいおい折に触れて書いていきたい。)
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# by s_soranotori | 2003-12-05 00:00 | 信仰・証し
 今日はShionの初めての音楽会だった。
去年の12月からの入園だったので、多くのことは今年初体験。
 最初は、観客に驚いたようだったけれど、すぐになれたのか、いつもの詩音ちゃん(^^)。
 最初は端っこの方に座ったけれど、だんだん移動して、ついにセンターポジション。スターの片鱗、なんてね(親バカ(*^_^*))。
 最初はお遊戯付きの歌で「どんぐりころころ」可愛い!!(^◇^)
しぐさの一つ一つに詩音ちゃんの癖が出ていて可笑しい。
 次はミルク缶で作った太鼓を首から提げて「おもちゃのチャチャチャ」に合わせてトコトコと合奏。赤ちゃんは、ジュースの空き缶のマラカスを振り振りしていました。

 それにしても最近の母親たちというのは、まったくしょうがない。まあ、わたしも最近の母親なんだけど。
 とにかく開演前から、おしゃべりのしっぱなし。
それも、ひそひそ声ではなく、普通声で。
園長先生の挨拶を聞いている人は何人いたか・・・。
 子供が入場してきてもおしゃべりは止まらず。演奏(歌)が始まると、少しは減ったけれど、それでも、静まりかえるということはなかった。子どもの演奏を聞きにきているのか、○○ちゃんのお母さんとのおしゃべりに来ているのか。
 もうちょっとで立ち上がって「あんたらちょっと静かにしたらどないやねん!」と啖呵をきるところだった。恥ずかしさが勝って、立ち上がれなかった。
 最近の親はこんな風だと、前に聞いたことはあったけど、目の当たりにして、本当に残念な気持ちでいっぱいになってしまった。

 そういえば、先日、姉と高槻の方の温泉に行ったとき、「浴槽内にタオルをつけないで下さい」と書いてあるにもかからわらず、腰に、タオルを巻いたまま、赤ちゃんを抱っこしたお母さんと小学生の女の子が湯船に入ってきた。
 わたしはこういうのが大嫌い。
書いたものが掲示されていなければまだいいのだけど、書いて貼ってあるのに平気でしているのが、どうも気になって仕方がない。
 でも、いきなり言うのも・・・、と思って、最初は我慢していた。姉に「あんた言うたら?」などと、ちょっと押し付けてみたり。
 しばらくして、露天風呂に移動したら、そこにも同じ親子が、さっきと同じように腰にタオルを巻いて入ってきて、キョロキョロしていたので、掲示に気が付くかと様子を見ていたけど、温泉の効能だけ読んで、その上の掲示には気付かずのんびりお湯に浸かっている。ついに堪りかねて『「タオルをつけないように」って書いてあるんですけど・・・。子供が真似をしますので』と言った。スッとした。
 悪気はないんだろうけど、公衆浴場でタオルをお湯につけないというのは最低限のマナーだ。TVの旅番組で、レポーターがタオルを巻いてお湯に浸かるのは、公序良俗と放送コードの問題。現実にお風呂屋さんでは、みんなが裸なんだから、恥ずかしがる必要なんかないのに。
 長い髪を結わないで、湯船につけている人も気になる。髪のことはいちいち書いて貼ってないので、あからさまに言うのも憚られて、なかなか言えないのだけど・・・。

 親がしていると子供もする。
 こうやって何もかもがナアナアになってしまう。ア~、ヤダヤダ!
 でもきっとわたしも、色々気付かないところがあるんだろうな。
人の振り見てわが振り直せ。わたしも気をつけなくちゃね。
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# by s_soranotori | 2003-11-27 00:00 | 育児

父と娘の信仰秘話

 この前私は、父のバプテスマの裏話をぶちまけた。あれだけではなんだか父が可哀想な気がしてきたので、父の、クリスチャンになるまでの道のりを、娘から見た目で綴ってみようと思う。

