淋しかったあの頃…
2006年 06月 24日
わたしが救われた(クリスチャンになった)教会にはすごく素敵な女性がいた。
綺麗で、頭も良くて、賜物(才能)があって信仰があって、男性にモテモテで、女性からも好かれていて…。
その人は結局、これまたすごく人気の高く、優秀な人と結婚した。
わたしが救われたのは東京のまあ、ちょっとはずれにあった教会だけど、垢抜けた人が多くて、素敵な女性が多かった。
わたしはすぐに郷里に戻ることになって小さな教会に行くようになったけど、救われた教会の人たちはいつまでもわたしの憧れのクリスチャンだった。
素敵な人たちが結婚して行く中で、わたしも結婚したくてしたくてしょうがなかった。
でも自分は、美人でもないし、信仰も未熟だし、人の目を引く賜物なんてないし、頭だって悪いし…。
わたしが努力してもっともっと素敵な女性になったらその時、神様は伴侶を与えてくださるのだろうと思った。
でも、いつまでたっても素敵な女性になんかなれなかった。
♪かもめはかもめ 孔雀や鳩や
ましてや 女にはなれない…(「かもめはかもめ」by中島みゆき)
そんな風に愛されることを諦めたこともあった。
でもね、そのうちに、すっごい素敵だと思っていた人たちも、普通に「人」なんだ、って知るようになっていった。
それでも、それを知ったからといってわたしのことを愛してくれる人が現れたわけじゃないけれど。
淋しくて淋しくて死にたくなるような時もあった。
失恋だってしたし。
何度も実らない恋をして、もう誰も好きになることなんかできないと思ったこともあった。
そしてやっぱり美人が羨ましかったし、頭脳や才能のある人が羨ましかった。
楚々として、男性が思わず支えたくなるような人も羨ましかった。
わたしは仕事や勉強をすることでしか、自分を認めてもらえないような気がしてそれなりに頑張った。
でもそれだけを生きがいにすることもできなくて、色んな楽しみも追い求めた。
それでも自分の居場所が見つけられなくて、淋しかった。
時々、「自分はどうしてまだ生きているんだろう?」なんて考えた。
生きている意味なんかないような気がして。
自分が死んだら何人の人が泣いてくれるだろう、なんて考えた。
本当は、家族や友人たち、たくさんの人に愛されていることは知っていたけど、それでも、一人の人にとって「ただ一人の人」になりたくて、心はいつも泣いていた。
いつまでたってもわたしは素敵な女性にはなれなかった。
いつだって、今より少しはましな人間になりたいと願っていたし、わたしなりに精一杯生きていたのに。
神学校で働いて、「先生」って呼ばれたりもした。
教会で奉仕もした。
それなりに評価もされていたと思う。
でも、わたしの居場所はそこじゃなかった。
教会の牧師にまで「独身主義」だと思われていたらしい。
だって、一人でも平気な顔をしなくちゃやってられなかったんだもの。
♪仕事をしていて良かったわ
愛どころじゃないふりができる(「彼女によろしく」by中島みゆき)
そう、中島みゆきの歌がお友達だった。
もちろん教会に行ったり聖書を読んだり、そして祈ったりして神様に慰められたし、賛美を通して励まされもしたけれど、心の中は中島みゆきの世界だった。
そんな風にして一人が身に染み付いた頃、突然「時」がやってきた。
突然わたしの周りで何かが動き始めた。
気がついたら結婚することになっていた。
全然ドラマチックな出会いなんかじゃなかった。
全然思い描いたような人じゃなかった。
全然好きなタイプじゃなかった。
それでも、気がついたら恋に落ちて、愛する決心をしていた。
神様に「もういいんだよ、頑張らなくて」って、言われた気がして、「ああ、この人なんだ」って素直に思えた。
わたしは今でも全然素敵な女性にはなれなくて、今でも「かもめ」のままだけど、そのままで良いって言ってくれる人がそこにいた。
どうすれば結婚できるかなんて、わからない。
だって自分がどうして結婚できたかもわからないんだから。
「祈っていれば」って多くの人が言ったけれど、祈れない時だっていっぱいあった。
聖書を読めないときもいっぱいあった。
世の楽しみに逃避していた。
もちろん、心静かに「祈っていましょう」って思えた時もあった。
でもそう思えない時も一杯あった。
それでも、神様はわたしの心の願い、いや心の叫びに耳を傾けてくださった。
結局、神様の「時」まで待たなくてはいけなかっただけのことなのかもしれない、と今は思う。
独りならそれも良い、と思った。
それも受け入れようと思った。
神様は最善を成してくださると、ただ信じていようと思った。
そう信じ切れなくて辛いこともあったけれど、今は思う。
やっぱり神様は最善を成してくださると。
それは今、わたしが結婚しているからじゃなく、今、幸せだからじゃなく、あの辛かった時も、わたしにとっての最善だったのだと、今は思える。
あの時があったから、きっと今のわたしがあるのだと。
もちろん、その頃のわたしが真っ暗闇の中にいたわけじゃなく、それなりに楽しいこと、嬉しいこともたくさんあった。
それもこれも全部含めて、今のわたしを構成している訳だ。
結婚していなかったとしても、それが神様の御心ならそこに最善があったのだろう、と思う。
こんな風に書いても「それは今結婚しているからよ」って思われるのかなぁ。
ただね、結婚していても、子供のない人は「祈ったら」と言われ、一人産んだら「二人目はいつ?」って言われる。
子供が成長したら今度は、その子がどんな学校に行くか、どんな会社に行くかで人は、他人の幸せを計るのだろうか…。
幸せなんて、何かの条件を満たすことではないのにね。
わたしの幸せを一番良く知っているのは、わたしよりもきっと神様なんだと、わたしは信じたい。