 父は、家庭的に恵まれた人ではなかった。だから余計なのだろうけど、非常に芸人らしい部分を持つ反面で、とても家庭的なところがあった。
 新しい物好きなところがあって、8ミリを自分で撮影していた。今のようにまだホームビデオのない時代のことだ。私がまだ赤ちゃんの頃からの映像が我が家には残っている。一年に一度、今はなくなってしまった阪神パークの菊人形を見に、家族やお弟子さん、同居していた母の兄弟まで一緒に出かけた。小学生の頃に、学校を休んで家族旅行に出かけたこともある。
 しつけには厳しかったが、とても優しい父だった。
 私と姉が、TVドラマ「サインはV」に夢中になっている頃、仕事でそのキャプテン役の方と一緒になったらしく、サインをもらってきてくれたこともあった。中学時代、アニメに夢中になっていた時には、どこかの本屋で売っていたからとセル画をたくさん買ってきてくれたこともあった。仕事柄、すれ違いが多かったはずなのだけれど、逆に様々なエピソードが思い出になっている。

 家族の中で、父と私はどちらかというと性格が似ている方だ。私を知っている人からは「うそや~」と言われることは必至だけれど、敢えて言うなら、父と私は陰、母と姉が陽の性格だ。いや、むしろ凹凸に例えたほうが良いかもしれない。父と私は凹、母と姉は凸。だから母と姉はよく喧嘩する。決して仲が悪い訳ではないのに喧嘩する。凸の出っ張った部分同士が摩擦を起こすらしい。父と私は、むしろ会話が少ない。決して仲が悪い訳ではないのだが、そんなに話が弾む方ではない。
 
 そんな父が、私が高校を卒業して上京したことをきっかけに東京の寄席に時々出演するようになった。そんなときには10日間、父は私の部屋に泊まっていった。あまり話はしないけど、私は、甘いものの好きな父のためにお菓子を作って待っていたり、父は、当時、未成年のクセに煙草を吸っていた私にライターやシガレットケースをくれた。

 父は、私がクリスチャンになったことに関しては、無反応に近かった。ただ、私が行っている教会がどんなところか(変なところでないか)、確かめるために両親そろって教会の集会に出席してくれた。
 父は、私がクリスチャンになって、当時目指していた女優の道をあっさりとあきらめ、神様一筋になっていったことに関しては、実はショックだったようだ。後に、姉の進路のことで、家族会議になった時、父が「早樹には裏切られたからお前には(女優の道で)頑張って欲しい」と言うようなことを話すのを聞いて、「あー、そんな風に思っていたのか」と痛感した。しかし、そんなことは当時、顔には少しも出さなかった父である。
 クリスチャンになって間がない頃、両親にもクリスチャンになって欲しい、という話をすると、私が女優の道を捨てたことで、クリスチャンになったら芸人をやめなければいけない、と思ったのか、「わしが落語やめたら誰が食わしてくれんねん。神さんが食わしてくれるんか」と言ったことがあった。父が、信仰のことで私にきついことを言ったのは、この時だけだったと記憶している。

 母は、一番最初こそ「教会に行くのはいいことや」と言ってくれたが、私が急激に熱心になるにつれ、心配から、反対するようになった。最終的に両親は、「信仰の自由」が憲法に守られていること、私がもう20歳になっていたこと、この2つの理由で、容認してくれた。
 しかし、数年して神学校に行きたい、と言った時にはさすがに「賛成できない」と言われた。シスターにでもなるようなイメージがあったのかもしれない。家の中で気まずい空気が流れた。話は膠着状態だったけれど、私の決心は変わらなかった。私は、両親に長い手紙を書いた。
 その頃、父は健康診断でちょっと引っかかり、再検査が必要と言われていた。更にはちょっとした段で足をひねり足の甲の骨を骨折した。
 ある日、高校時代に痛めたひざに水がたまっていた私と父は、一緒に近くの整形外科に出かけた。診療時間の少し前についてしまい、外で少しの間待っていた。私と父は例によって黙って立っていたのだけれど、その時父がポツリと言った。「あの話、神学校の事な、今晩話しなさい」
 その晩、神学校の話を切り出した私に、両親は、「認めることはできないけれど、もう立派な大人なんだから(当時私は24歳だった)勝手に行くなら、仕方がない。その代わり経済的なことも含めて、途中でやめることになっても、どうなっても知らないから」と母に言い渡された。
 私たちは基本的にとても仲の良い家族だったし、まして、家庭に恵まれなかった父にしたら、家族がいつまでも反目しあった状態は嫌だったのだろうと思う。

 父が最初に脳塞栓で倒れたのは、私が9月から神学校に入学することが決まった年の8月だった。父は奇跡的に回復し、退院することができた。その8月、父の看病に疲れたのか、母も、胆のう炎で腹膜炎寸前で入院。私は神学校に入学できるかどうかの瀬戸際に立たされたが、叔母(母のすぐ下の妹)の助けを始め、多くの人の助けもあって、何とか入学することができた。

 母は、キリスト教に限らず、どちらかというと宗教好きな人だった。姓名判断や方位、暦、何でも気にする人だったし、観音様や荒神さんにもよく参っていた。その代わり、私の話(キリスト教・聖書の話し)もよく聞いてくれた。父はいつも黙っていた。
 それでも時折、「高山右近の洗礼名、知ってるか、ジュスト言うねんて」とか、落語に出てくる「崇禅寺」に細川ガラシャ夫人の墓があることを教えてくれたりした。

 阪神淡路大震災の起こる直前の正月に私たちは、家族で九州へ旅行をした。脳梗塞で一人暮らしができなくなり同居するようになった父の母と(私にとっては祖母)私たち家族4人と車で(フェリーで)行った。水曜にかかるので(水曜はいつも私が教会の祈祷会に出席する日だった)、教会のあるところなら良いと、私が言ったので、鹿児島の長島、出水近辺に出かけた。長島に、よく知っている教会があったからだ。その時、長島で焼き物をしておられたKさんご家族を訪問した。
 若い時に少しだけ焼き物と関わったことのある父は、Kさんと打ち解けて話していた。父が私以外のクリスチャンの人と、フレンドリーに話すのを始めて見たような気がする。自然体でクリスチャン生活をしておられるご家族の姿にも好感を持ったようだった。
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# by s_soranotori | 2003-11-24 00:00 | 信仰・証し

Challenged Person

 最近、よそのサイトで「Challenged Person」という言葉を使ったのですが、いまいち理解してもらえていないかも、と思ったりもするので、こちらのサイトに、少し書いておこうと思いました。

 「Challenged Person」というのは、従来「障害者」と呼ばれていた人々のことです。
近年、「障害者」の「害」の字が持つイメージの悪さから、「障がい者」と、「がい」をひらがなにしたり、「障碍者」という字を使ったりする事が見られるようになってきました。
英語では、「Handicaped Person」と言われていたので、日本でもその言葉が用いられたりするようにもなってきました。

 近年、更に、もう少し積極的な見方、言葉が使われるようになってきて、冒頭の「Challenged Person」という言葉が使われるようになってきました。
私としてはこの言葉が非常に気に入って使わせてもらっています。
 意味としては、「(神様から)特別にチャレンジを受けた人々」というような意味です。
 もうずっと以前のことで、何という人だったか、また詳しい内容も忘れましたが、京大の教授をしていた方の新聞記事が印象的でした。それは、「『Challenged Person』(その時この表現は用いられていなかったかもしれませんが)は、一般に体が不自由だと思われているが、自分たちに与えられた体の機能をフルに生かして用いていて、むしろ、健常者と呼ばれる自分たちより、独創的な、従来のイメージにとらわれない身体の使い方をしているのではないか。むしろ、画一的な使い方しかしていない自分たちの方が不自由なのかもしれない。」といったような内容だったと記憶しています。
 その意味で私たちのほうが「Challenged Person」にチャレンジを受けているのかもしれない、と思ったりするこの頃です。
 その私でも、「ハンディキャップを持っているのに、こんなに頑張っておられる」という見方をしてしまうことが多々あります。もちろん、現実の生活の中で、不自由な面もおありでしょうが、それをごく当たり前のこととして生活しておられる方々を目の当たりにする時、もっともっと自分の認識を変えていかなくては、と思うことがあります。
 以前、千葉県にあるバリアフリーの教会に伺ったとき、私は昼食を持参していなかったのですが、、重度障害で箱型の電動車椅子に乗っておられた姉妹が、さりげなくサーっと出て行かれ、しばらくすると向かいにあったスーパーで、何人かのお弁当を買ってきてくださったことがありました。
 その教会の先生も重度障害を持っておいでですが、自分でできることは自分で、福祉制度を利用できるところはどんどん利用し、できないことは近くの人にごく普通に「お願いします」といわれるのを見て、本当にすがすがしく、自然体で生きておられる皆さんの姿にたくさんのことを教えられました。