綺麗で、頭も良くて、賜物(才能)があって信仰があって、男性にモテモテで、女性からも好かれていて…。
その人は結局、これまたすごく人気の高く、優秀な人と結婚した。
わたしが救われたのは東京のまあ、ちょっとはずれにあった教会だけど、垢抜けた人が多くて、素敵な女性が多かった。
わたしはすぐに郷里に戻ることになって小さな教会に行くようになったけど、救われた教会の人たちはいつまでもわたしの憧れのクリスチャンだった。
素敵な人たちが結婚して行く中で、わたしも結婚したくてしたくてしょうがなかった。
でも自分は、美人でもないし、信仰も未熟だし、人の目を引く賜物なんてないし、頭だって悪いし…。
わたしが努力してもっともっと素敵な女性になったらその時、神様は伴侶を与えてくださるのだろうと思った。
でも、いつまでたっても素敵な女性になんかなれなかった。
♪かもめはかもめ 孔雀や鳩や
ましてや 女にはなれない…(「かもめはかもめ」by中島みゆき)
そんな風に愛されることを諦めたこともあった。
でもね、そのうちに、すっごい素敵だと思っていた人たちも、普通に「人」なんだ、って知るようになっていった。
それでも、それを知ったからといってわたしのことを愛してくれる人が現れたわけじゃないけれど。
淋しくて淋しくて死にたくなるような時もあった。
失恋だってしたし。
何度も実らない恋をして、もう誰も好きになることなんかできないと思ったこともあった。
そしてやっぱり美人が羨ましかったし、頭脳や才能のある人が羨ましかった。
楚々として、男性が思わず支えたくなるような人も羨ましかった。
わたしは仕事や勉強をすることでしか、自分を認めてもらえないような気がしてそれなりに頑張った。
でもそれだけを生きがいにすることもできなくて、色んな楽しみも追い求めた。
それでも自分の居場所が見つけられなくて、淋しかった。
時々、「自分はどうしてまだ生きているんだろう?」なんて考えた。
生きている意味なんかないような気がして。
自分が死んだら何人の人が泣いてくれるだろう、なんて考えた。
本当は、家族や友人たち、たくさんの人に愛されていることは知っていたけど、それでも、一人の人にとって「ただ一人の人」になりたくて、心はいつも泣いていた。
いつまでたってもわたしは素敵な女性にはなれなかった。
いつだって、今より少しはましな人間になりたいと願っていたし、わたしなりに精一杯生きていたのに。
神学校で働いて、「先生」って呼ばれたりもした。
教会で奉仕もした。
それなりに評価もされていたと思う。
でも、わたしの居場所はそこじゃなかった。
教会の牧師にまで「独身主義」だと思われていたらしい。
だって、一人でも平気な顔をしなくちゃやってられなかったんだもの。
♪仕事をしていて良かったわ
愛どころじゃないふりができる(「彼女によろしく」by中島みゆき)
そう、中島みゆきの歌がお友達だった。
もちろん教会に行ったり聖書を読んだり、そして祈ったりして神様に慰められたし、賛美を通して励まされもしたけれど、心の中は中島みゆきの世界だった。
そんな風にして一人が身に染み付いた頃、突然「時」がやってきた。
突然わたしの周りで何かが動き始めた。
気がついたら結婚することになっていた。
全然ドラマチックな出会いなんかじゃなかった。
全然思い描いたような人じゃなかった。
全然好きなタイプじゃなかった。
それでも、気がついたら恋に落ちて、愛する決心をしていた。
神様に「もういいんだよ、頑張らなくて」って、言われた気がして、「ああ、この人なんだ」って素直に思えた。
わたしは今でも全然素敵な女性にはなれなくて、今でも「かもめ」のままだけど、そのままで良いって言ってくれる人がそこにいた。
どうすれば結婚できるかなんて、わからない。
だって自分がどうして結婚できたかもわからないんだから。
「祈っていれば」って多くの人が言ったけれど、祈れない時だっていっぱいあった。
聖書を読めないときもいっぱいあった。
世の楽しみに逃避していた。
もちろん、心静かに「祈っていましょう」って思えた時もあった。
でもそう思えない時も一杯あった。
それでも、神様はわたしの心の願い、いや心の叫びに耳を傾けてくださった。
結局、神様の「時」まで待たなくてはいけなかっただけのことなのかもしれない、と今は思う。
独りならそれも良い、と思った。
それも受け入れようと思った。
神様は最善を成してくださると、ただ信じていようと思った。
そう信じ切れなくて辛いこともあったけれど、今は思う。
やっぱり神様は最善を成してくださると。
それは今、わたしが結婚しているからじゃなく、今、幸せだからじゃなく、あの辛かった時も、わたしにとっての最善だったのだと、今は思える。
あの時があったから、きっと今のわたしがあるのだと。
もちろん、その頃のわたしが真っ暗闇の中にいたわけじゃなく、それなりに楽しいこと、嬉しいこともたくさんあった。
それもこれも全部含めて、今のわたしを構成している訳だ。
結婚していなかったとしても、それが神様の御心ならそこに最善があったのだろう、と思う。
こんな風に書いても「それは今結婚しているからよ」って思われるのかなぁ。
ただね、結婚していても、子供のない人は「祈ったら」と言われ、一人産んだら「二人目はいつ?」って言われる。
子供が成長したら今度は、その子がどんな学校に行くか、どんな会社に行くかで人は、他人の幸せを計るのだろうか…。
幸せなんて、何かの条件を満たすことではないのにね。
わたしの幸せを一番良く知っているのは、わたしよりもきっと神様なんだと、わたしは信じたい。
by s_soranotori
| 2006-06-24 12:00
| あの日を忘れない