 ところで、私もある意味では「Challenged Person」です。私の場合は、外見上は何も分かりません。内科疾患だからです。膠原病の内の「混合性結合組織病」と呼ばれる特定疾患(いわゆる難病と呼ばれるもの)です。
 日常、それほど困ることはありませんが、人より疲れやすく、できることに限界があります。とはいえ、現代人はみな疲れているようですので、自分でもこの疲れのどこからが病気のせいで、普通の人はどの程度疲れているのか?と思うこともしばしばです。しかし、友人たちの生活を垣間見るにつれ、やっぱり自分は健康な人には及ばない面が多々あるなぁ、と感じることがあります。
 牧師家庭で、子供を保育園に預けることはそう多いほうではないかもしれませんが、私は子供を1歳から保育園に預けています。平日お会いした方に子供のことを聞かれて「保育園に預けています」と言うと「え?保育園」と言われたことがあります。9時から5時まで、と言うと「そんなに長時間」と思われる方もあるようです。
でも私にとっては、必要なことなのです。
また、子供にとっても、母親の病気のせいで十分に外遊びをさせてもらえなかったりするよりは、むしろ良いのではないかと思っています。
 幸い、娘・詩音は良い保育士の先生方に恵まれて、のびのびと育ってくれています。

 ただ、人にこの病気のことを理解してもらうのは非常に難しい面があります。症状にこれといった特徴がないからです。「どんな症状なんですか?」と聞かれても私自身、なんだかよくわかっていなかったりもします。
 ただ、私の場合、「レイノー症」と言って寒いと手指など、血行不良で末端部分が紫と言うかそれを通り越してどす黒くなってしまう症状があります。
 普段病気のことを話してもなかなか理解してくださらない方も、この症状を見ると「大変ですねぇ」と言ってくださいます。
 実は、私にとっては、それ自体、それほど大変なことではありません。それによって、指先に潰瘍ができたりすると少し問題ですが、レイノーそのものは暖かいところに少しいればすぐに元に戻ります。
 しかし、私はいつもこのことを通して人は目に見えるものにいかに左右されるか、ということを教えられます。見えないものは分かりにくく、見えるものを通して評価してしまう、ということです。
 私自身も、その傾向がないわけではないので、注意しなければ、と思う毎日です。

 ただし私は、この病気を神様からの恵みだと思っていて、はっきりと病名が分かっているために、しんどい時には休みやすいし、怠け者の私は、堂々と寝ていられることに感謝していたりします(^_^;)。
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# by s_soranotori | 2003-11-18 00:00 | 雑感

辻谷氏のサイトから

 今日、ふと思いついて辻ちゃんのサイトのQ&Aを全部読んでみました。
 考え方としては、非常に共感できるものが多かったです。
 というか、ほとんどそうかな。
 世代も同じだし、なんか、感覚的に、すごく近い気がしました。
 仕事とかそういうのを全部ひっくるめて、人生にとって大切なことは「どう生きるかだ」みたいなところとか。

 その中で、一つ、興味深かったことがあったので、関連記事を(といっても内容的にはあんまり関係ないんだけど)、書いてみました。

 それは、Q55の「今声優業界が求めている人材はどのような・・だと、お考えですか?」という質問への回答。
《質問の角度を変えて、僕がどんな役者さんと共演したいか・・で言えば、
「空間を感じさせてくれる役者」ですね。(後略。詳細は辻谷氏のサイトを見てください)》
 その回答を読んでいて、落語という世界と非常に通じるものがあると感じたんですよね。

 本来落語家、ってそういう空間を感じさせる人じゃないといけないんですよね。
 落語の場合、リアルな間取りというよりも、通常舞台装置的なルールがあるんですけども(例えば入り口は下手〈舞台に向かって左手〉とか)、いずれにしても、装置は何もなし、扇子と手拭だけで、後は右向いて左向いて表現しなくてはならない訳です。
 例えば落語の冒頭によく出てくるこんな台詞、
喜六「こんにちは」
清八「よぉ、きーこやないか、まあこっちあがり」
喜六はどこでこの台詞を言ってるのか、まあ大方は玄関というか、長屋の戸口でしょうけど、間口はどれくらいなのか、そこから相手までの距離はどれくらいなのか、喜六はどんなものを着て、どんな生活をしている人なのか、などなど。
 ものの飲み食いも扇子、手拭、しぐさだけで表しますけど、自分がどんな大きさの茶碗を持っているのか、お酒を飲んでいるのはお猪口か湯飲みか、なんてことも表現できないといけない訳です。
 また、時代考証なんかも結構ややこしいんですよね。というのは、落語の成立が江戸時代で、ネタが、江戸時代にできたもの、明治、大正、昭和にできたものと色々あるからなんです。お金の単位や、生活スタイルなど、それによって大きく変わってきます。
 でも、実際落語そのものは、そんなこと考えなくても、できるものなんですよね。
 で、最近はそういう細かいことを考えないで演じてしまう人が多いのかな、なんて思うことがしばしばあります(勿論、別に全部という訳じゃありません)。それでも結構面白かったりするのです。
 でも、まあ、身内のこというと手前味噌みたいになりますけど、ウチの父は、そういうところ、すごく細かい人で、「落語は究極の一人芝居」といつも言っています。
 そういう意味では、きちんと演出とかしてるんですね。舞台装置がいつもきちんと自分の頭の中にあって、どんな衣装で、とか。もちろん、演じるネタによって当日の衣装を選ぶのは落語家にとって常識的なことですが、登場人物一人一人の身形や、詳細まで頭の中できちんと描いている訳です。で、あるときは喜六が主役、別の時は清八サイドが中心、とか、変えて演じることができる。ウチの父も元々役者志望で、落語家になろう、と思ってなった訳じゃなくて、先代桂春団治師匠にスカウトされて落語家になった人なので、そういう意味では余計、芝居的要素が強いのかもしれませんが。
 そういう話をいつも聞いていたので、辻谷氏の文章を読んだ時に、大きく頷いた私なのでした。
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# by s_soranotori | 2003-11-14 00:00 | 雑感
 去る、10月26日、両親がバプテスマを受けた。ものすごく嬉しかった。神様の素晴らしい恵みだった。
 でもそれだけでは終わらなかった。
 当日、当事者は礼拝の中で、証しというものをする。イエス・キリストを信じたいきさつとか、バプテスマを受ける決心をしたいきさつなどを語る。
 ところで、私の父は、プロフィールの欄に書いたとおり、落語家だ。言ってみれば話すことのプロだ。私はそれをすっかり忘れていた。証しとはどんなことをすればよいのかは説明したけれども、どれくらいの時間で話せばよいかを言い忘れていたのだ。
 父が証しを始めたとき、私は「しまった!」と思った。時間制限を伝えるべきだった、と思ったがすでに時遅し。父は語りだした。しゃべるしゃべる。歌まで歌いだす始末。信徒の皆さんはそれなりに楽しんでいるようだが、私は気が気ではなかった。牧師(私の夫)のメッセージの時間がなくなってしまう。用意したビデオも残り時間が少なくなってきた。
 私は父の証し中、母子室(教会堂の一番後ろにあるガラス張りの部屋)で、何度か思わず立ち上がり、「マキ」の合図をした。父はその度に、「ちょっと長くなりますが説明をしないと分かりにくいので」とか何とか、言い訳をしていた。しばらくは、簡単に話そうとしていたが、しばらくたつと元のペースに戻る。
 普通の人は、証しというとたいてい緊張して、書いたものを読むだけなのだけれど、父は、何も見ないで話す癖がついている。講演会では90分話すのが通例だ。落語のネタならばそれなりの枠があるけれども、フリートークは話そうと思えばいくらでも話せる。
 私は最低でも3回は「マキ」の合図を送った。証しは35分くらいはあったと思う。終わった時にはホッとした。
 礼拝後、今度はバプテスマ式。
教会の前の小さなスペースにバプテスマ槽を置いてのバプテスマ式。通常、私たちの教会では琵琶湖でバプテスマ式をするが、父は、病気で体が弱っているし、歳だし、もう水も冷たくなっているから、と、教会でのバプテスマになった。
 式の最初に賛美をしていると、父は、さりげない顔をしてバプテスマ槽に手を入れ水温を確かめていた。「ちゃんとお湯にしてあるってば!」と心の中で叫びながら、子供みたいな父がちょっとおかしくなった。
 そしていよいよバプテスマ、いわゆる洗礼のことなのだけど、全身をお風呂みたいなバプテスマ槽に沈める。牧師が、(水が入らないように)「鼻をつまんでください」と言っているのに一生懸命両耳に指を突っ込む父。これにはさすがに笑ってしまった。牧師が何度も「鼻を・・・」と言っているのにそれでも耳に指を突っ込んでいる。さすがに見かねた私は「お父さん、鼻、鼻」と小声で(でもみんなに丸聞こえ)叫んだ。
 父のバプテスマが無事終わり、母の番。その間、父は、ぬれたバプテスマ衣から着替えるために、用意された小部屋に。その場所が問題。バプテスマ槽のちょうど真後ろにあったのだ(写真で母の後ろに見えている茶色いのがドア)。にもかかわらず父は、ドアを開けたまま、悠然と着替えを始めた。
バプテスマ衣を脱ぎ、下に着ていたシャツを脱ぎ・・・。その姿は教会員の皆さんに丸見え。前で母のバプテスマ式を行っているので、私は「ドアを閉めて」と叫ぶ訳にもいかない。
 結局、父がパンツ一枚になる寸前、私はドアを閉めに走った。何とか間に合った。
 あとでビデオを見ると、バプテスマ槽の前に立っている両親は、とても落語家風夫婦には見えず、お豆腐屋さんの夫婦みたいだった。なんだかとてもアンバランスで、家族で大笑いしたことは言うまでもない。
 私がクリスチャンになって20年、感動のバプテスマ式になると思っていたんだけどな・・・。
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# by s_soranotori | 2003-11-12 00:00 | 信仰・証し

神の真実な導き

 素晴らしい救い主、イエス・キリストの御名を心から賛美いたします。
 落語家の家に生まれた私は、高校卒業後、上京して演劇の専門学校に入りました。私は、芸能人の家庭に育ったことで、「普通」という感覚が人と少し違っていたのではないかと思います。芸能人の家に生まれ、芸事に親しんできた私としては芸能界を目指すことはごく自然なことでした。会社員の家庭に育った方には会社員になることは普通でしょうが、私には会社は何をするところかわかりませんでした。OLになるより、芸の道に進む方が普通だったのです。
 私は中学生の時に、三重苦の偉人、ヘレン・ケラーの子供時代を描いた物語「奇蹟の人」という芝居を見てから、新劇を目指すようになっていました。その芝居に感動した私は「こういう素晴らしいことを人々に伝えたい!」と思ったものでした。また、父は芸人ではありましたが大変真面目な人で、私は、目標を持って生きるということ、人道的に、道徳的に生きることを、小さい時からよく教えられていました。それで私は、芝居を通して、良いことを人に伝えたい、イデオロギーのしっかりしたお芝居をしたい、と思っていたのです。
 演劇の専門学校はとても楽しいところでした。毎日好きな芝居のことばかりを考えて、アルバイトをしたお金で芝居を見たり、ダンスや歌のレッスンに通ったりできたからです。
 しかし次第に、私は苦しさを覚えるようになってきました。時々自分の中がカラカラの空き瓶のようになっていることに気付いたのです。何かを伝えたいと思っているのに、それが何だか良くわからないのです。当時の私はヒューマニストであり、人間の愛の力といったようなものを信じていました。しかし、自分という人間が、自分で思っているほど良くはないということがさらけ出されていく中で、人を信じたいのに信じられなくなっていきました。そして自分の中に何かしら空虚なものを感じるようになっていったのです。こんな私にいったい何ができるというのでしょうか。
 そういう時に、以前行った、ある教会のことを思い出したのです。演劇学校の卒業が間近に迫っている20歳の頃でした。私はいつも電話をかける度に教会に誘って下さっていた一人の婦人に電話をしました。
 その婦人は、教会に行く電車の中で、イエス・キリストが私の醜い心を知っておられ、そういう罪深い私のために、十字架に掛かり、3日目によみがえってくださったという事実、そしてそれを信じるだけで罪が赦され永遠の命が与えられるということを教えて下さいました。そして私はその時すぐにそれを信じました。自分の心の醜さを十分実感しており、人間にはそこから抜け出す力がないことを知っていたからです。理想はあっても汚い競争社会に生きることに限界を感じていた私は、その時変えられ、平安を持つことができたのです。
 イエス様を信じた瞬間から、私の人生は変えられました。以前は、何を伝えるべきか、それは曖昧なものでした。しかし信じてからはイエス・キリストにゆだねられた福音という、伝えるべき真理を知っています。私は、有名になること、人に褒められることを捨てて、イエス・キリストをのべ伝えたい、それも舞台の上から大勢に語るのではなく、一人一人の人に伝えていこうと思いました。それから私は、自分の全てをイエス様にお任せする決心をしました。イエス様の導いてくださる通りに歩む決心、そして自分の全てを神様のものとして歩んで行く決心をしたのです。イエス様が遣わして下さるなら、国内開拓でも海外宣教でも、とどめられれば教会の奉仕者として、ただ、自分自身をささげ、従って歩んで行きたいと願いました。
 しかし、それからの歩みが、全て順風満帆であったという訳では決してありません。私があまりにも急激に教会に熱心になっていく様を見て心配した両親は、東京から郷里の西宮に私を連れ戻しました。そして私は、会社に勤めながら教会生活を送るようになりました。それはそれで楽しい毎日でした。しかし最終的な平安のなかった私は数年後、御言葉の学びのために神学校に入学しました。反対する両親を説得し、神様の導きに感謝し、喜んで意気揚揚と神学校に入学しました。しかし、4年の学びを終え、神学校を卒業してもその後の働きについて何の導きもなかったのです。私は神学校や宣教のための事務局で働いていましたがそれが自分の最終的な働きだという確信がどうしても持てませんでした。神学校を卒業して10年近くの間、自分のいるべき働き場を求め続けていました。
 そしてようやく、昨年、結婚によって世界福音伝道団に導かれ、牧会伝道の働きに携わらせて頂くようになりました。実に私が最初にイエス様に全てをおささげしてから18年近くの歳月が過ぎていました。この長い期間中、何度も「なぜ?」と思いましたが、今、これらの期間は私にとって必要な訓練の期間であったことを知り、神様に感謝しています。
 弱さも醜さもまだまだ持っているこんな私に、多くの方にイエス様の素晴らしさをお伝えするという働きが委ねられていることを、心から感謝しています。そして、信仰を持ってから18年、ここまで真実に導いて下さったイエス様に、全てをお委ねしてこれからも歩んで行きたいと思います。

「それは、偽ることのない神が、
永遠の昔から約束してくださった
永遠のいのちの望みに基づくことです。
…私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、
ゆだねられたのです。」
テトスへの手紙1章3節

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# by s_soranotori | 2001-08-01 00:00 | 信仰・証し